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延王尚隆の好きなところ20選

 新年あけましておめでとうございます!
 皆さまにとって、本年が幸福に満ちた充実した年になりますように。

 さて、今年の初投稿で、ずっとやりたいと思っていた、「十二国記」シリーズに登場する、延王尚隆について、私の思う好きなところを綴りたいと思います🌸🌸

 これ、ずっっっと、やりたかったんですよ…。
 というのも、以前の投稿でも普段のSNSでもしょっちゅう言及しているのですが、私は小松三郎尚隆という男に心底惚れ込んでいます…!!!!!

 これまで、色々なところで時を変え場所を変えて話したり綴ったりしてきたこの延王尚隆について、一度自分なりに好きなところを纏めておきたくて。

 と、言っても、この人本当に、魅力が深すぎて、あまりにも深すぎて、そして考えれば考えるほどに新しい魅力を発見してしまうので、とても全部は語り切れないのですが。
 語り切れないからこそ、一度どこかでできるだけひとつに纏めてみたいと思っていました。1回纏めてみたら、また現状で拾いきれていない部分も見えてきて更に深まるんだろうなと思って。それってとっても楽しいです🌸

 と、いう訳で、やってしまいます!!
 以後、ただひたすら、あれが好きこれが好きと言い続けるだけの記事ですので、その前提でよろしくお願いいたします。笑


 ドドーン!!
 頑張ってキリ良い数字に纏めてみました!!

 私の思う「延王尚隆の好きなところ20選」!!!




① 心から民想い


 まずはここからいきたいですね。
 とにかく民が第一!な人であることが大好きです。
 王として、為政者として、あまりにも理想的な人で、しかもそれが自然で、「そうあるべき」ではなく、心からそう思っているのだと伝わってくるのが堪らなく大好きなのです。

 尚隆の台詞には名言も好きな台詞もたくさんあるのですが、好きな台詞を1つ選べ、と言われたら、私は「民は俺の身体だ」を選びます。
 良い台詞はもちろん他にもたくさんあるのですが、私は、この言葉が1番、尚隆の信念というか、彼の根幹にあるものだと思っているのだと思っています。

「俺の首ならくれてやる。首を落とされる程度のことが何ほどのことだ。民は俺の身体だ。民を殺されるは身体を刳られることだ。首を失くすよりそれのほうが余程痛い」

新潮文庫「東の海神 西の滄海」P.239


 いや…辛いシーンでもあるのですが…けれども私は、この言葉を本心から言っている尚隆が大好きなのです。

 十二国記の30周年を記念して発売された十二国記ガイドブックの中でも、尚隆の人物紹介のところで「民は俺の身体だ」がピックアップされていて嬉しかったのを覚えています。
 公式の企画者さんや編集者さんの中にも、この台詞を尚隆を象徴する台詞と捉えている方がいらっしゃるんだろうなあ…と、勝手なことを思って嬉しくなりました。

 小松の民に自分たちを囮に逃げるようにと言われて激昂するシーンですが、この激昂ぶりで出てくる言葉だからこそ、尚隆の本心からの言葉なんだろうな…と思えてより一層心に深く刺さるものがあります。
 このあとすぐに、尚隆は立ち上がって泰然とした振る舞いに戻るんですよね…。その描写も、彼の泰然とした振る舞いは周囲のために意図的に心がけているものであること、激昂して発した「民は俺の身体だ」が心からの本心であることが伝わってくる、とても印象的で好きな描写です。

 同じように、尚隆が怒るシーンって、いつもいつも民のためを想い、民が大事だからこその怒りだというところが大好きです。
 これは過去の投稿でも何度も書いてしまっているのでしつこいのですが、しつこくなってしまうほど、私は本当にこの部分が好きで堪らないのだと思います。

 小松の民に自分たちを囮に逃げてくれと言われた時、雁の民である更夜に「全部滅んでしまえばいい」と言われた時、六太の行動に伴う責任を自覚させるために咎めた時、陽子に雁を最優先にするがゆえに他国の事情に踏み込むことに消極的だったことを非難された時…。どれも全部、尚隆が怒りを見せるシーンは、“自分の民のため”という原動力が一貫しているんですよね。
 ここまで一貫しているということからもまた、「民は俺の身体だ」という信念に偽りがなく、そして何年経ってもその信条がブレていないということが胸に迫って、そのあまりの愛情深さと信念の強さに圧倒されるのです。はぁ大好き……。

「国が滅んでもいだと?死んでもいいだとぬかすのだぞ、俺の国民が!民がそう言えば、俺は何のためにあればいいのだ⁉」

新潮文庫「東の海神 西の滄海」P.293

「俺はお前に豊かな国を渡すためだけにいるのだ、……更夜」

新潮文庫「東の海神 西の滄海」P.294

「亦信と驪媚と子供と。少なくとも三人だ。俺の身体を三人分、お前は刳り取ったに等しいのだぞ」

新潮文庫「東の海神 西の滄海」P.331

「——俺は雁の王だぞ」尚隆は声を荒げる。「無論、雁大事だ、それが悪いか。俺はそのためにいるのだからな」

新潮文庫「黄昏の岸 暁の天」P.259,260


 良いですよね本当に…「俺はお前に豊かな国を渡すためだけにいる」と「俺はそのためにいる」がリフレインになっていて、500年近く経ってもこんなにさらっと言葉が出てくるくらいにその信条が何も変わっていないんだなって……。

 心から民を大事にしているから、同僚とも言える他国の王にだって、当の本人である民自身にだって、絶対に、「自分の民を蔑ろに扱うこと」を許さず、それを感じた時には、普段の温厚さとは対照的に、声を荒げて怒るのです。
 私はこうした尚隆の怒りのシーンに、心から民を想っている偽りのなさを感じます。怒りという、感情むき出しになるシーンでこそ、民を想う言葉がこうもストレートに出てくるというのが、この人の本心は、心の真ん中にあるものは、“民を想う心”なのだなと、敬愛が尽きません。

 ここまでぶれることなく、“民のため”を揺るぎない、心からの心情としているところが、やっぱり私の場合は、まず最初に出てくる尚隆の好きなところです。


② 優先順位のつけ方


 それでですね、このお方、“民が第一”という信条がぶれないからこそ、大事にするところと諦めるところの優先順位のつけ方がうまいな、と思っています。
 これがまた大好きなポイントです。

 まず、何と言っても登極してから、先王時代や空位の時代に専横を極めた官吏の処分や整理よりも、民を富ませること、土地を耕すことを優先した手腕です。
 その際も、税をくすねるくらいの小悪党は放置しながら、民の生活に直結する役職には自身の見出した数少ない貴重な優秀で心ある官吏を置く、という優先順位をつけています。

 すべてを放置することもできないし、すべてを一気に解決することもできない。
 それを呑み込んだ上で優先順位をつける割り切りや、その優先順位のつけ方の価値観がすごく好きです。
 とても共感できる価値観で、ただそれを実際に貫いて実行するって中々難しい、そういう優先順位のつけ方だなと思うのです。
 それを実行できる尚隆が好き。

 王宮の見栄えや歴史、威信よりも、民の生活を優先するべく王宮の装飾を解体して売り払った描写も大好きで、それでも時間がかかりすぎる上に反発も大きいであろう官の整理は放置した、というバランス感覚が見事で唸ってしまいます。官の狼狽をよそに、装飾の解体を「やれ、の一言で命じた」という描写もかっこよくて好きですね。容赦なくて痺れる。

 おおらかなところとシビアなところのバランスもとても好きです。正義感や国を憂うゆえの焦りや憤りから自分に反発した臣下を咎めるのではなく、見どころがあると重用し、臣下からぞんざいに扱われることも気にしない。けれども国や民の一大事となれば独断専行で強行に物事を進めるところもあるし、一方で説明を求められれば説明もする。
 「別段、罵られて気になるわけではないが」と言う鷹揚さの直後に、「雁国八州、これは王の臣ではない」と断言する容赦のない冷静さを見せてくるあたりの、この人の気にするところと気にしないところの選択の仕方がとても好きなのです。

 王朝初期に州の実権を停止したのは戦を防ぐため。官吏の整理をしばらく放置したのは民の生活水準の向上を優先するため。その選択のリスクを分かって呑み込んだ上で、何を優先しているか、という判断基準と、優先しているものから、尚隆という人間の人間性が浮かび上がってくるようで、私は尚隆の優先順位のつけ方が大好きです。

 戦を防ぎ、土地を耕す。民の命と生活を何より大事にしているのが判断や行動の優先順位からはっきり見えるんですよね。
 『東の海神 西の滄海』で、元州の乱に際して、民が王を支持して王師に5万人も加わったのは、尚隆が“民の命と生活を第一”とする政治を行っていることが、民に対して生活の実感としてしっかり伝わっていたからだと思います。
 民にも、読者にも、ちゃんと伝わるくらいに尚隆の価値観や優先順位が行動に反映されているのだと感じます。

 先に挙げた「無論、雁大事だ、それが悪いか。俺はそのためにいるのだからな」という言葉も、自国の民を第一にする、という優先順位の揺るぎなさを感じて、そうした観点からもたまらなく大好きな台詞です。
 だってねぇ…優しい人だから、救える限りのものは救いたいと思っているはずなんですよ…。それでも、自国の民の命と生活を大事にするために、優先順位を見誤る訳にはいかないのです。何を第一に優先して大事にすべきか、ということについての信念の強さ、痛みも誹りも引き受ける姿勢に、人としての大きさ、為政者としての覚悟を感じます。

 優先順位をつける、それを見失わない、って、とても難しいことだと思うのです。
 人はどうしても、色々なことに目が行って、惑わされてしまうものだと思うので。

 六太を叱責した尚隆の、「麒麟は慈悲の生き物というが、慈悲を与える相手を間違えていないか」という言葉も、尚隆の迷いなく揺るぎない優先順位を感じて大好きな台詞です。

 そして、自分の中で、大事なものが何か明確に分かっているからこそ、柔軟に、謙虚に、良いと思うものは躊躇いなく取り入れられる尚隆が好きです。

「真似すんの?やだねー。志低くって」
「なに、国が富めばそれで良かろう。指摘されたら、ぼんくらだから猿真似しか能がないと言ってやろう」

新潮文庫「東の海神 西の滄海」P.339


 この柔軟さ、決して威張らず驕らない腰の低さ、こうした部分も、「国が富めばそれで良かろう」という、確固たる優先すべきものが見えているからそうあれるのだろうと感じて、この尚隆の台詞もとても好きです。
 芯が揺るぎなくしっかりしているから、外側は柔らかく腰が低くいられる。本当に、何て素敵な人。

 心から大事なものを分かっているからそれを見失わない、だから優先順位もいつでも揺るぎなく持っている、尚隆のそういうあり方は、私にとって、見習いたいと思うものです。
 (今年の目標の1つ!優先順位を見失わない!)


③ 人を安心させるおおらかな振る舞いと発想の転換


 3つめ!
 これも過去の投稿で何度も書いてしまっていますが、“人を安心させる”振る舞いと発想ですね。
 もうこれも個人的に、かなりサビで。(サビばかりでは)

 人を安心させる言動を取れる人、大っっっ好きなんですよ……。

 まあ~~この部分引用するの何度目?って感じですが、ちょっと序盤はどうしても、自分にとって特に好きな部分を多めに配置している都合上、過去の投稿と内容が被るのは致し方ないのでお付き合いください。


「見事に何もないな」
 六太はただ頷いた。
「無から一国を興せということか。——これは、大任だ」
 一向に難儀を感じていない調子でそう言う。 「これだけ何もなければ、かえって好き勝手にできて、いっそやりやすいことだろうよ」
 男はあっけらかんと声を上げて笑った。
 六太はうつむいた。なぜだか、泣きたい気がしたからだ。
 どうした、と訊いてきた声が大らかで温かい。六太は深く息をついた。押し潰すほどの重量で肩に伸しかかっていたものがあったことを、やっと知った。それが消え去ったいまになって。』

新潮文庫「東の海神 西の滄海」P.26

 
 本当~~~に!!大好きです。
 人を、安心させるために、笑うんですよ。

 滅亡の危機に瀕したとも言われた荒廃の広がる国を見て、その国を治める責任の重さも途方もない道のりも分かっていて、それでも、隣に立つ、同じ重責を背負ってきた、まだ13歳の六太のために、何も気取らせない様子で、泰然と笑うんです。
 もう、この人の、こういうところが、本当に心から大好き!!

 そして、飢えて、荒れて、「何もない」と表現される荒廃という、普通に捉えたら悲観的に見てしまうであろう状況を、「かえって好き勝手にできて、いっそやりやすい」と、良い面を見つけてそちらを見ようとする姿勢。その発想、頭の良さ、考え方、物事の捉え方、全てが大好きです。そしてこれも、六太を安心させ、自分を奮い立たせるために意図的にやっているのだろうな、と思うと、何て強くて優しい人なのだろう、と感じるのです。

 この、物事に対して良い面を見つけてそちらを見る、という発想の転換は、どんな状況にも希望を見出す力を持っていると思います。
 いつだって、どんな状況だって、希望を見つけて笑う人。
 そしてそうすることで、他者までも安心させてしまう人。
 尚隆のそういうところが、堪らなく大好きです。

 小松家の滅亡の前夜にも、敵が攻めてくると分かっていて、不安がる民に対して冗談を言って気持ちを軽くさせ、「逃がしてやる」とその状況の中でできることを諦めずに希望を口にしていました。尚隆が冗談を言って笑うことで、周囲も冗談を返して笑えて、それによって奮起するんですよね…。すごく好きです。

「——なんだ。そう悲壮な顔をしてどうする。どうせなるようにしかならん。軽く構えろ」
 六太はそれを軽く諫めた。
「無茶苦茶を言うな」
「無茶だが事実だ。どうせ結果が同じなら、心配するだけ損だぞ」
 言って尚隆は縋るように見上げてくる三人ほどの老人に笑った。
「そう硬くなっていては、いざ逃げる段になっても足が強張って動くまい。気楽にしておれ。なんとかしてやる」
 尚隆がそう言って笑うと、老人たちは安堵したように息を吐いた。

新潮文庫「東の海神 西の滄海」P.232


 これは、まさに、領民たちを安心させるために笑っている場面だと思います。尚隆が笑うから、周りが安心して、前を向ける。そんな尚隆の、優しいあり方が大好きです。
 尚隆はいつでもそうやって、誰かのために、人を安心させるために、希望を見つけ、語り、そして笑う人なのだと思います。

 このことも、尚隆の、500年の時が経っても変わっていない部分だと思っています。

 陽子の登極を助けて、慶国に親征した際のやり取りも好きです。

「百二十で勝算はあるのか?」
 陽子が訊くと、延は笑う。
「いちおう、一騎当千とはいかずとも、一騎当十程度のものを集めたつもりだ。しかも雲海の上は守りが薄い。空の上に昇れる者には限りがあるからな。連中はまだ景王が我々のところにあることを知らないはずだ。知られぬよう、わざわざ俺が迎えに出向いたのだから」

