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私たちの失われた愛と、失われた幸福なセックスについて

わちくんと付き合っていたのは、23歳の夏から24歳の秋までの、一年と少しのことだった。それが短いのか長いのか、振り返ってみるとよくわからない。私の人生で最も輝かしい季節であった気もするし、最も淀んだ時期であった気もする。

そのころ、私はまだ社会人になったばかりで、ぐらぐらする自分の支えになる何かを求めていた。そんなとき知り合ったのがわちくんで、これ幸いと身を預けたわけだ。預け先を間違ったと気がついた時には、もう遅かった。

わちくんとは、飲み会で出会った。会社の同期の女の子が、大学で同じサークルだった男の子に頼まれて開いた、いわゆる合コンだ。その男の子というのが、他でもないわちくんだった。

わちくんはきれいな顔をした人だった。手足と首が長くて、澄んだ茶色い瞳を持っていた。「チャーミング王子みたいなやつが来る」という前評判を聞いていた私は、彼の顔を見てなるほど、と感心した。

わちくんはすね毛も脇毛もあんまり生えていなかった。毛深い人が苦手な私は、初めて服を脱いだ彼をみて、少しだけ安心したのをおぼえている。でも、そんな優しげな見た目に反して、彼はなかなかに悪人だった。

「よく、あいつと付き合えるよね」
あずさちゃんはそう言った。あずさちゃんは、わちくんと同じサークルで、わちくんに頼まれて合コンを開いた、私の会社の同期だ。

「私、和地と付き合うとか無理だわ」
そう話すあずさちゃんは、本当はわちくんを好きなのだということを、私は知っている。あずさちゃんが大学生の頃、わちくんに二回告白したことがあるのだと、わちくんに聞いたのだ。

「俺にフラれた時の梓の顔、まじケッサク」
わちくんはそう言って笑った。部屋では尾崎豊の曲が流れていた。彼は尾崎豊の大ファンで、セックスが終わるとしょっちゅうベストアルバムを流し、煙草をふかした。そうすると私はいそいそと布団に顔を埋めて、副流煙から避難した。

あずさちゃんをブス、というわちくんだけど、二人が何度かセックスをしたことがあることを、私は知っていた。合コンに来ていた、木村くんに教えてもらったのだ。

「マナミちゃん、悪いことは言わないから、和地と付き合うのはやめといたほうがいいよ」と木村くんは言った。きっと親切な人なのだろう。だけど私はその忠告をまるっと無視した。もう、彼の顔も思い出せない。

わちくんとは三回デートして、三回目のデートの最後にセックスをした。わちくんはとても丁寧にセックスをする人だった。それだけで、弱り切っていたその時の私は、彼のことを愛してしまった。

道を歩いていると、わちくんはしょっちゅうつばだのガムだのを地面にはいた。
「やめなよ」とその度に私が言うと、少し嬉しそうな、悪そうな顔でニヤリとした。私はシモが緩い犬を見ているようで、ますます彼が愛おしくなった。この人には私が付いていてあげないと、と思った。

わちくんは手癖も悪かった。彼の部屋に遊びに行ったとき、私は小さな木のスプーンを発見した。滑らかで、使いやすいスプーンだった。
「これ、いいね。すき家のやつみたい」
するとわちくんは、なんでもないことのように言った。
「そうだよ、それすき家のスプーンだもん」
使いやすいからパチってきたのだと話すわちくんの顔を、私は唖然として見つめた。

そんなのは序の口で、彼の部屋は学食のコップだの、ファミレスのフォークだのといった、小さな盗品に満ち満ちていた。山のように出てくるそれらの品々を目にするたび、私は身震いして、棚の奥に押しやった。

だけど、わちくんにはいいところもあった。

そのころ、私は会社でお局のおばさんにいじめられていた。エクセルの計算式を一つ間違えると、おばさんは一時間も私に怒鳴り散らした。間違えないようにしようと思うと、かえって小さなミスが起こった。怒られる時間が一時間半になり、二時間になり、とうとう会社にいる時間のほとんどを怒鳴られながら過ごすようになった。上司は、「あの人は社歴が長いから、真面目な顔をしてやり過ごしたほうがいいよ」という、ありがたくもないアドバイスをくれた。

つらくて、家に帰ると毎日涙が出た。自分はなんてダメな人間なのだろうと思った。わちくんはその度に私をなぐさめてくれたし、存分に甘やかしてくれた。

いつか、いきなり家へやって来て、大きな毛ガニの入った袋を差し出したこともあった。
「これ、マナミ好きだろ」
どうやら、電車を乗り継いで、上野のアメ横で買ってきたらしい。
私は喜んですぐにカニを茹でた。お皿にのせてテーブルに出す。だけど、わちくんはそのカニに全く手をつけなかった。なんと、彼はカニアレルギーらしい。私が大きなカニを食べている様子を、彼はただ嬉しそうに見ているのだった。