新潮文庫「月の影 影の海」P.248,249

 

 ここ好きなんですよね。五千の慶国偽王軍に対して、百二十騎で景麒を奪還しようとするのですが、勝算を問う陽子に対して笑う尚隆が好きです。
 まあこの場面は、実際に勝算があるからその数にしているのだろうと思うのですが、それを差し引いても、陽子の問いかけに対して笑って応じる尚隆の様子に、彼のおおらかさや、人を不安にさせない振る舞いを感じるのです。
 ここで笑って答えるのは、陽子を不安にさせないためなんだろうな、と思います。そして、見方によっては勝算を疑っているようにも取れる問いかけに対しても、何も気にした様子のない尚隆に、本心からの度量の広さも感じます。

 本当に優しい人だなあと思います。
 その心の広さも、言動も、すべてが人を安心させる人。
 そしてそういう部分が、500年の時を経てもずっと変わっていない。

 いつでもそんな、大きくて温かいあり方ができる尚隆が大好きです。
 

④ リーダーシップ


 そうした尚隆の人を安心させる振る舞いは、リーダーシップと直結しているように感じています。

 人を安心させるというのは、その人の持つ力を最大限に発揮できる環境を提供するということだと思うのです。
 人って不安や焦り、恐怖感の中にいると、良いアイディアも生まれないしパフォーマンスも下がるものです。
 だから私は、組織運営や、人を動かすにあたって、そこに属する人が安心して、希望を持って前を向いて動くことができる、ということはとても大事なことだと思っています。

 尚隆の振る舞いや空気づくりって、この面から見ても非常に有効なことをやっているな、と思うんですよね。

 それが端的に表しているのが、驪媚のこの言葉ですね。

「ですが主上は間違ったことをなされたことはございません。帷湍などは暢気だなどと言いたい放題でございますが、王が鷹揚に構えていらっしゃるから、あの惨状の中でもわたくしどもは絶望しないでいられたのでございますよ」

新潮文庫「東の海神 西の滄海」P.215,216


 はぁ…本当にこの台詞は、尚隆の振る舞いが周囲にどういう影響を与えているのか、端的に表されていて大好きです。
 王というトップに立つ者が、焦りや不安を見せずに鷹揚に構えてくれているというのは、下で動く者を安心させて、前向きに物事に取り組むことのできる力を与えてくれるんですよね。大丈夫だ、と思えることって、そう思って取り組んだ物事に対して、そう思わず取り組んだ場合よりずっと良い結果をもたらすものだと思います。そうした空気づくりを意識的に、かつ自然に見えるようにやっている尚隆って、私は人の上に立つ者として本当に理想的なあり方だと思っています。瀬戸内時代から、上に立つ者として教育を受け、上に立つ者になる意識もあったから、時間をかけてそうした振る舞いが身についていったのかなぁと想像してしまいます。

 もう1つ、人を安心させるリーダーシップという観点で、好きなシーンがあります。


「いまがどういうときかお分かりなんですか、まったくもう」
「こういうときこそ、まあ、いろいろとな」
「すぐに戻ってきてくださいよ。そうそういつも行方をくらまされた、なんて、言い訳を続けていたら大僕に左遷されてしまう」
 尚隆は笑った。
「そのときには、なんとでもしてやろうよ」

新潮文庫「東の海神 西の滄海」P.160


 このシーン、すごく好きなんですよ…。「なんとでもしてやろうよ」がとっても良くて…。
 まあ、そりゃ左遷されたら尚隆のせいだし、王の権限があるから実際何とでもできるんでしょうけど、「なんとでもしてやろうよ」っていう言い方が好きなんですよ……。

 ここで毛旋が、かなり親しげに尚隆と話しているのもとても好きです。「まったくもう」って言い方も可愛いですよね。王に対して、だいぶ距離の離れた臣下のはずですが、そういう立場の人間が、こういう口調で接することができるって、こういうところからも、働く人間が安心してのびのびと働ける環境であることが窺えます。

 そして、この「なんとでもしてやろうよ」ですね。これは、肝心のところでは責任を取る、という尚隆のスタンスが見えるようで、奔放な振る舞いや指示で官吏を振り回しもするけれど、肝心なところで責任を取る、という芯がしっかりしていて、それを当の官吏たちにはっきりと示しているから、その柔軟で奔放な指示や動き方の中でも、従う官吏たちは不安にならずについていけるのだろうなと感じます。

 こうしたところから、尚隆のこの、人を不安にさせない、安心させる、という言動は、下で働く者たちを安心させ、前を向いて動かす統率力と密接に繋がっているように思います。リーダー1人では大きなことは成せませんから、1人1人の人間の働きが大事で、尚隆のような人を安心させるリーダーは、そうした1人1人の人間の持つ力を高められる、とても理想的なトップのあり方だと思っています。



⑤ 人を見る目と人員配置の手腕、人を大事にする体制づくり


 そして今度は、尚隆について、この人凄いな、と思うところがあるのですが、人を見る目に長けていることです。
 人を安心させ、前向きに行動することを可能にして、最大限のパフォーマンスを引き出すリーダーシップもさることながら、優秀で心ある人物を見出す審美眼も凄いなと思うのです。

 朱衡や帷湍を取り立てた際のエピソードは、型に捉われず、その時点での立場や自分に対する非礼よりも、国を想う芯の強い心を持った人物であることを重視し、重用したのだと感じますし、成笙を取り立てたエピソードからは、意志の強さに光るものを見出したのだろうな、と感じます。この重臣たちの登用エピソードには、尚隆の人を見る目に関しての意図的な部分と直感的な部分が混ざっているような気がしていて、彼の人を見る目には才覚の部分もあるのではないか、と感じています。

 さらに、裁判を司る任についていた驪媚を、牧伯という州の監視の職に就けたエピソードからは、尚隆の、様々の立場の官吏の働きぶりを見てその心根や、人柄、適性を見出す能力の高さが窺えます。裁判を司る官だった驪媚を「俺には手駒が少ない」と言うその中に入るくらいに信頼し、牧伯の職に就けるに当たって「長短を鑑みれば、どうあってもお前のほうが適任のように思われる。」と言うのは、幅広く人を見て、その能力や適性を見出していないとできないことだと思います。
 特に、王朝初期の、信頼できる官吏が少ない状態で、数多くの官吏の中から、このように信頼できる人物を見つけ出した手腕に、人を見る審美眼の高さを感じます。

 そして、そのように見出した官吏について、適任者を要職に就ける手腕も見事なんですよね。
 これは、尚隆に上述の経緯で見出された驪媚が全部語ってくれるのが大好きです。驪媚が尚隆の理解者であること、堪らなく好きなのです。

 朱衡や帷湍を要職につけて、その上には彼らを妨げることのない人物を置いた手腕ですね。官吏の反発やひいては内乱を防ぎ、民の生活水準向上を優先するために大がかりな官吏の整理にはすぐに手をつけなかった訳ですが、民に直接福利をもたらすことのできる役職を分かってそこに心ある適任者を置くのはもちろんのこと、処分を放置した官の配置に関しても、それぞれの性質をよく見て、直属の部下が王のもとに積極的に動いても反発や妨げをしない人物を高官に据えていて、本当に人と、組織の仕組みをよく見ているな、と思います。人のことも、それぞれの役職の権限や管轄範囲、全体の体制のことも、全部きちんと理解していないとこんなことはできません。
 それを、突然飛び込んだ異世界で一から組織や制度を覚えてやってしまうのですから、本当に凄い人だと思います。

 さらに、人を見る目、人員配置の手腕に加えて、尚隆は組織マネジメントと言いますか、人を活かす体制づくりもうまいと思っています。
 何だかビジネス視点で見た尚隆、みたいになっていますが、本当に私は、尚隆のやっていることって、マネジメントとか組織論として有効なことばかりなのではないかと思っています。
(まあ、私はその方面に特に詳しいわけではありませんが…。)

 私は、「良い職場」の空気というのは、「心理的安全性」の高い職場だと思っているのですが、尚隆の王朝の空気って、この「心理的安全性」がめちゃくちゃ高い(高すぎるくらい?)んですよね。
 心理的安全性って、つまり、「組織の中で自分の意見や感情を安心して発言できる状態」という定義だそうですが、尚隆と臣下たちの関係って、まさにこの「心理的安全性」の高い状態ではありませんか。
 誰もが安心して、言いすぎなくらい言いたい放題に言いたいことが言える空気感、それが自然に作られているところに、尚隆のマネジメント能力の高さが窺えます。これ、素で自然とやっている部分と、意図的にやっている部分とが両方ありそうで、尚隆のそういう、素の部分と意図的な部分が一体になっているところがまた、とても好きだなと感じる部分でもあります。

 そんな心理的安全性の高い空気感が好きだな、と思うシーンを抜粋します。

「訊くが、俺は王ではなかったのか?」
「貴様が王だ。残念ながらな」
「なのに、勅命を下すに、いちいち説明がいるのか」
 帷湍は尚隆を睨みつける。
「昏君の気まぐれに付き合って国を傾けるわけにはいかん」

新潮文庫「東の海神 西の滄海」P.171,172


 良いですよね、これ。「昏君の気まぐれに付き合って国を傾けるわけにはいかん」って、王一人の責任にせずにはっきり噛みつく帷湍と、それを許している尚隆が、良い関係だな~と思うのです。2人とも好きだ~!

 それからですね、十二国記30周年記念ガイドブックに掲載された、『漂舶』という短編の中で、尚隆が上級官の異動を命じたのも好きなんですよね。
 同じ官吏が同じ職務を長年掌握していたら偏りが生じる、官吏の視野を広げる、と主張した尚隆が好きで。
 職務に関しても、人を入れ替えて様々な視点を取り入れるって大事なことなんですよね。
 また、長年同じ体制で仕事をしていると、どうしても慣れからの怠慢が発生したり、人間関係が硬直化したりするものだと思います。そういった事態を防ぐために、適度に人を入れ替えるって必要なことなんですよね…。尚隆って、人のパフォーマンスを最大限に発揮させる風土を、体制や仕組みによって作り出すのがうまいな、と思います。
 それって、人というものに対してある意味とてもシビアで、弱さや傲りといったものも勘案に入れている部分があって、だからこそ、それを考慮に入れた体制を作るというのは、本当の意味で、そこで働く「人」を大事にしているのだと感じます。

 そして最後に、驪媚に元州牧伯の任を抜擢した時の尚隆が好きです。
 牧伯の任が、危険を伴うものであることをきちんと説明した上で、その任に就くことを依頼して頭を下げるんですよね…。こういう、大事なところではきちんと説明をして、組織の中の人間を一人の人間として大事にし、意志も尊重しようとしているところ、これもまた、尚隆が「人」をとても大事にしているのが伝わってきます。きちんと説明があって、意志を尊重されていて、自分が大事にされているのだと分かることは、働く人間が安心して意志を持って働くことのできる原動力になるものだと思います。

 この項目、めっちゃくちゃ長くなりましたね。いや、実はこの項目は当初2つに分けていたものを数の都合上1つにまとめたので、仕方がないのです。 (これでも文字数減らすために結構な駆け足…)

 ともかく、こうした視点から見ると、尚隆は本当に、人を見る審美眼に優れており、組織のこともよく理解している上に、組織運営やマネジメントにおいて、参考になる、見習いたいと思う部分がたくさんあると感じています。


⑥ 意識的に自分を客観視しているところ


 そんな尚隆ですが、自分に対しても同じように、かなりシビアな目を持っていると感じています。そんな、自分客観視しているところも、私はとても大好きです。

 まずはこちらの場面を挙げます。

「延王でも悩むことがあります?」
「頭の痛いことなら、いくらでもある。決して絶えることがない」
「大変ですね……」
「なに、問題がなくなってしまえば、することがなくて飽きるだけだ」
 言って、五百年の長きに亘って一国を支えた王は園林を見やる。どこか皮肉とも自嘲ともつかない笑みが浮かんでいた。
「——そうなればきっと、俺は雁を滅ぼしてみたくなる……」

新潮文庫「風の万里 黎明の空」(上)P.72


 これですよ…。数多のファンの心をざわつかせてきた台詞ですが…。
 私はこの台詞、この人すっごいな…と思ったんですよね…。

 めちゃくちゃ自分を客観視しているというか、俯瞰で見ているじゃないですか……。

 「問題がなくなってすることがなくなる」という、壮大な仮定の状況に対して、その時の自分の心理を予想できるって、すごくないですか…。

 それからもう1つ。

「一つ、面白いことを教えてやろうか」
 利広が振り返ると、階段の手摺に凭れ、風漢は笑う。
「俺は碁が弱くてな。だが、たまに勝つこともある。勝つと必ず碁石を一つ掠め取っておくんだ。それを溜め込んだのが八十と少しある」
 利広はその場で立ち竦んだ。
「……それで?」 
「それだけだ。たしか八十三まで数えたのだったか。それで——阿呆らしくなった」

新潮文庫「華胥の幽夢」(「帰山」)P.322  


 これは、利広の予想する雁の現王朝の終焉の話を受けて、実際に天を相手にした博奕をしようとしたことがある、という流れの話なのですが。

 これも、私は、とても…好きなんですよ…。
 数百年生きて、王として国を背負ってきて、辞めたくなるとかすべて終わらせたくなるとか、そういった心境になったことがあるという話ですよね。人間が終わりのない寿命を与えられていて、なおかつ国を導く大任背負っていれば、そう思い至る日が来ることはとても想像がつくもので。

 でも、その時に、尚隆が何をしたかって、天を相手にした賭けで、実行に移すに当たって自分に条件を課したんですよね。
 私はこれが本当にすごいなと思っていて。自制心の塊すぎませんか?
 ものすごーく、気が長くて、ものすごーく、自制心が強いなって。
 自分を律するために、自分で自分に制限をかけて、律義にそれを守って。そのくらい、本当は国を滅ぼしたくなんかなくて、止まりたくて、踏み止まるための時間を稼いでいたんだなと思うんですよね。
 こういうところにも尚隆という人間の優しさや確かな倫理観、そして国や民を想う愛情深さが現れていると思っています。

 この、自分を律しているというのが私はとっても好きで。
 そういう視点で考えると、そもそも、尚隆は自分の周りに、朱衡や帷湍のような、遠慮なく自分を諫めて進言してくれる人物を置いていて、さらには彼らをはじめ、臣下たちが躊躇せずに物を言える空気を作っているんですよね。
 これって、臣下たちにとって働きやすい環境というだけでなくて、尚隆自身にとっても、反対意見を聞く機会を設けて視野を広げ、自分が何か間違った時には諫めて止めてもらいやすい環境なんですよね。

 要は、自分自身をも、「人」というものを過信しない目線で見て、仕組みによってできる限り律する体制の中に組み込んでいるのだな、と思っていて、そんな風に自分のことまで客観視して制御しようとしているところが、並外れた人物だなと思うのです。

 碁石を集めたのも、意図としては同じだと思うのです。自分を、制御可能な仕組みの中に取り込んで止めようとしていたのだと思います。
 そしてその姿勢を五百年生きても保ち続けているところにもまた、感服してしまいます。

 陽子に対して「滅ぼしてみたくなる」と言ったのも、本当にそうなった時に、止めてくれる可能性のある人物を一人でも増やそうとしているようで、隣国の王である陽子にはその意味でできることも多いのではと思いますし、それだけ尚隆が陽子の王としての器に期待しているのではないかな、と思っています。
 五百年にも亘って国を背負い続けていて、まだそんなことができるくらいにこの人は正気で、自分を律し続けて生きているんだな、と思うと、私はこのシーンの尚隆のことを、何っっって真っ当で、どこまで健全な人なんだ……!と見ています。

 この鉄壁の理性、自制心、客観的視点、もう痺れるほど大好きで堪りません…!
 そしてやはり、それを駆使し続けている原動力は、国と民を想う心なんですよね。
 えっもう、本当に大好き。



⑦ 手助けを惜しまない、度量の大きさと人の好さ


 さて、ちょっと、シビアな面の強い話が続いたところで、ここからは、一方でとても優しい!という面のお話をさせていただきたいと思います。
 ここからしばらく優しいパート!やったー!
(私は優しい尚隆のことが大好きな人間です。いや、ここまでの話も全部、優しいって話なんですけどね。)

 端的に言うと、すぐ人を助ける、手助けを惜しまない面倒見の良い優しい人、という部分です。本当に大好き!

 物語の中で、尚隆が他国に手助けをしているシーンがたくさんあって、本当に優しくて人が好いな、と感じるのです。
 登極前の陽子のことを自ら迎えに行って、登極までを助けたり、王の選定について罪を犯したのではないかと悩む泰麒に疑念を解くために、景麒に乞われてわざわざ戴まで行ったり、それから何と言っても、行方不明となった泰麒捜索の指揮を執ったり……。
 世界に対して、めちゃくちゃ手助けをしている…!

 陽子の登極を助けたのは、自国のため、という部分も大いにあったと思いますが、泰麒の悩み払拭のために戴に行ったり、泰麒捜索の指揮を執ったりした件は、頼られたらそれに最大限応えようとする人の好さや面倒見の良さが見えて大好きなのです。
 お人好し…優しい……。やりすぎて怒られるシーンまであるのもご愛嬌で可愛くて大好きです。

 さらには、頼られると助けてしまうだけではなく、自ら世話を焼いてしまう面もあって、本当に人の好いお人だと思っています。そのことを特に感じるシーンがこちら。

「李斎も、戴の民には自分たちを救う手段がない、と言っていました。とにかく、せめて人を遣って泰王と泰麒の捜索だけでも——」
 陽子が言いかけると、それだ、と尚隆は声を上げる。
「戴について分かったことなど、この程度だ。それならばわざわざ伝えに来るまでもない。俺はそれを止めにきた」
「それ?」
「いいか。何があっても、王師を戴に向かわせてはならぬ」

新潮文庫「黄昏の岸 暁の天」P.163


 これ、本当に大好きなシーンです。それまで文通でやり取りしていたのに、陽子が王師を戴に向かわせるかもしれないと思って、止めるためにわざわざ慶にまで直接行くんですよ。覿面の罪、陽子はともかく、周囲の高官は知っている可能性が高いのに、それでも陽子を心配して、一刻を争うと思って直接乗り込んだのでしょうね…。何という人の好さ…世話焼きだなあと思って、大好きなシーンです。

 そんな尚隆に対する、六太からの評価。

「延王は私に手を貸してくれましたよね?」
「それは俺が胎果で、変わり者だからだ」
「度外れたお節介なんだ」

新潮文庫「黄昏の岸 暁の天」P.256


 はい大好き~~!!!
 「度外れたお節介」と言われる尚隆が大好きなんですよ……。これを、尚隆を一番近くで支えて理解している六太がさらっと言うのが、また良いんですよね……。

 尚隆のお節介世話焼き気質が分かるエピソードがもう1つ。本当にエピソードに事欠かない。

延王がいろいろ気にしてくれて、王宮に居候しろだの、家を持たせてやるだの、断るのに難儀しているくらいだ。

新潮文庫「華胥の幽夢」(「書簡」)P.170

 
 これは雁の大学で勉強中の楽俊の言ですが、まあ、本当に尚隆がお節介で世話焼きで可愛い!大好き!!楽俊が難儀しているほどのこの世話焼きぶりが、愛しくて大好きで堪りません。本当に、面倒見が良くて、世話焼きで優しいですよね…。
 さすが、度外れたお節介…!!

 そんな度外れたお節介の尚隆ですが、ほーんとに優しいなと思っていて。特に「黄昏の岸 暁の天」での尚隆の人の好さが、私は大好きだったりします。
 陽子を心配して早まった行動を取らないよう止めるために慶に乗り込んで、陽子と意見が対立して自身の選択を非難されても、雁で集合するように伝えたのに慶に行った氾王を追いかけて再び慶に向かう羽目になっても、すべてを許容して彼らを取りまとめて、さらには奏や漣に助力を願って調整事もして、挙句の果てに蓬莱まで渡る役目まで担うのですから……。その間の自国のこともあるのに、本当にどこまでも人が好くて、手助けを惜しまない人だと思います。
 たぶん、人のためになることをして、誰かを助けることが、本質的にとても好きな優しい人なのだと思います。
 民に必要とされたくて、国を欲した人ですからね…。うーん大好き…。

「粉骨砕身して働いて、あげくの果てにこの報いか。……泰麒を捜す。俺が采配をすればいいのだろう」

新潮文庫「黄昏の岸 暁の天」P.265


 これ…!堪りませんね…!この人、もともと陽子を止めるために来たんじゃなかったでしたっけ??止めるために来たのに、頼られて結局なぜか采配まで引き受けている尚隆が大好きすぎて堪りません。何なんですかこの圧倒的な人の好さ…!
 それとですね、陽子の奔放な言動を許容しているのは、心が広く優しいからというのももちろんですが、自由に意見を言える空気を作って、意見を言うことで更に考えて成長できるよう、陽子を育てているようにも見えるんですよね。本当に人が好くて、世話焼きで面倒見の良い人だなあと思います。

 そして、お節介でわざわざ陽子を止めるために慶まで乗り込んでくる尚隆がいなかったら、陽子も自分の方から大国の王である尚隆に対して、国同士が協力する大使館構想や泰麒の捜索を持ちかけて協力依頼するなんてことは、言い出しづらくてできなかったのではないかと思います。
 世話焼きでお節介な尚隆が、わざわざ尚隆の方からやってきて、そして自由な議論や発言を許す姿勢であり続けたから、そこに対しての信頼があったから、陽子も大胆な発想や提案を口にできたのではないかと思います。

 そう考えると、尚隆の優しさや寛容さ、お節介なほどの世話焼きと面倒見の良さが、戴の未来を変えて数多の戴の民を救ったし、十二国世界の未来すらも変えたのではないかと思います。

 みんなが安心して頼って、自由な振る舞いができて自由に意見を言える、それを許してそれに応える、そんな優しくて人の好い、そして面倒見が良く頼もしい尚隆のことが大好きです。

 そして最後に、その頼もしさのかっこよさと言ったら…!と思うシーンを挙げておきます。かっこいい!!っていう話がしたいだけ。笑

「——何卒、戴を救うためにお力をお貸し願いたい」
 李斎は思わず、驍宗に倣った。周囲にいた者たちも一斉にその場に膝を突き、叩頭する。その頭上に力強い声が降ってきた。
「引き受けた。諸国が支援する——存分にやれ」

新潮文庫「白銀の墟 玄の月」(四)P.408


 かっっっこいい~~~!!!!!
 何ですかこの頼もしさ。主語「諸国」ですよ。尚隆の言は諸国の意志!!!
 か…かっこよ…。このシーンの、あまりの安心感と希望と言ったら…。この人の存在が希望ってくらい、頼もしいじゃないですか…。大好き。

 こういう頼もしさも、尚隆が人に、他国に、手助けを惜しまずに誼を大事にしてきたからこそ身に着いたものなのだろうと思います。
 諸国が協力するのも、尚隆が積み重ねてきた信頼と友好関係の賜物ですよね。

 希望…!この人の人の好さと、頼もしさは、世界の希望…!!

 


⑧ 他者の意志、自主性を尊重した手の差し伸べ方


 そんな人の好い尚隆ですが、人に手を差し伸べる時の、人の意志を尊重し、人の自立心を挫かない手の差し伸べ方がまた、彼の人間性の大きさを感じる大好きなところでもあります。

 まずそのことを感じるのが、陽子にあちらの世界の理と国の仕組みを説明した時の様子です。景麒に選定され、知らぬ間に誓約を交わしていた陽子に対して、隣国の王としては陽子に景王となり、国を安定させて欲しいと思っているにも関わらず、それを陽子に押し付けず、あくまで陽子の意志に委ねることを意識しているのが伝わってくるのがとても好きです。

「わたしも……?帰るわけにはいかないんですか?」
「帰りたくば、帰るがいい。それでもお前が慶東国の王だ。それだけは否定することはできぬ」

新潮文庫「月の影 影の海」P.201

「お前の国と国民のことだ。好きにすればいいが……」
 延は苦笑混じりに言う。
「何にしても景麒だけは迎えに行かせてもらいたい。王が玉座を捨てると言うなら、なおのことだ。せめて宰輔だけでも、国のために残してやってほしい。——どうだ?」

新潮文庫「月の影 影の海」P.217

 

 まあ、割と態度や空気には慶の玉座に就いてほしいと思っているのが滲み出ていて、陽子もそれをはっきりと感じ取ってはいるのですが…。それでも私は、尚隆はあくまでも陽子の意志を尊重した上で、その範囲内できちんと説明し、必要な助言や手助けをしようとしているな、と感じます。
 玉座に就くかどうかは本人に委ねたまま、景麒を迎えに行くという、その状況下でできることを提案し、手助けしようとする尚隆が好きなのです。人に何かを押し付けることなく、相手の意志を尊重している…!その上でできることを探る尚隆が大好きです…!!

 少しだけ余談ですが、途中で陽子に対して、「お前はまさしく王気を具えていると思う」と言って、六太に「無理強いをするな」と咎められるシーンも好きです。六太が的確に尚隆を支えて、尚隆が陽子に強要しないように意識している部分を助けていると感じます。そしてそこですぐに「その通りだ」と引き下がる尚隆も大好きです。尚隆と六太の信頼関係や、常日頃から支え合っている関係が見える気がします。

 それから、初対面の陽子に対して、話をしてすぐに「お前はまさしく王気を具えていると思う」とはっきり言う尚隆も好きです。初対面なのに、少し話をしただけでこんなに早く、陽子に王としての資質を見出すあたりにも、尚隆の人を見る審美眼の高さを感じます。(人を見る目に優れている、の項目で書きたくて書ききれなかったことをここで回収する。)

 話を戻して、もう1つ、尚隆の、人の意志や自立性を尊重する人間性が見える場面を挙げたいです。

では、と尚隆は李斎に言う。
「行ってくるがいい。ほかならぬ戴のことだ、その手で天意を掴んでこい」

新潮文庫「黄昏の岸 暁の天」P.384,385


 えっあの…かっっっこよ……。(駄々洩れる本音)「その手で天意を掴んでこい」って、かっこよすぎませんか…何それ…その言い回し……。 

 天があることに愕然とした李斎が、自分も蓬山に行きたいと申し出た時の言葉ですが。このですね…「ほかならぬ戴のことだ」と言って、戴の問題を、戴国民の手から取り上げないところがとても好きなのです。
 泰麒捜索のために尽力しても、手助けを押しつけたり、すべてを施そうとしたりするのではなく、戴国民自らが立ち上がる意志を決して妨げず、背中を押す尚隆が好きです。
 そうした手の差し伸べ方は、とても視野が広く、そして相手のことを想った助け方だと思います。

 こうしたところから、尚隆は人が好く、手助けを惜しまないだけでなく、相手の意志や自立性を尊重していると感じて、そうした部分に、私は彼の優しさの深みを感じます。

 最後に少し、別の観点からのお話でこのパートを締めくくります。
 こうした先を見据えた手の差し伸べ方や優しさについて、宗王先新の言葉がとても印象的です。短編『帰山』の中で、荒民に対する支援の方法を議論する中で、先新は「助け起こしてやることは必要だが、相手が立ったら手は放してやらないとな。」「返しようのないものは、天から降ってきたのと同じだよ。それに慣れさせてしまえば荒民にとって一番大切なものを挫くことになる。」と言うんですよね。
 尚隆の言葉や手の差し伸べ方は、まさにこの先新の言葉に通じるものがあると思っています。
 
 直接的に尚隆の話をしている訳ではないのですが、治世六百年の大王朝を築いている先新の言葉と、尚隆の言動やスタンスが合致しているという部分も、私としては点と点が線で繋がるようで、とても好きな部分だったりします。



⑨ 人の力、民の力を信じて託しているところ


 そんな、他者の意志や自立性を重んじる尚隆は、自分の民に対しても、どこまでも彼らの力を信頼し、自主性や自立性を重んじていると思います。

 このことに関して、まず何より私が大好きで堪らないのが、尚隆の出した初勅が「四分一令」であること!です!!
 (大好きすぎてテンション上がってしまう。)

 曰く、「公地を四畝開墾した者には、そのうちの一畝を自地として与える」というものとのことですが。
 これがもう私は堪らなく大好きでして!

 尚隆の登極時の雁って、国土が焼き尽くされて、雑草すら生えていない罅割れた焦土となっていた訳です。

 そんな状況で、「四畝開墾した者には一畝を与える」とい初勅は、土地を耕すことありきであって、民がこれに呼応しなければ意味を持たない初勅です。つまりこれは、民に、荒廃の中で立ち上がり、一から土地を耕すことのできる力があると、そしてそれができるだけの不屈の精神も持っているのだと信じ、奮起を促した勅令だと思います。

 もう!これが!最初から、民の力を信じている…!!と感じて、私はこの「四分一令」という初勅と、それを発した尚隆のことが大好きなのです。

 耕せ、という号令ではなく、耕したら一畝与える、という、あたりにも、尚隆の、民の自主性を重んじる意図と、民を信じている心が表れているように感じます。王の号令によってではなく、民に自らの意志で、希望を信じて前向きに立ち上がってほしかったのだろうなと思います。
 そして、雁は緑豊かな大地と日々の暮らしを支える実りを取り戻すことができたことから、雁の民が尚隆の信じたとおりに、その呼びかけに呼応して、焦土に再び鍬を入れ、田畑を耕したのだと分かります。この、民の力を信じ、民の力に委ねた尚隆の国の導き方が私は大好きなのです。そして、希望を信じてその王の心に応えた雁国民の不屈の強さと明るさも大好き!