「マナミは、これまで付き合ったどんなやつよりいい女だよ」
とわちくんは言った。彼が両手でも足りない数の女の子と付き合って、その何倍かの女の子とセックスをしてきたことを知っていたので、自分がとても特別な女の子になったように感じた。チャーミング王子みたいな男の子が、世界で一番私のことを愛してくれている。それはとても幸せなことに思えた。それだけで、私の心は幾分か救われた。

やがて、会社で異動があり、私はおばさんとは別の部署になった。たまに彼女のデスクのそばを通ると、私と同じような年頃の女の子が、同じように怒鳴られているのを見かけた。その女の子はすぐに休職をして、やがて会社を辞めた。

私は前ほどは、仕事に行くのが苦しくなくなっていた。わちくんとの関係も、穏やかなものになったように思えた。私たちはいろいろな場所でデートして、決まってわちくんの部屋でセックスした。

おかしいな、と気がついたのは、夏の盛りの頃だった。

わちくんは、スマホにはロックもかけず、暇な時いつも私にゲームをさせてくれた。だけど、いつからかごく自然に、彼は私に携帯を預けなくなっていた。

セックスは相変わらず丁寧だったけれど、それでもどこかおざなりになったような気がした。怖いもので、恋愛経験がそう厚くない私にも、女の勘は働くらしかった。

「やっぱりね。和地ってそういうやつなの」
あずさちゃんはそう言って、私をケーキバイキングに連れて行ってくれた。私はお母さんに黙って、こっそりお小遣いをもらった子供のような気持ちになった。

わちくんは、きっと私でない女の子ことを、好きになりつつあったのだろう。どうしてだか私にはそれがありありとわかった。きっと近い将来、わちくんはその子と丁寧にセックスをして、タバコをふかしながら尾崎豊を聞くのだろう。そう思うと、悲しくてやるせなかった。

最後にわちくんとセックスをした日、私は自分から「別れよう」と言った。

「それがいいかもしれない」と、しばらく考えてからわちくんは答えた。そう言うだろうと予想していながら、自分が傷ついているのがわかった。本当は別れたくない、と言って欲しかったのだ。そう気が付いて、なんだか笑えた。

私たちは楽しかったことや、幸せだった時のことを思い出しながら、懐かしく語りあった。それはつい最近の出来事のはずなのに、もう何世紀も昔の、伝記の時代のおとぎ話のように感じられた。

「俺、マナミとはいつか結婚するだろうって、ずっと思ってたよ」

わちくんはそう言って少し泣いた。本当は感傷的で、弱くて、優しい。そんなわちくんのことを、私は大好きだった。道にたくさんつばを吐いても、なんでも家に持って帰ってきちゃっても、あずさちゃんとセックスをしていても、好きだったのだ。

私たちは夕暮れの部屋で、尾崎豊のベストアルバムを始めから終わりまで聞いた。本当は、こんなふうにかっこつけるわちくんのこと、すごくかっこ悪いと思っていた。わちくんのベッドはセミダブルだから、シングルベッドじゃないし。わちくんは洋顔だから、尾崎豊って柄でもないし。

でも、私は意地悪だから黙っていた。今わちくんが好きになりかけている女の子が、わちくんの嫌なところをいっぱい見て、早く嫌いになっちゃえばいい。本当のわちくんのいいところ、全然気付かなければいい。できるだけ、わちくんが不幸になって、死ぬときに私のことを思い出して「あの頃が一番幸せだったな」って、「やっぱりマナミが一番いい女だったな」って、思えばいい。

そんなふうに、私はわちくんを呪った。もしかしたら、わちくんにはこれまで出会った女の子たちがもうすでに何度も呪いをかけていて、私たちの関係が終わってしまったのはそのせいなのかもしれなかった。あずさちゃんだって、きっと何度もわちくんを呪ったに違いないのだ。

尾崎豊の声が、暮れかけた秋の部屋に響く。もうすぐ最後の曲が終わる。私は心の中だけで、わちくんにお礼を言った。

ありがとう、わちくん。あなたがいなければ、私は人生で一番辛い日々を乗り越えることができなかった。

ふと、隣でタバコをふかす彼の横顔を覗き見ると、長い睫毛の下で薄茶色の瞳がきらめいた。さようなら、私の王子様。声に出さずにそう言うと、彼は横顔で微笑んだように見えた。


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