 そうして蘇った雁が、超大国となった500年後においても、国の富の半分以上を地からの収穫が占めている農業大国になっているのも素敵ですね。自分たちの国で自分たちの食べていく食料を生産できる地に足の着いた国づくりがずっと続いているところに、やはり自国の民に、自分たちの手で自分たちの生活を支える力を持ち続けてほしいという、尚隆の意志や願いのようなものを感じます。
 自国で自国民が食べていくのに充分な作物を生産できるって、他国の状況に左右されない盤石さがあるということで、外部の状況に左右されず、何があろうとも民が自分たちで生きていける力を持ち続けることを重視しているのだと感じます。
 人の力を信じ、活かした、民の生きる力を奪わず大切にする、尚隆らしい国の運営がずっと続いているのだと思います。

 そんな尚隆の、民への想いを感じる大好きな台詞があります。

「ここはお前の国だ!」
 突然、尚隆が声を上げた。六太も更夜も、立ち上がった男を驚いて見上げた。
「——斡由だけがお前のものなのではない。この国はお前のものなのだぞ」

新潮文庫「東の海神 西の滄海」P.293

 
 これが…大好きなんですよ…。
「ここはお前の国だ!」って!王が!「俺の国」じゃなくて、民に「お前の国」だって言うのが!大好きです!!
 国というものは、民のためのものであって、民が作り上げるもの、民の願いを反映するものだという、確固たる信念が感じられます。

 この言葉が、更夜の「全部滅んでしまえばいい」という言葉に対して激昂して、1番最初に口を衝いて出てくる言葉だというのも本当に堪りません。これが、嘘偽りのない、尚隆の感情のままに飛び出した心からの言葉なのだと思うのです。
 心から、国は民のものだと思っているんですよね。
 そして、民に、自分の国は自分のものだと、自分たちの手で作るものだと、自立心を持っていてほしいのではないかと思います。

 そしてこの後、尚隆は「死んでもいいだとぬかすのだぞ、俺の国民が!」と言って怒るのです。
 もう私、これも本当に大好きな台詞で。
 尚隆は、民のことを本当に、本心から大事に想っているから、民自身にも自分を大切にしてもらいたいと思っているところが好きです。
 民が自分にとって何よりも大事な存在だから、当の民自身であっても、自身を蔑ろにすることを許さない、自分を大切にさせようとする尚隆が大好きです。 

 民に、ただ生存する、というのではなくて、自分の意志を持ち、自分の手で未来を切り開き、自分の望む未来を築く、そんな自立した精神やあり方を求めているのだと思いますし、それだけ、民一人一人の力を信じているのだと思います。

 それって、本当に、心からの愛だな、と思うのです。
 尚隆の、民への愛って本当に深い。

 国は民のものであり、民のために国と王があること、そして、国を豊かにしていく何よりも大切な宝は民自身であり、人の持つ力であること、そうした考えを心からのものとして持ち、民の自立性を信じて彼ら自身の力に国を託す、そんな国のあり方を維持し続けている尚隆が、人としても為政者としても大好きで敬愛が尽きません。


⑩ 聡明さ


 さて、この流れで突然かなり話が変わってしまうのですが、続いて、尚隆の聡明さについて話をしたいです。
 できる限り、話の流れが繋がるようにしたいのですが、どうしても順番をうまく組み切れず、他とうまく繋がらなかったところは話が飛びます。笑

 私は、尚隆に対して、この人、どうしてこんなに頭がいいのか!?と思っています。
 先に挙げた、優先順位のつけ方にもその聡明さが表れているな、と思います。優先順位のつけ方がうまいって、物事の本質を分かっていて、その状況に応じて、何が必要なのか、判断力に長けているということだと思うのです。それってとっても、頭が良くないとできないことですよね。

 更に、私が特に尚隆の聡明さを感じるのは、『東の海神 西の滄海』における謀反解決の手腕です。
 まず、元州の謀反を見抜くスピードが尋常ではない。事が起こる前に、街で情報を仕入れ、武器の流れを把握・予測し、元州が動き出すと断言するんですよね。まだ事が起こる前からもう動き出す相手に目星をつけている。素早い…!
 この、情報収集の重要性を分かっていて逐一自分で動いて情報を仕入れる動きの速さと、その仕入れた情報を整理して、物事を推測する処理能力の高さが凄い人だなと思います。
 その後、元州の軍の数の報告を聞いて、「はったりだろう、それは」と過大申告を見抜いているシーンなんかも大好きです。元州側が周到に、州の人口から過大に申告して軍容を大きく見せていたのに、それをあっさり見抜いているのがかっこよすぎて堪りません。それなのに、臣下たちに話を聞いてもらえず無視されているのがまた可愛いんですよね…。こんなにかっこよさと可愛さが両立することってありますか。
 誰にも拾ってもらえず、一人で「黒備左軍はありえない……」と呟く尚隆が大好きです。この言い方も、かっこいい…!!本当に、尚隆の慧眼ぶりが光っているな、と感じて、この台詞はとても好きな台詞の一つです。

 それから、この時の謀反解決の手腕がまた、痺れるほどに鮮やかで大好きです。
 何が好きって、謀反を解決するのに、民を集めて元州や他州を牽制することで大きな戦闘を防いだこと、そして更にはそこで徴用した民の力を使って漉水の治水に着手した手腕です。
 まず戦を防ぎたいという目的がはっきりしていて、そのためにはったりや情報戦、自ら敵陣に潜入するという奇策まで駆使する賢さ、そして、謀反という危機的な状況に置かれても、その状況すら逆手に取って目下の課題だった治水工事に着手してしまうというその機転。そして大きな戦に至ることなく、被害を最小限に謀反を解決し、築堤まで実現したという、目的を実現するための方策を導き出す頭の良さが尋常ではないなと感じます。
 元州が光州と手を組んでいたことも予測していて、先手を打って対処した頭の回転や先読みの能力の高さにも感服です。
 かっこいい…!この聡明さが、本当にかっこいいと思います。

 官吏の人事に対する考え方や組織の動かし方にもその聡明さが光っています。
 登極直後に先王時代の官吏の整理には時間をかけることで官の不満や争いの種を防ぎながら、一方そこで放置した官は、名はあれど実に乏しい役職に就けて、要職には数少ない信頼のおける官吏を置く手腕の見事さには痺れます。
 更に、先にも少し触れましたが、国の運営が軌道に乗ってからの、組織人事に関する考え方も私はとても好きなのです。

 長年、同じ官吏が同じ職務を掌握すれば、どうしても政は偏る。当人にそのつもりがなくとも政にも癖というものがあるし、長い間にそれが蓄積されることは避けられない。偏向を抑え硬直を排除し、同時に官吏の視野を広げるためにも、功績の有無にかかわらず定期的に配置を変えるべきだと尚隆は主張したし、これには確かに一理があった。

 「『十二国記』30周年記念ガイドブック」P.147
(特別収録 漂舶 十二国記外伝)


 これ…!大好き…!
 本当に、組織や人というものを冷静に見ているな、と感じますし、その上で、人や組織を硬直させない対策を仕組みとして作るというところに、視野の広さや先を見通す力といった聡明さを感じます。
 そしてこの、人事異動の考え方、これだけでも現実世界に置き換えても一理あると感じるのですが、それに加えて、仙籍制度があり、上級官吏に半永久の命が与えられる十二国世界では尚更、重要性が増すのではないかと思うのです。
 官吏に寿命も定年もないため、意識的に異動を行わなければ、同じ部署に数百年同じメンバーが固まったり、一人の人間が数百年同じポストを掌握したりすることが起こりえる訳で、それって本当に組織として不健全で、人間関係も硬直するでしょうし、特定の人物のやり方でないとその部署が動かない、という事態にも陥りやすくなると思います。
 もともと半永久の寿命など存在しない世界で生まれ育った尚隆が、百年そこらでそうした半永久の命の持つ脆弱性や危険性に思い至っていること、そしてそれらに対して対応する仕組みを作ろうとしているところに、尚隆の柔軟で、常に思考を続ける頭の良さを感じるのです。
 この人本当に、どこまで見通しているのだろう、と思ってしまう、そんな頭の良さがあると思います。

 私は尚隆に対して、「かっこいい」よりも「優しい」「愛しい」と言った見方をすることが多いのですが、そんな中で、「かっこいい」と感じるのは、何よりもこの聡明さが1番だなと思っています。いや、まあ、もちろん剣の腕前とかね、妖魔と戦う陽子を颯爽と助けに入るシーンは素直にかっこよすぎて悶えてしまうのですが…!
 でも、1番「かっこいい」と感じるのは、やっぱりこの聡明さです。痺れる。

 短編『帰山』の中で、宗王一家からの尚隆に対する評価が見えるのも大好きです。利達は尚隆のことを「あの知恵者」と言い、宗王先新は「正直言って、頭が下がる」と言うんですよね。十二国一の大国を築いている一家が、尚隆の知性や国の運営を高く評価して敬意を抱いているのが分かるのが、堪りません。

 十二国一の大国も認める聡明さ…!!


⑪ 言動の一貫性、言葉を大事にしているところと誠実さ


 そんな聡明な尚隆ですが、私はこの人の言葉選びだったり、言動の一貫性がまた大好きだったりします。
 言葉選びの嘘のなさにも聡明さを感じると同時に、言動の一貫性に彼の誠実さを感じるのです。

 尚隆の言葉選びで特に好きだと感じるのは、自身のパートナーである麒麟の六太のことを、「半身」と呼んだところです。

「麒麟は王に背かぬ。だからといって、何を申しつけても嫌な顔ひとつせぬというわけではない。自分が愚かな人間だということを忘れぬことだ。そうすればお前の半身が助けてくれる」
「……半身?」
「お前の麒麟がな」

新潮文庫「月の影 影の海」(下)P.225


 この言葉選びの何が好きかって、尚隆は自分の民のことを「民は俺の身体だ。」と言う人なのです。その尚隆が、彼に国と民を与え、民の声を代弁する彼だけの唯一の麒麟のことを、「半身」と呼ぶのが大好きです。
 民が「俺の身体」で麒麟が「半身」……!!!
 何て美しく、矛盾のない言葉選びなのだろうと感じて、この矛盾のなさや一貫性に感動を覚えてしまいます。美しいなって、シンプルにそう思うのです。

 この言葉選びの美しさと共通して、私は尚隆のことを、嘘を吐かない人だな、と思って見ています。
 王という立場もあってのことだと思いますが、よく本音は隠す人ではあって、そのために煙に巻いた返答をすることは多々あるのですが、ただ、本音を隠す時に口に出す言葉がどれも、嘘ではないというのがとても好きな部分だったりします。

 そのことを感じるのが、このあたりの描写です。

「とにかく王師を。かろうじて一万二千五百、これをもって元州に向かうしかないだろう」
 帷湍の言葉をあっさり尚隆が遮った。
「それはできんな」
「——なぜ」
「六太がいない。いちおう靖州の州師を動かすには六太に是非を問わねばならんだろう。しかし、生憎、返事をする者がいない」

新潮文庫「東の海神 西の滄海」P.170

「——更夜とやら。お前は本当に六太の友のようなので頼む。こいつを返してはもらえんか。どうしようもない悪餓鬼だが、これがいないと多少は困ることもあるのだ」
 更夜は妖魔の首に手を掛けた。
「麒麟がいなければ仁道を見失うか?」
「いや、がみがみ言う官の矛先が俺にばかり集中する」

新潮文庫「東の海神 西の滄海」P.289


 こういうところです…!!!
 靖州師を出せないのは、本当は、関弓を空にして、他州が攻めてくる隙を与えないためであることが後に明かされます。また、六太を返してほしいのは、国のためであり、そして尚隆個人が六太自身を心配しているからだというのも他の部分の描写から読み取れます。
 でも、それを簡単に表には出さない人なんですよね。この、本音を中々出さないというのも、本音が見えた時のその本音のあまりの優しさや聡明さにグッと来てしまう、魅力的な部分の1つなのですが。
 ここではそれよりも、この表向きの回答に、決して嘘がない、というところに着目したいです。

 六太がいない、も、官の矛先が俺にばかり集中する、も、嘘ではないんですよね。本当のことの中の1つなのです。それがもう私にとって、とっても好きな部分です…!
 嘘を言わないんですよ。本音は隠すけれども、嘘は言わない。
 この本音の隠し方と言いますか、言葉の使い方に、尚隆という人間の誠実さや、嘘のなさを感じます。「半身」という言葉選びの矛盾のなさもそうなのですが、言葉の使い方が綺麗だと思うのです。口に出す言葉を大事にしているな、というのを感じるのです。

 そんな尚隆だから、口に出した言葉と、行動も一貫しています。この言動の一貫性も、尚隆という人間の誠実さを感じて大好きなところです。
 「俺はお前に豊かな国を渡すためだけにいるのだ、……更夜」とかね…。実際にその言葉の通りに、民に豊かな国を渡すことを第一に考えて、そのためだけに奔走している尚隆が大好きなのです。
 「そのために俺はあるのだ」が、尚隆が更夜に妖魔に襲われることのない国を約束する場面で繰り返されるのも好きです。

「お前の仙籍も剥奪せぬ。十年や二十年のことではないからな。……時間をくれ。必ずお前もその養い親も、追われることのない土地をやろう。それまで王宮の庭で堪えてくれ」
 更夜はそう言う男を見つめた。
「そんな世が本当に来るだろうか……?」
「そのために俺はあるのだ、更夜」

新潮文庫「東の海神 西の滄海」P.323,324


 はい好き~~~!!
 民の、望みを叶えるためにある王…!!!大好き…!!!
 そして、この言葉を違えず、時間はかかってもきちんと約束を果たす人なんですよね、尚隆は。それが、「雁史邦書」の中の「乗騎家禽の令」の記述で分かるのが、もう、物語の美しさごと大好きです…!
 約束を違えない、言ったことをきちんと実現する尚隆が、大好き…。
 尚隆の国づくりって、民の願いを掬い上げて、それを叶えていくことの積み重ね、と思えて、そういう国づくりをする尚隆の、民を想う心の深さが堪らなく大好きです。

 尚隆は有言実行の男だなと思っていて、そういう、言動が一貫しているところが、信頼がおけて大好きなところです。

 もう1つ、彼の言動の一貫性を感じるのが、この言葉です。

「そんなことはせんよ」
 いきなり割り込む声があって、更夜は慌てて風漢を振り返った。男は一向に頓着なげに臥牀に腰を降ろし、更夜を見てにっと笑う。
「俺は六太に人殺しなどさせない。こいつにさせるより、俺がやったほうが早いからな」

新潮文庫「東の海神 西の滄海」P.289


 これですね~。これの何が好きって、この『東の海神 西の滄海』のクライマックスで、斡由が尚隆に斬りかかり、尚隆を助けるために六太が使令を使ったことで、斡由が致命傷を負った後、尚隆が「……いま、楽にしてやる」と言って斡由の首を落とすところで、尚隆が「六太に人殺しなどさせない」という言葉を守っているところです。あまりにも、口にした言葉に対して嘘がなく、言葉を現実にする覚悟を持ち、そう努めようとする誠実な人だと感じます。
 言葉を大事にするって、その時点における嘘を言わないというだけでなくて、口にした言葉を嘘にしない、未来に対しての覚悟も含んでいるのだなと。尚隆は、そこまでの覚悟を持って言葉を口に出す人なんだな、と感じるのです。

 それってとっても誠実な人!!尚隆のこの、極力嘘を言わない言葉選びや、口にした言葉を現実にする姿勢は、彼の誠実な人柄と密接に結びついているように思います。
 そんな尚隆の誠実さがすごくすごく好き。

 驪媚に牧伯就任を打診する時に、直接本人に話に行って、その職務が危険な任であることも、驪媚を選んだ理由も全部話した上で、行ってもらえるか意志を確認して頭を下げた尚隆の誠実さが好きです。きちんと危険性を説明した上で打診する真っ当さ、人に対する真摯な態度。こんな誠実なことをされたらそりゃ、この人を信じてこの人のために覚悟決めようと思ってしまいます。驪媚の気持ち、分かる…。
 泰麒を連れ戻すために蓬莱に渡った時に、街を振り返って目礼する場面も、尚隆の誠実さを感じるとても好きな場面です。目的のために犠牲になってしまうものに対して、誰よりも目を背けずに向き合っているように感じます。

 言葉にも、行動にも、嘘やごまかしのない、とことん言動が一貫していて、どこまでも誠実な尚隆が大好きです。


⑫ フットワークの軽さ


 そしてまた少し視点が変わりますが、ここから少し、尚隆が普段、表に見せている面に重点を置いた話をします。
 普段の、表に見せている尚隆の姿も、かなり本質的なもので、無理してやっている訳ではない自然体の尚隆だなと感じていて、そういう自然体で振る舞う尚隆の、表に見せている顔も大好きなのです。

 そんな尚隆の自然体を感じる好きな部分の1つが、フットワークの軽さです。

 これはまず、何よりも、しょっちゅう市井に降りて民の生活を見たり、民の声に耳を傾けている尚隆のあり方ですね。常に民の視点を大事にしていて、民の望みを掬い上げるために、民の中に身を置く尚隆が大好きです。
 尚隆はそれを、意識的にはやっているとは思いますが、無理している訳ではなく、自然に、やりたくて、好きでやっている部分が好きです。

 それから、情報収集を大事にしていて、自ら足を運んで国内や他国の状況まで自分の目で見に行くところも好きだなぁと思います。
 謀反への対応の際に、街に降りて情報収集したり、実際に元州に乗り込んで軍容を掴んでいたり、そういう、自ら脚を使って情報を仕入れに行く行動力が好きです。最終的には敵陣まで潜入して問題を解決しようと奔走して、それで「何しろ俺しか小廻りが利く者がいないのでな」と言う尚隆が好き!!またそういう言い方する!!
 そして、それが治世が500年経っても変わることなく、他国にまで脚を運び、他国の状況にまで目を光らせて、いち早く情報を手に入れているのが、変わらなくて良いなあと思うところです。
 他国に参考になる政策があれば実際に見に行くし、危ういところがあっても実際に見に行く。その行動力と、自分の目で確かめることを大事にしている姿勢が大好きです。
 風来坊で自由人なところがあるのも好きですね。この自由さに、自然体の尚隆を感じます。

 このフットワークの軽さ、人の好さや優しさでとも結びついていると感じていて、先にも挙げた、「俺はそれを止めにきた」と言って、陽子が戴を救うために王師を出して国境を超えることを止めるためだけにわざわざ国を跨いでしまうあたりは、人の好さでもあり、行動することに対する精神的なハードルの低さが成せる業だなと感じています。
 人が好くても、行動力のないタイプはこういうことできないと思うんです。だから私は、尚隆の行動力や、フットワークの軽さが大好きです。

 陽子の登極を助けた時に、一人で陽子を迎えに来たのも、本当に、フットワーク軽いな~と思って、とても好きなところです。偽王側に、陽子が雁の手中にあると悟らせないために一人で迎えに行った、と言っていましたが、いや~~それ、あんまり、王がわざわざ直接迎えに行く理由にあまりなっていないような…?
 普通に、行きたいから行ったのでは…?それと、楽俊が書状を送ってから、尚隆が迎えに来るまで、めちゃくちゃ早い。すぐ行動してる。何というか、ええ、そういうところが好きです、とても。
 そして!一人で迎えに来て、陽子が妖魔に襲われて危ない時に、颯爽と間に入って妖魔を斬り捨てる登場の仕方!!かっっっこいい!!!
 ずっるいですよ、あの登場シーンは…。かっこよすぎます。かっこよすぎて大好きです。私が、最初に尚隆に対して、「えっ…かっこいい…好き…」と思ったのは、あの登場シーンです。(早い)
 そんな登場シーンも、尚隆のフットワークの軽さから生まれたものだと思うので、尚隆のフットワークには感謝と言いますか、尚隆という人物の人間性の中で、外せない好きな要素です。

 そして、このフットワークの軽さが、戴に対する支援にも表れています。

「一年かからなかったな。でかした」
「わざわざ来てくださったのですか……」
「戴からの使者に旌券を見せられたときには目を疑ったぞ。事情を聞いて戴の状況は分かったが、お前の消息は分からない、と使者は言う。来ないわけにはいかないだろう」

新潮文庫「白銀の墟 玄の月」(四)P.408


 これ…大好きです。戴の、阿選の乱を平定するのに、雁に助けを求められて、それで、王と宰輔が直接戴に乗り込んでしまうという…!何という行動力と思い切りなんでしょう…!そして、この最後の最後で尚隆と六太が登場することによる安心感と言ったら…!存在そのものが希望の光のようです。

 そしてここでも、国を跨いで自ら乗り込むフットワークの軽さを発揮しているんですね。
 この場面でのこのフットワークの軽さは、助けると決めたら最後まできちんと面倒を見る誠実さがあり、気になってしまったらすぐ行動してしまう行動力や人の好さもあり、尚隆の魅力が詰まった登場の仕方だと思います。
 内乱で混乱している国に直接乗り込む王ってすごい…それを許す官吏たちとの信頼関係もすごい…。

 それと、「お前の消息は分からないと聞いたから来ないわけにはいかない」という言い方、ずるいと思います…。たぶん、この人は本当に単純に、人が好くて、フットワークが軽い人なんでしょうけど、こんな言われ方されたら、うっかり好きになってしまいますよ…。人誑しだなぁ…と思います。ずるい人です。

 このフットワークの軽さ、人を惹きつける魅力があるな、と感じてしまいます。


⑬ 気さくで、場を楽しむユーモアや遊び心を忘れないところ


 気さくさ!
 こちらも、尚隆という人間の持つ性質の中で、語るに外せない要素だと思っています。
 人に接する時の、柔和で人あたりの良い振る舞いが大好きです。
 それから、いつどんな時でも、場を楽しむ遊び心があるところも好きです。

 まず何よりこのことを感じるのは、市井に降りて民の中に混ざり、馴染んでいることが分かる尚隆の描写ですね。
 帷湍には怒られていますが、「妓楼で賭博に興じて有り金を巻き上げられ、借金のかたに乗騎を取られて庭掃除して借金を返そうと箒を握っていた」という尚隆の描写が、私は大好きです。
 完全に街の民に馴染んでいて、借金したら庭掃除して返すとか、可愛すぎませんか…。王という身分を振りかざさずに、一人の人間として市井の民の生活の中に溶け込んでいるのが大好きなのです。借金の返し方が庭掃除って、それが許されているあたりも、店や周囲に溶け込んで愛されているということなのではないかと思います。
 で、実際はそこで、妓楼での元州の羽振りの良さという情報を仕入れて謀反の気配を察知していたりするんですよ…。気さくで人好きのする態度の裏でしっかり物事を考えて動いている人、堪らなく大好きです。

 その気さくさも、作っているのではなく、自然な人柄なのがまた大好きです。
 小松の若だった頃から、尚隆は領民たちに混ざって彼らに親しまれている描写がたくさんあって、その頃から気さくで親しみやすい性質は変わっていないんだなと感じます。「小松の倅は城下の漁師たちには親しまれていた。」「誰もが笑いながら扱き下ろす。敬愛されているわけではないが、人々と尚隆の距離は近かった。」と六太に評され、領民には「若は働き頭だからな。」と信頼され、いよいよ国が危うい危機の中にあっても、笑って領民たちを安堵させて彼らから軽口や揶揄が飛び出すくらいに彼らと距離の近い関係を築いている尚隆が好きです。

 そんな尚隆が、初対面の人間相手にもフランクに接して、場を楽しんでいるのが好きだなと感じる場面があります。

「……で?」
「で?」
「あなたは何者?台輔の護衛か何か?」
 ああ、と男は笑った。
「称号でいうなら俺は延王だ。——雁州国王、延」

 陽子はしばらく身動きができなかったし、楽俊に至っては髭も尻尾も立てたままで硬直してしまった。
 まじまじと見つめられたほうは笑う。彼がこの状況を楽しんでいるのは明らかだった。

新潮文庫「月の影 影の海」P.173

 
 はい大好き~~!!!
 本当にこのシーン大好きです。まず、「雁州国王、延」っていう名乗り方かっこよすぎ…。名乗られたい…。
 そして、陽子に伝わっているほど明らかに場を楽しんでいるの、大好き…!

 この、場を楽しむって、人を安心させることや、自身がどんな場面でも希望を失わずにいると言うことにも繋がっていると思うのです。
 いつでも場を楽しむ精神を持っているから、どんな場面でも人のために笑い、人を安心させ、希望を見せるということ、自分自身もどんな場面でも希望を失わずに前を向ける、ということに繋がっているようで、だから私は、いつも場を楽しんで振る舞っている尚隆が大好きです。

 他にもこんなところからも、この人、楽しんでるな~と感じます。

 あの人はちょくちょく大学に遊びに来る。延王もだ。——一体いつ、仕事をしてるんだろうな。もっとも、雁の官吏は有能で有名なんで、あまりすることがねえのかもしれねえけど。
 さすがにお忍びなんで、夜に窓から文字通り忍び込んでくるんだ。窓を叩かれて外を見てみたら、宙に人間が浮いてる。何度やられても心臓に悪いな、あれは。

新潮文庫「華胥の幽夢」(「書簡」)P.167


 この描写です。これは、楽俊の陽子に対する青鳥の中で出てくる言及です。ちなみに冒頭の「あの人」は、六太のことですね。
 もうね、2人揃って何してるんですかっていう。好きすぎます。これ、絶対楽しんでやってるじゃないですか。そしてちょくちょく遊びに来るの、本当にフランクだしフットワーク軽い。大好き。
 絶対、何度やられても驚く楽俊を見て楽しんでいるんですよ。
 私はそういう遊び心、好きですね。楽しそうでいいなあって。もう、ずっと、そうやって小さなことを楽しんで、いつもいつまでも楽しく生きていてほしい。
 こういう、人に対してフランクで、いつもその場を楽しんでいる尚隆が好きです。
 楽俊が初めて玄英宮に行った際、官吏が用意した衣服を「楽俊、そんなもの脱いでも構わんぞ」と言う尚隆も好きです。本当に気さくで気取らない人。そして人にも自然体でいることを尊重する人。

 気さくで柔和な態度と、希望を失わず、人に希望を与え、そして人を尊重する、そんな本質的な人間性や意識的な信念がすべて密接に結びついていて、全部が尚隆という人間になっているのが大好きです。

 

⑭ 結構よく笑うところ


 これは少し毛色の違った項目になるのですが、私はとにかく尚隆の笑っているシーンが好きです。
 もう、ずっと笑っていてほしい…!!

 そして、この人、結構良く笑うんですよ。
 出てくるシーンのほとんどで笑っているのでは、と感じるくらい、良く笑います。
 私はそんな、尚隆の笑っているシーンを見ると、優しいなあ、とか愛しいなあ、とか、気持ちが溢れてしまって幸せな気持ちになるので、尚隆の笑っているシーンが大好きです。

 という訳で、尚隆の笑っているシーンで好きなところをひたすら挙げて、好きな気持ちを記していきます!

 まず、ここまでに触れたシーンの中でも尚隆はよく笑っていて、そこで挙げたシーンはもうもちろん全部好きですね。
 陽子に対して延王であると明かして笑っているシーンとか、慶の偽王軍と戦う際の勝算を聞かれて笑って返すシーンとか、折山の荒廃の雁を見て六太を安堵させるために前向きな展望を語って笑うシーンとか、小松の領民を安心させるために笑って「なんとかしてやる」と言ったシーンとか…。
 楽しんで笑っているのも、優しさで笑っているのも、誰かのために笑うのも、自分を奮起させるために笑うのも、全部好きです。大好き!!

 ここではもう少しさりげないシーンを取り上げておきます。だって!好きだから!


「まさか、延台輔でいらっしゃいますか」
 男は人の悪い笑みを浮かべた。
「台輔は留守だ。要件ならば俺が聞く」

新潮文庫「月の影 影の海」P.171


 人の悪い笑み…!!何それかっこいい…!!ドキッとしてときめいてしまいますね。
 人の悪い笑み、こちらにもお願いします!!

延に続いて陽子たちを乗せた虎が岩場に降り立つ。先に降り立った延が振り返って笑顔を見せた。

新潮文庫「月の影 影の海」P.185


 えっ振り返って笑うんですか…。かっこいい…。そんなの、心を鷲掴みにされてしまうじゃないですか…。

「不思議だ……。どうして水が落ちないんだろう」
「雲海の水が落ちたらみんな困るじゃないか」
 くつくつと笑ったのは延だった。
「気に入ったのなら、景王には露台のある部屋を用意させてもらおう」

新潮文庫「月の影 影の海」P.188


 く…くつくつと笑うんだ…。笑い方のバリエーション多くて大好き…。くつくつ笑うのもかっこいいですねぇ…。

「……あの?」
 問いかける泰麒に延は笑う。
「分かったろう?」
 何が、と問うまでもなかった。
「——麒麟は偽りの誓約など、できはせぬ」
 目許を和ませた延の頭を、延麒がぞんざいに叩いた。

新潮文庫「風の海 迷宮の岸」P.362


 目許を和ませた延…!!!ここ、大好きすぎて転がってしまうほどです。
 や、優しい…!!!悪役をノリノリで引き受けてやりすぎなくらいの演技までした後にこんな優しさを見せてくるのはずるい……。

「名誉の王と実務の王と、二王は国を荒らすもとでございましょう。名実共に実権をどなたかにお譲りになり、王におかれましては離宮へとお運びいただければ、百花の競うをお目にかけまする。園甫でごゆるりと風懐に励まれませ」
 尚隆は爆笑した。

新潮文庫「東の海神 西の滄海」P.163,164


 えっ…爆笑するんだ…ここ、大好きです。爆笑するんだ…と思って。
 権力を譲り渡す要求を一笑に付して即座に断る尚隆、かっこよくて大好きです。

「お前たちに少しでも道を正す気があるのなら、卿伯を捕えなさい……」
 言って、白沢は眼を見開いた。斡由の背後に控える小臣ら、その中の一人に見覚えがないか。
「まさか——」
 その男はにっ、と笑う。

新潮文庫「東の海神 西の滄海」P.313


 これ~~~!!!大好きなシーンです。「にっ、と笑う。」って!!!
 かっこよすぎる!!!!!まあそもそも斡由の側近に紛れ込んでるところからしてかっこよすぎて大好き。ずるいですね~~憎い演出ですよ。こんなのもう圧倒的にかっこいいじゃないですか。
 というか、白沢って、役得ですよね…爆笑も見れて、にっ、と笑うのも見れて。いいな。

 この顛末を聞いて、当の延王尚隆は大笑いした。
「陽子も苦労しているな」』

新潮文庫「風の万里 黎明の空」(上)P.67


 陽子が着飾らされて苦労している話を聞いた尚隆ですが、お、大笑い…好き…。自然体の笑いが見られて好きな描写です。

「最初に、そこそこにせよ良い形ができてないと、長い王朝にはならないんだけどな」
 言ってから、利広は風漢の顔を見て、思わず笑った。
「まあ、まれに、良い形どころか支離滅裂で、そのくせ五百年ばかり生き延びた化け物じみた例もあるけどね」
 風漢はただ、大きく笑った。

新潮文庫「華胥の幽夢」(「帰山」)P.311


 大きく笑った…!!!
 好き~~~!!!!!
 ここも自然体の尚隆が見れていいですね。そして、本当、よく笑う人だなあと思って、大好きなんです。それに結構、笑い方が豪快なのが好きなんですよね。楽しそうで嬉しい。

「拙いなあ。……あり得るような気がしてしまった」
 風漢は大いに笑い、そして窓の外に目をやる。
「……想像の範疇のことは起こらぬ」

新潮文庫「華胥の幽夢」(「帰山」)P.320


 は~~~大いに笑う…。何というか、笑い方につく修飾語が本当に多岐に渡っていて本当に好きなんですよ…。いつでも大いに笑っていてほしい…。楽しそうな尚隆が好き…。
 そして、大いに笑っておいて、その後すぐに真剣な言葉をかけるこの緩急も…!大好きですね…。

 本当に、この項目は、ただひたすら、笑っている尚隆が好き、というお話でした。
 意識的に笑っているのも自然体で笑っているのも全部好きです。
 本当にいつまでも楽しく笑って生きていてほしい。

 ただ、気付いてしまったのですが、本当に尚隆はよく笑う人なのですが、『黄昏の岸 暁の天』では笑っているシーンが全然ないんですよね…。私がざっと再読したところでは、笑っている場面が見つけられませんでした。
 えっやっぱり、この作品の尚隆はとてもお疲れですよね…皆のために一生懸命働いている尚隆を労いたい気持ちが高まりました。


⑮ポロっと見せる本音

 

 さて、これまでに散々、尚隆の、人を安心させる笑顔や、余裕のある振る舞いが好きと言う話をしてきたのですが、一方で、それはつまり、この人はあまり心の深い部分を表に出さないということでもあるなと感じています。
 言葉を大事にしているので、嘘はあまり吐かないのですが、一方で1番心の奥底にあるものも中々見せてくれない。そんな人のように思っています。

 実際、尚隆は、陽子に対するアドバイスで、「国を治めると言うことは、実は辛い」「だが、その苦渋を決して民に見せてはならん」「迷う君主を民が信じると思うか。統治に苦しむ王に暮らしを預けていられるか」と言っているんですよね…。
 これって、尚隆が、人を安心させるために自身の苦悩を見せないように振る舞っているということだと思っていて、やはり尚隆のおおらかで明るい振る舞いや余裕のある言動は、人を安心させるために意識的にやっている部分が多分にあるのだなと思えて、そんな尚隆がとても好きな一方で、それって本人にとっては辛いことなのではないか、とも思うのです。
 王という、すべての官吏と民の上に立つ存在では、自分の弱さや悩みを見せられる相手がほとんどいない。
 それでも、民のために、臣下のために、自身の苦悩は見せまいと振る舞う尚隆の優しさやリーダーシップが好きです。

 その一方で、そんな尚隆が、零れ落ちるように心の奥底の本音を見せているな、と感じる場面がいくつかあって、そういう場面で現れる尚隆の本音というのが、どれをとっても、誠実で、優しくて、人を、民を大事にしていて、そしてそれがあまりにも混じり気なく純粋に伝わってくるので、そんな心に触れたらもう、尚隆のことがより一層、好きで好きで堪らなくなってしまうのです。

 そんな、尚隆の本音を感じるシーンに、いくつか触れたいと思います。

 まずはこちら。

「歩けない。負ぶって」
 六太はその男を見上げる。男はほんのわずか、苦笑した。黙って屈み込み大きな背中を向けるので、それにしがみついた。——どうしてこんな所にいる。どうせまた、朱衡たちを嘆かせるようなことを考えついたのだろう。とんでもない奴だ、と六太はしがみついた手に力を込めた。
 その声はごく微か、衣擦れに紛れそうな具合だった。
「……あまり心配をかけるな」

新潮文庫「東の海神 西の滄海」P.282


 は~~~!大好きすぎる名シーンです。作中で1番好きなシーンを挙げろと言われたら、数多のシーンと迷いつつ、結局ここを挙げてしまうくらいにはめちゃくちゃ大好き。

 こんな、敵陣の真ん中で、再会して、そんな状況で、衣擦れに紛れるほどの微かな声で、尚隆の本音が零れ落ちるのが大好きで…!!!
 そして、その本音が、「あまり心配をかけるな」って!!!!!

 うわ~~~!!!!!めちゃくちゃ六太のこと大事に想っているじゃないですか!!!っていう!!!!!
 この人、側近たちの前では、六太のことを「俺が心配して、それでどうにかなるのか?」なんて言って呆れられていたんですよ…。それが、本人にだけ聞こえるように、それも敵陣で正体を見抜かれるわけにはいかない状況で、それでも微かに零れ落ちるように伝えるんですよ…。

 こんな!こんな本音の発露、心をかき乱されるじゃないですか……。
 本当は、こんなにも心配していたという、この尚隆の心の奥底の本音の発露が、大好きで大好きで堪りません。

 さらに、尚隆が、珍しく臣下に対して真剣に本音を見せているな、と感じるシーンがあります。

「礼は言わぬほうがいい。仮に州侯が叛旗を翻せば、まず間違いなく牧伯の身は危うい。州侯城へ行ってくれと言うは、万が一、事あったときには命を捨ててくれと言うに等しい。——だが、俺には手駒が少ない。死なせるにはあまりに惜しいが、お前のほかに行ってもらう者がいない」
 驪媚は粛然とし、いつになく生真面目な顔をした王を見返した。
 (中略)
「——行ってくれるか」
「喜んで拝命いたします」
 尚隆は軽く頭を下げた。済まない、と低く沈痛な声が聞こえた。その声音で、驪媚は一切の覚悟を決めたのだ。

新潮文庫「東の海神 西の滄海」P.214,215


 これ…ですね…。
 「苦悩を見せるな」と言い、実際他のどの場面でも苦悩を悟らせるような言動をしない尚隆が、作中で唯一、臣下に苦悩を見せている場面だと思っています。
 それが、済まない、という低く沈痛な声で…犠牲を覚悟しなければならない苦悩なんですよね…。

 ここで語っていることと、真摯な態度は、紛うことなく尚隆の心からの本音だと思います。
 その心からの本音が、一人の臣下を、人間を大事にするという真摯なものであることに、尚隆の人間性が見えて胸を打たれます。
 この話を本音で伝えるということ自体が、すべてを開示した上で相手の意志を尊重して頼むという誠実さだと思っていますが、ここで普段見せない苦悩が見えることに、その誠意の真剣さを感じます。

 普段見せない心の奥底が見えたと思ったら、それが犠牲を生みたくない苦悩、相手を大事に想うがゆえの苦悩であることが胸に痛く、けれどもそんな尚隆のことが好きで堪らなくなる、印象的な場面です。

 最後にもう1つ、尚隆の本音を感じる場面です。

「——ふざけるな‼」
 六太に怒鳴って尚隆は更夜を振り返る。
「国が滅んでもいいだと?死んでもいいだとぬかすのだぞ、俺の国民が!民がそう言えば、俺は何のためにあればいいのだ⁉」
 更夜は瞬いて尚隆を見上げる。
「民のいない王に何の意味がある。国を頼むと民から託されているからこそ、俺は王でいられるのだぞ!その民が国など滅んでいいと言う。では俺は何のためにここにおるのだ!」
 敗走する人々に向かって射かけられる矢。城も領地もそこに住む人々も一切が炎の中に消えた。
「生き恥曝して落ち延びたはなぜだ!俺は一度すでに託された国を亡くした。民に殉じて死んでしまえばよかったものを、それをしなかったのは、まだ託される国があると聞いたからだ!」

新潮文庫「東の海神 西の滄海」P.293,294


 やっぱり、尚隆の怒りの発露の場面は本音が表れていると感じるのですが、私が特にこの場面に本音を感じるのは、王になる誓約の際に、尚隆は六太から「死ぬつもりだったのか」と聞かれたことに対して直接的には回答していなくて、けれどもこの場面でその答えが明確になっているからです。

 もちろん、「死ぬつもりだったのか」に対して答えた「願いを託されておきながらそれを返す術がないことに嫌気が差す」というのも心からの真実の言葉だと思っていますが、これは直接的な回答を避けた言い回しにもなっていて、また、この時の六太が、小松の民ではない、外から来た存在であることも、この更夜に対する場面とは対照的だなと感じています。

 聞かれた時に直接的に回答しなかったことに対する答えになるものがここで発露しているということ、そしてそれを、普段は決して苦悩を見せない民自身にぶつけていることに、止められない激情によって発露した本音の重みを感じるのです。

 そして、その場面で発露しているものが、「民のいない王に何の意味がある。」という言葉なのがまた、堪らなく大好きなところです。
 国は民のためにあり、王という存在の意義も民のためのものであると、そう心から思っている人なんだということが、この本音の発露の場面で出てくる言葉から確信できるのです。

 そういう尚隆だから、「民の王は王自身だけでいい」と言って、権力者や、王というものを信じられなかった六太が、この人に国と民を託していいと信じられるに至ったのだと思います。
 「民のいない王に何の意味がある。」と本気で思っている、その心がここまで純度の高いものである王、唯一無二の存在だと思います。

 とてつもなく長くなりましたが、私はこうした、尚隆の本音の見えるシーンというのは、尚隆の心の奥底に近いもの、本質的な部分の発露であると感じています。

 それが、自身の大切な存在を心から大事に想っていること、民のために自身があると本気で思っていることであるということだなんて、深く知れば知るほど、どこまでも信頼と敬愛が深まってしまうお人です。
 感嘆してしまうほど大好き。



⑯ 公平なところ、フラットな視点と柔軟性


 前の項目がだいぶ長くなってしまった後で、また話はかなり変わりますが、公平で柔軟な尚隆が好きという話をしたいです。

 これも、私の中ではかなり核というか、尚隆のあり方の中で大きな要素だと思っている部分であり、大好きな部分です。

 まずはこちらの描写に触れたいです。


「麒麟は蝕を起こすことができる。お前は虚海を渡れる身体になったのだから、造作はない。もしもお前が是が非でも帰りたいのなら、景麒が否と言っても延麒に送らせると約束しよう」
 フェアな人物だ、と陽子は思う。王にならないのなら帰さないと脅迫することもできるのに。

新潮文庫「月の影 影の海」P.218


 陽子に「フェアな人物」と評される尚隆が大好きです…!!!
 どこまでも、人の意志を尊重する人物だからこそだと思うのですが、本当に、陽子の言う通りフェアな人だと思います。
 脅したり無理強いしたり、そういうことを決してしない人なんですよね…。人の意志を尊重して、公平な条件で選択を委ねている。大好き。
 現代の女子高生だった陽子に「フェアな人物」と評されるのも凄い人だなと思っています。だってこの人、五百年以上生きているんですよ。それなのに、現代の若者の価値観から見ても「フェア」と評される。
 何て確かな倫理観や公平さを具えた人物なんでしょう。

 先にも挙げた、『黄昏の岸 暁の天』で陽子と口論になった際の尚隆の選択も大好きです。
 先ではその場面での尚隆の人の好さや面倒見の良さに触れましたが、同時にこの場面は尚隆の公正な姿勢が際立っているなと感じる場面でもあります。

 というのも、この場面で、尚隆が最後に陽子の意見を取り入れて「泰麒を捜す。俺が采配をすればいいのだろう」と宣言するのが大好きで。お節介で陽子を止めに来たはずなのに、最終的に采配を引き受けてる人の好さも大好きなのですが、それを引き受けるに当たっての尚隆の姿勢も大好きです。当初尚隆は、陽子のことを止めて、反対意見を呈し、陽子からの雁の民を質に取るような大胆な発言や雁の民に対する軽視の響きを伴った非難に憤っているのですが、そんな中で最終的に陽子の意見を取り入れたのは、陽子の「私が斃れたとき、あるいは道を失ったときのために、民を救済する前例を作っておきたい。王がいなくても民が救われるような道を敷いておきたいんだ」という言葉で、その提案が、自国の民にとっても無関係ではない相互扶助の救民事業に繋がると判断したからなのではないかと思います。
 この陽子の話を聞いて、唖然としている尚隆と六太も好きです。五百年国を治めてきた二人を唖然とさせるほどの案を口に出す陽子の賢さや大物ぶりも光っていて、新たな世界の希望の息吹も感じます。

 この意図と構想を語った上で、「誰もやったことがないなら、やれないものか試してみたい。諸国に依頼して力を借りることはできませんか」と言われたことが、尚隆が陽子の提案を受け入れるきっかけになるんですよね。

 私はこの流れが本当に好きです。
 自分のやり方を非難されたり、自分の心から大事にしている国と民を脅かす発言をされたりして憤っているのに、その憤りの感情に左右されずに、陽子の提案をきちんと聞いて、その中身を見て決断しているのが、本当に!フェアな人!!と思います。
 それも、大国の王と新米王という立場や、登極時に助けた恩があるというパワーバランスをまったく使うことなく、本当に対等に、フラットな視点で意見を聞いて判断していて、それって本当に公平で素晴らしい人だなと心から思うのです。
 そんな人を、出会って数日で「フェアな人物」と感じ取っている陽子も凄いですよね。いや、それほどまでに滲み出る尚隆のフェアな人物ぶりが凄いのか…。

 この、自分の感情や立場に捕らわれず相手の意見を聞き、良いと思ったものは取り入れる姿勢って、とてもフェアな人だなと思うと同時に、謙虚で柔軟だなとも思います。自分を過信していなくて、人を尊重していて、相手の意見を受け入れられる柔軟さがある。

 いつまでもこうして、謙虚で柔軟な姿勢を忘れないから、尚隆は五百年もずっと名君であり続けられているのだと思います。どんなに自身の能力が優れていても、時代の流れについていき、その時々の民の望みや不満を掬い上げて柔軟に対応できなければ、軋みや綻びが生じてしまうものです。だから作中でも、一人の王が長く国を治めることの難しさは描かれていますし、尚隆も、いつでも同じやり方を続けていたのであれば五百年も国を治めていないのではないかと思います。
 柔軟性って、とても大事な要素なのではないでしょうか。

 国が富めばいい、と言って、良い制度があると聞けば奏の真似をしようと国の様子を見に行くあたりにも、良いものは積極的に取り入れる柔軟性を感じます。
 それは、国を豊かにする、という一番大事なことを分かっていて、優先順位がはっきりしているからこそのことで、この尚隆の公正さや柔軟さというのは、尚隆の様々な人間的魅力と結びついている部分で、だから私はこの部分がとても好きなのかもしれません。

 本当に、「フェアな人物」という尚隆評が、しっくり来すぎて大好きなのです。五百年も時代の違う若い女性に、「フェアな人物」と評されるって本当に凄いことだと思います。
 尚隆との口論というか議論で、陽子があれだけ強く物を言えるもの、尚隆のそうした人柄に対する信頼があって、少しくらい失礼になっても大胆に考えていることを言っていい空気をずっと尚隆が作ってきたからこそなのだろうと思っています。
 だからあれだけも議論ができて、そこで対立意見が真剣にぶつかったからこそ、尚隆だけでも陽子だけでも思いついて実行することはできなかったであろう、戴を救うための最善の道が見つかったのだと思います。

 本当に、この公正さや柔軟性は、五百年の治世を続かせる名君の秘訣であり、他国をも救い、十二国世界の未来まで切り開いているなと思います。
(大好きすぎて壮大なことを言ってしまう。)


⑰ 自分を知り、自分に対して素直であれるところ


 そんな、優しくて、人を尊重し、フラットな目で柔軟に物事を判断する尚隆ですが、己の心に対してとても素直な部分も見えて、私はそんな部分もまた大好きだったりします。

 尚隆のそんな面が見えるのが、まず作中で六太が「尚隆は概ね、やりたいようにやるのだ。」と語っている部分です。この時の六太は、まだ王としての尚隆を信用しきれていなかったため、この描写は六太はネガティブな意味で語っているのですが、私はこの、「概ね、やりたいようにやる」尚隆のこと、とても好きなんですよね。

 だって、あんなに民のため、臣下のため、目の前の相手のため、って、いつも人のため人のために動いている尚隆が、同時に、「やりたいようにやる」と評される面を持っているんですよ。それって最高ではありませんか。

 やりたいようにやるって、自分を持っていて、それを貫ける、ということであって、私はそういう人が好きですし、自分もそうありたい、と思っています

 つまり、尚隆って、人のために動く優しい人ではあるけれど、決して周囲や環境に流されやすい人という訳ではなくて、自分を持っていて、自分の心を自分で理解することができ、そしてそれに素直に行動できる、そんな純粋で強い心の持ち主でもあると思うのです。

 自分の心に素直な尚隆のことを、とても純粋で強い人だと感じて、好きで好きで堪らないシーンがこちらです。

「……お前、国が欲しいか」
 六太が低く訊くと、尚隆は天を仰いだまま答えた。
「欲しいな」

新潮文庫「東の海神 西の滄海」P.328

「二度と瀬戸内の海にも島にも戻れない」
「……ほう?」
「それでも良ければ、お前に一国をやる。——玉座が欲しいか」
 六太が見据える視線に、尚隆は静かに言葉を返した。
「……欲しい」

新潮文庫「東の海神 西の滄海」P.329,330

 

 本っっっ当に、大好きなんです。「国が欲しいか」に対して、「欲しい」と返す尚隆が。
 この、あまりにも純粋な、願いの発露が。その願いに、心に素直であれる尚隆が。

 己の心に素直であるって、簡単なようで実はとても難しいことで、それを、すべてを失って、自分が自分でいられるよすがを失って、それでも己の心を見失わず、そしてその心に素直に願いを口に出せた尚隆が大好きです。
 それほどまでに、この願いは、純度の高いものなのだと、心にまっすぐに伝わってきます。

 そんな純粋な願いから手にすることができた国で、民のことを心から大事に想う尚隆が大好きなのですが、その心にも素直なところがまた大好きです。

 これまでに何度か挙げた、全部滅びてしまえばいい、と言った更夜に尚隆が激昂するシーンが私は本当に大好きで、その時の、尚隆の怒り方が好きで堪らないんですね。
 何が好きって、全部滅びてしまえばいい、と、自分のことも他人のことも大事にできなくなっている更夜に対して、その言葉自体を咎めてそのようなことを言うな、と怒るのではなく、「死んでもいいだとぬかすのだぞ、俺の国民が!」「民がそう言えば、俺は何のためにあればいいのだ⁉」と、ひたすら自分の感情で怒っているんですよ…。

 綺麗事や、正しさを説くこともできるのに、そんなことはせず、いえ、そんなことはきっと頭に存在すらしていなくて、ただ、自分の感情で、「自分の民に生きてほしい」、「自分の民に死んでもいいなどと言われたくない」から怒っているのです。
 私は!そんな!ここで見せる尚隆のエゴが大好き!!!

 いつもいつも、人に手助けをする時や助言をする時でさえ、相手の意志を尊重している尚隆が、相手の意志よりも自分のエゴを優先して感情を爆発させる場面があるのが大好きで…その感情が、「民に生きてほしい」であることがもう…好きすぎて言葉になりません。
 小松時代に、民を置いて逃げてほしいと言われた時に見せた怒りも同じですね。民に生きてほしくて激昂するのです。
 
 とても他者を尊重し、他者の幸福のために懸命になる人だけれども、自分にとって大事な、譲れない部分では、自分の感情に素直になれる尚隆が大好きです。

 そして、尚隆が自分の心に素直に、自分の感情を優先するほど強く、譲れない感情が、「国が欲しい」であり、「民に生きてほしい」であることに、この人は本当に、自分自身と、国、民が同義になっているんだな、と感じて、そんな尚隆に対する感動と敬愛が心の底から湧き上がって止まりません。
 まさに、「民は俺の身体だ」という、その言葉の通りなんです。
 本当にすべてが矛盾なく、感情も、言葉も純度が高くて美しい。
 こんな風に、純度の高い心で、そんな心に素直に生きていきたいものです。

 そんな尚隆が、自分でも、自身が譲れないものには素直に手を伸ばすことを自覚して、それすら淀みなく言い切るところも大好きです。


「更夜、言ったろう。俺はお前に豊かな国を手渡すためにあるのだ。受け取る相手がいなければ、一切が意義を失う」
「おれ以外の奴に与えてやればいい。欲しがってる奴がいくらでもいるだろう」
「俺は欲張りだからな。百万の民と百万と一の民なら、後者を選ぶ」

新潮文庫「東の海神 西の滄海」P.321


 堪りませんねえ…本当に大好きです。「百万の民と百万と一の民なら、後者を選ぶ」という、一人でも多くの民に必要とされ、一人でも多くの民を幸福にしたいという、あまりにも崇高すぎる願い。それを「欲張り」と、「欲」と表現して口に出す尚隆が大好きです。
 本当にこの人は、義務感や使命感ではなく、自分自身の「欲」として、民を大事にし、幸福にすることを心から望んでいる人なんだなと、そんな尚隆が、眩しくて、美しくて、大好きで堪りません。

 欲…欲と言うけれど、尚隆が見せる強い願いや感情って、民に必要とされたい、民を幸福にしたい、という、どこまでも人のためにありたいという望みなんですよね…。心からの欲が、大事なもののためにありたい、って、そんな人、この人しか知らない。

 それって「欲」と言うのかな…と思いつつも、そうしたくて、それができなければ己でいられないほどの、己の心の内から湧き上がる望みなのであればそれは確かに「欲」で、それほどまでに、民を幸福にし、民のためにあることが心からの望みであって、それを自覚し、その心に素直に言葉を発し、手を伸ばせる尚隆のことが私は大好きです。

 譲れないものが明確で、譲れないものに関しては己の心に素直に振る舞える尚隆が好き。

 その譲れないものや、心のあり方から全部好き。

  

⑱ 誰一人犠牲にしない、誰も取り残さないことを望む愛情深さ


 「百万の民と百万と一の民なら、後者を選ぶ」という言葉からは、一人も取りこぼしたくない、犠牲にしたくない、一人でも多くを救いたい、という尚隆の心を感じます。
 この言葉がさらりと出てくるくらい、尚隆は、誰も犠牲にしたくない、一人でも多く救いたい、と心から思っている人だと思います。

 そんな、誰一人犠牲にしたくない、誰も取り残さない、という尚隆の、民を幸福に生かすことへの理想の高さ、想いの強さも、彼の大好きなところの1つです。

 尚隆は、優先順位をつけるのが上手く、決めた優先順位に対して迷いを断ち切って進むことで現実的な最大限の望ましい結果に導く知性に長けていると思っていますし、そうした聡明さも魅力の1つで大好きなのですが、一方で、心の奥底は、どこまでも、甘さとも言えるほどに優しく、何一つ、誰一人として犠牲にしたくない、そういう人なのではないかと感じています。
 私は、尚隆の本質はその甘いほどの優しさなのではないかと思っていて、そんな尚隆だから、尚隆のことが心の底から大好きです。

 尚隆のそういった部分を感じる描写が、まず小松の若、そして領主だった時の発言です。


 尚隆はあっけらかんと笑った。
「戦わなければいいのだ。小早川が攻めて来たら諸手を挙げて小早川の民になる。河野なら河野。それならば特に不都合はあるまい」
 六太は呆れて口を開けた。
「分かった。お前って本当に莫迦なんだ」
 尚隆は声を上げて笑った。

新潮文庫「東の海神 西の滄海」P.154


 えっ…あっけらかんと笑う尚隆…好き…。
 ですが、ここではその話は涙を飲んで置いておいて…。

 この、何とも見通しの甘い尚隆の発言が、私はとてもとても好きなんです。
 そんな…降伏したらそれでいいって…良くないんですよ、属国にされたら民の生活はどうなるのか…私はこの尚隆の考え方は、民の幸福を考えた時に正解とは言えないと思っていますが、それでも、とにかく戦を避けたい、民を戦わせたくない、犠牲者を出したくないんだろうな、と感じて、そんな尚隆のことが大好きで堪りません。
 冷静に国力を考えて勝ち目がないと判断していたからなのかもしれませんが、それであれば尚更、民の命だけは守ろうとしていたのだと思います。
 戦があるのが当たり前の時代に、どうしたらあんな風に育つのだろう、と思うほど、戦嫌いの平和主義だと感じます。そんな尚隆が大好き。

 そんな尚隆だから、雁の王として国を治めるに当たっても、徹底的に内乱になることを防いでいるように思います。
 官吏の整理を長年放置して不満や反発を抑えていた手腕にしても、自ら街に降りて情報収集をし、戦の種をいち早く察知していたことも、本当に戦を避けることを常に意識しているなと感じます。
 それって、尚隆が、戦乱の世の中で育ったからこそ、戦で民の命が奪われることを避けたいという価値観が強く、それが一つ一つの選択や優先順位のつけ方に反映されているのではないかと思います。

 元州の乱の折にも、それが顕著に表れていると感じていて、乱に対して尚隆の対応した策が、関弓に3万人の民を置いて抑止力とし、元州を王師に包囲させて動きを封じ、道中に募った役夫に築堤をさせて相手の出方を見る心理戦を仕掛ける、というやり方で、どれ一つとっても、うまくいけば一つも交戦が起きずに済む方法です。
 こんなところからも、私は尚隆が、謀反への対応に当たっても、民を戦わせず、できる限り命を失わずに済む結果を目指し、それが一番に叶う道を探し、選択し続けていたように思うのです。

 戦うつもりで志願した民にやらせたことが、抑止力として立っていてもらうことと、漉水における築堤、というのが私は大好きで、民を戦わせない国って、何て素晴らしいんだ…!と思うのです。命を奪う戦ではなく、命を生かす築堤をさせる。
 そんなところに、尚隆の意図や人間性の根幹が見えるようで、徹底的に民を戦わせず、一人でも多く生かし、幸福にしようと、常にそれを第一に考えている尚隆が大好きです。

 本当に本当に、徹底しているな、どこまでも理想を追求し、その実現のために苦悩し奔走する人なんだな、と思います。大好き。

 元州の謀反の原因となってしまった、「低きを埋めて国土をまず均す」という尚隆の取った国を立て直す方針も、つまりは誰も置いていかない、ということだと感じていて、もう!この人、本当に、誰一人取り残したくない、犠牲にしたくないんだ…と思います。
 それがうまくいくこともあれば、裏目に出ることもあると思うので、それが必ずしも最善の結果になるとは限らないとは思うのですが、私はそれでも、誰一人取り残さない、誰一人犠牲にしたくない、そういう精神で、理想の、最善の結果を目指すことを諦めない、そんな尚隆のあり方が大好きです。
 好き!とにかく好き!大好き!!!

 まさに、「百万の民と百万と一の民なら、後者を選ぶ。」という、その言葉の通りの人だなと思います。
 本当、本当に、言葉に嘘がない人ですよね。
 ほら、こうやって、全部繋がる。

 そのくらい、誰も犠牲にしないこと、に対して真剣な尚隆が大好きです。 


⑲ どんな人間も極力受け入れようとする懐の深さと寛容さ


 誰も犠牲にしたくない、という尚隆の精神は、人の生死だけでなく、その生き方に対しても及んでると思っています。
 そして、そのことと結びついて、尚隆は、どんな人間に対しても望む生き方を認め、極力多くを許容する懐の深さや寛容さを持っている人だと思います。

 尚隆に対しては、『黄昏の岸 暁の天』で見せた、各国の面々の自由な振る舞いに手を焼きながらそれを許容し、面倒を見ている苦労人なところなんかからも、私は底抜けの寛容さを感じているのですが、それを超えて、自国の運営に当たっては、民にどんな生き方も許容し、可能な限り尊重する、という形で表れていると感じています。

 このことをまず、一番に感じるのがこちらの場面です。

 では、と尚隆は頷く。
「お前とその妖魔に住む場所を与えよう」
 更夜は笑う。痛々しいほど顔を歪めて。
「どんな贅沢な牢獄?銀の格子の檻だろうか」「妖魔に襲われることのない国だ」
 尚隆は手を伸ばす。更夜の肩に嘴を埋める妖魔の頭にそれを載せた。眼を見開く更夜の脇でろくたの身体が緊張して、それでも撫でられるままになっている。

新潮文庫「東の海神 西の滄海」P.323


 こ!れ!が!本当~~~に!大好きなシーンで。
 尚隆は、「人の世で生きたい」、けれども「養い親である妖魔のろくたとも離れたくない」という、更夜の願いをどちらも叶えようと、それ実現することを考え、その理想を提示するんですよね…。

 更夜の苦しみって、その2つの願いが相反していて、妖魔と一緒では人の世で受け入れてもらえないことから始まっているように思います。斡由に拾われて、ようやくそれが叶う居場所を見つけたと思ったら、結局は斡由からも養い親も自分も人ならざるものとして扱われてしまい、完全に心が壊れてしまったように見えます。

 それを、尚隆が、「妖魔と一緒でも、人を襲わないのなら人の世で生きていける場所を作る」と宣言するんですよね。

 そして、養い親のろくたに手を伸ばして、触れる。言葉だけでなく、行動で、その言葉が本心からのものだと示す尚隆が大好きです。
 こういうところにも、尚隆の、言葉を現実にする意志の強い、有言実行の男…!という部分が見えて、好き、が募ってしまいます。

 このシーンの何が好きって、尚隆が、更夜に与えようと約束するものが、ただ「生きられる」というだけでも、「人と同じ世界で生活できる」というだけでもなくて、「養い親と一緒に、人の世に受け入れられて暮らしたい」という、更夜の願いを全部叶えようとするところです。

 本当に、相手を全部尊重するし、何一つ諦めない、何一つ取りこぼさない。
 そんな尚隆のあり方が心から大好きで堪りません。

 人を襲わない妖魔と、その妖魔と暮らしたい人間、なんて、後にも先にも更夜とろくたくらいだろうと思いますが、そのたった一人のためにも、望む居場所を与えよう、意志を尊重して願いを叶えようとする、尚隆の一人も取りこぼさない、どんな願いも極力叶えようと理想を追求する姿勢が大好きです。

 どんな望みも、生き方も、他の民を害さない限り、許容し、叶えようとするんですよね。そのどこまでも寛容で、人を尊重する、尚隆の懐の深さが大好きなのです。

 元州の乱で、戦を徹底的に避けようとしていたのも、徴収した民を戦わせたくないということに加えて、元州の州師や民も、自国の大切な民で、彼らのことも、戦わせて傷つけたくなかったのだろうと、私は思っています。
 彼らはただ治水を求めただけで、それは真っ当な望みだったから、そして彼らも尚隆にとって大事な守るべき民だから、だから謀反という大きな事態になっても、尚隆は元州の民を一貫して、傷つけたくない、戦わせたくない守るべき存在として内側に入れ続けていたと思います。

 「お前は処罰せぬ。元州の諸官、全てだ。」という言葉もそれを物語っているようで、そうだな、尚隆は彼らを許容し、守るべき民として大事にする人だな、と感じて、また「好き」が深まるのです。
 「それでなくても雁は民が少ない。この上減らしたくはない」って、嘘ではないけれどもちょっと本質から逸れた発言を付け加えるあたりも本当に、この人そういう人だよな~~~!!!と思って、本当に、この、尚隆が更夜に手を差し伸べる場面は大好きが詰まっています。

 斡由のことまで、尚隆は最後まで助けようとしていましたからね…。
 「温情とやらを大盤振る舞いしてやるから、見張りを立てて自傷させぬようにな」と、斡由を生かそうとしていました。

 何というかもう…どこまで寛容で優しい人なのだろうと思うのです。
 斡由のことも、謀反に至った事情と心情に向き合って処分を決めようと、なるべく生かして受け入れようと考えていたように思います。

 本当に、誰のことも、尊重し、許し、受け入れる、そんな寛容でどこまでも懐の深い、優しい人。

 けれども同時に、更夜に対して「妖魔は人を襲う。お前が襲われれば苦しいように、民の誰もが襲われれば苦しい。その妖魔はお前だけを選んだのだ、選ばれなかった人々とその妖魔が共に生きることはできない」と言ったように、尚隆の寛容さは、他の民に危害が及ぶことは許さないという、明確な一線が存在しています。

 その線引きが明確なのもまた大好きなところで、本当に、全ての民を心から大事にしているからこそ、その部分を見失わずに確固とした軸を持っていられるのだろうと思います。

 他の民を害さない限り、どこまでも寛容で、誰をも尊重し、許し、受け入れ、望みを実現しようとする人。
 それって、人権思想そのものみたいな人だなって思うのです。
 人を縛る制約は、他者との利害調整以外にはなく、それを除いてはどんな民も、その人自身のありのままで、望みを叶えていいのだと尊重し、生かそうとする人。
 人権思想の根幹が、「そうあるべき」と学んだものとしてではなく、己のうちに自然と湧き上がって、人間性の確固たる軸として存在している人だな、と感じます。
 尚隆のこの、確固とした人権意識を具えた人間性が本当に大好き…!

 そんな尚隆の、その根幹にある、誰も犠牲にしたくない、という民に対する深い愛情と懐の深さが心の底から大好きです。



⑳ 民の幸福と自分の幸福が心から一致しているところ

 

 はい!これでラストですね。
 私、最後はこれ、って、最初から決めていて。
 民想い、でスタートして、最後はこれにする、というのは、書き始める前から決めていました。

 私は、尚隆の、心から民を想っているところが大好きなのですが、それを更に上回って、民を心から想うがゆえに、民の幸福と、己の幸福が心から一致しているところが大好きです。

 これは本当に、私の中で、尚隆という人物を語るに当たって外せない部分だと思っています。
 私は、尚隆は他者の幸福を、心から自分の幸福と感じる心を持っていると思っていて、それが特に、自身が一番に大事にしている、自国の民には顕著に表れていると思っています。

 尚隆は自分の心に素直に振る舞うところがあって、そんなところも好き、という話の中でも触れたとおり、尚隆は、民を幸福に生かすことを、自分自身の望みとして持っている人だと思います。
 そのことにも通じますが、私はそれだけではなく、尚隆は、民の幸福を、自分の幸福だと心から思っている人だと思っています。

 そんな尚隆のあり方をよく表していると感じる言葉がこちらです。

「諦めた。あいつは市街に降りて民が暢気にしているのを見て満足するのが唯一の楽しみなんだ。もう邪魔をする気も失せた」

新潮文庫「東の海神 西の滄海」P.336,337


 これは帷湍の尚隆評ですが、私はこの、「民が暢気にしているのを見て満足するのが唯一の楽しみ」と評される尚隆が大好きで。
 これを、長年重臣として側に仕えて、いつも尚隆に振り回されている帷湍が言うというのも最高に良いんですよね。
 本当に、実感の籠った、尚隆という人物をよく表した尚隆評だろうな、と感じます。

 尚隆は本当に、民が幸福に、楽しそうにしているのが、自分自身の幸福なのだと思います。だからしょっちゅう、街に降りて、民の生活を見て、民に混じっているんでしょうね。単に情報収集というだけでなく、尚隆自身がそれを楽しんでいるようで、私はそんな尚隆が大好きです。

 民のことが心から大事で、だから民が幸福であることが自分自身の幸福なのだと思います。
 私はこれが、尚隆を名君たらしめているのではないかと思っています。

 私は尚隆のことを、為政者として限りなく正しい道を選べる人だなと思っていますが、それは尚隆が正しい人だからではなく、民の幸福が自分の幸福であるというくらいに、心から民の幸福と、民を幸福にすることを望んでいる人だから、だから民の幸福の最大化と、他の民の幸福を阻害しない限りどんな望みをも実現しようとする理想の追求を、自然と選択できる人だから、なのではないかと思います。

 そして尚隆は、それを無理してやっている訳ではなく、そうするべきだから、という義務感や、そうしないといけないから、といった使命感でもなく、そうしたいから、という、自分自身の心からの望みとして選択し、行動する人だと思います。
 私は、そんな尚隆が大好き!!

 これは私の個人的な考えなのですが、私は世の中に「正しい人間」というのは存在しなくて、ただ、人間社会の倫理というか、人と人が共存する社会において、「正しい」とすべきものがあるのだと思っています。
 それは、人を踏みつけてはいけない、人を傷つけてはいけない、他者から奪ってはいけない、他者の権利を侵害してはいけない、という、人と人が同じ社会で暮らしていくに当たって、互いに守り、検討し続けていくことで、社会に生きる人々が安全や権利を奪われる心配なく安心した生活を送るために、約束事として生まれ、形作られていくものではないかと思います。

 それは普遍的、絶対的に正しいものというよりは、「人間が人間と共存し、誰も誰かの犠牲にならずに誰もが安全に守られ幸福に暮らせる社会を目指すに当たっては」正しいものとして守っていくべき価値観や約束事と私は捉えています。
 だからこそ、人間社会で守られて生きる以上、人間はそれを正しいものとして、約束事に従い、その約束事を常に見直して生きていく必要があると私は思っています。

 そんな私から見て、尚隆は、そうした価値観から見た正しい選択、に当たるものを選ぶ能力が抜群に高い人なのではないかと思います。
 尚隆のことを、人権思想そのものみたいな人だな、と思うのはそういうところです。
 根本に、人を尊重し、人を大事にする、という人間性があるから、その考えや性質をもとにすると、自然とそうした人権思想によった判断や行動に沿っていくのだと思います。本当に、人権意識の塊みたいな尚隆が好き。
 だからこそ、500年を超えて、その時々の民の望みを掬い上げ、他の民の望みとの間の調整を行って、民が幸福に生きられる土壌としての社会を作り続けて、名君と呼ばれる王であり続けているのだと思います。

 そして、尚隆はそれを、そうしなければいけない、ではなくて、そうしたい、から選べる人です。そうしたい、と本心で思っている、私は尚隆のことを、そういう優しい人だと思うのです。

 他者の幸福、特に自分の民の幸福を、自分の幸福と心から思っている、優しい人。
 だから民の望みを掬い上げ、誰もが幸福に生きられる土壌としての社会を作る能力に長けているのだと思います。

 人間社会における正しさを自然と選択し、自然と作り上げていける人。それが彼自身の幸福と結びついている人。
 そんな尚隆のことが大好きで堪りません。

 何ていうんでしょうね!
 根本的に価値観が好き!!です!!!

 民を幸福にしたくて、民のためにありたくて、そのために国を必要とした人です。
 必要としてくれる民を必要とした人。

 それがなくては自分が自分としてあれないくらいに、国と民を必要としている人です。
 だから民の幸福は自分の幸福で、民を幸福にすることは尚隆の自我の一部なのだと思います。
 尚隆のそういう部分が、私は、涙が込み上げるほどに大好きなのです。

「人を助けることで、自分が立てるってこともあるからさ」

新潮文庫「黄昏の岸 暁の天」P.468


 六太が何を思ってこの言葉を口にしたのかは分かりませんが、私は尚隆のことを、まさにこの言葉の通りのような人だと思っています。

 自我の一部として、民の幸福と、それを実現する自身のあり方を望み、民が幸福であることを心から喜ぶ、民の幸福は自分自身と、自分自身の幸福を形作る一部になっている、そしてそこに偽りも無理もなく、それを自然と望み、自然に幸福に感じている人。

 民の幸福は、尚隆にとってただ「叶えたい、実現したい」という目標としての望みではなくて、尚隆自身にとっての幸福そのもの、なのだと思うのです。

 そんな尚隆のことが、私は心の底から大好きです。

 いつまでも、民の幸福や、豊かで生き生きとした国と民の姿を喜んで、尚隆自身にもたくさん、思いっきり幸福を感じて生きていてほしい。

 いつもそう願っています。



終わりに


 はい、という訳で、何とか尚隆の好きなところを20個に絞ったというか、20個になるように無理やり形にしてみました。笑

 最後に関しては、かなり私自身の考えや私の目を通した見方に偏った書き方をしてしまったかな、と思いますが、でも個人的に、自分の中でとても大事に思っている私の中の尚隆の人物像なので、最後は外せないな、と思って、最後については作中の描写を根拠にした見方よりも、自分の感性や価値観から見た感じ方を強めに出してしまいました。

 本当の最後に、少し総括を書いて終わりにしようかなと思います。

 20選を挙げて、書いて纏めてみて感じたことは、まず、何よりも、私が尚隆のことを好きだと感じている要素のすべての根本に、尚隆の優しさと、民を想う心があるということです。

 あえてそういう項目は作らなかったのですが、私は、尚隆のどういうところが1番好き、と問われたら、「優しいところ」と答えます。尚隆をどういう人と思っているか、と問われて、それに一言で回答するなら、「優しい人」と答えます。もちろんそれは、民を想う心も含めてのものです。

 尚隆、優しいんですよ、とにかく優しい。すべての言動の根幹に、優しさがあるように思います。

 民を想う心も、相手のために笑うところも、人に希望を信じさせるところも、民の命と生活を第一にする優先順位のつけ方も、面倒見の良さや寛容さも、相手を尊重する姿勢も、言葉選びの嘘のなさも、誠実さも、誰も取りこぼさない理想の高さや懐の深さも、民の幸福と自分の幸福が合致しているところも。
 全部!根源に優しさがあるな、と思うのです。

 そして、尚隆の好きなところについて、挙げたものすべてに共通する部分として、尚隆はそれらを、意識的にやっている部分もありながら、自然にやっている部分もある、というところを感じます。
 さらに、意識的な部分、自然にやっている部分のいずれにおいても、無理をしてやっている感じがしないのが、私にとって、好きな要素に輪をかけて、好き、が深まるところです。

 国のため、民のため、ありたい自分であるために、苦悩もするし、とても努力もしている人だと思います。けれども、努力に無理がない、という感じがして、そういうところが、しみじみと、好きだなあ…と感じてしまう部分だったりします。
 この部分に関しても、尚隆の、努力はしているけれども、その努力を、「すべき」だからではなく「したい」からやっているようなところが、私はどうしようもなく好きなのかもしれません。

 それって才能だと思うんですよ。
 私は、努力を努力と思わずにできるくらいに好きだと思えることを才能と呼ぶのかな、と思っています。たとえばあるスポーツが好きな人は、その練習をすることを、「好きだから」自然と続けることができて、その結果上達していく部分があります。
 もちろんその過程で、辛いこともままならないこともあって、それを乗り越えて続けるというのは努力だと思いますが、その努力をずっと続けられて、この才能には敵わないな、と感じる人は、皆共通して、その努力の対象に対して、「好きだからやれる」という部分を持っているように感じます。

 尚隆の場合、その、「好きだからやれる」という才能の発露が、「他者のためにある」、「民のためにある」に現れているのかな、と感じたのでした。

 え…?何だそれは。どこまでも為政者…というか、天帝の作った十二国世界の王、にとても相性の良い人のなのではないかと思います。天帝、尚隆みたいな王を理想として世界を作ったんじゃないのかな…とまで思ってしまうんですよね…。
 侵略や国家間の戦争を禁じたのも、一人の王に、良き君主である限り永遠の命を与えたのも。
 民の命や生活を何よりも大事にし、そして民のためにあることを、「そうしたいから」で選択する、尚隆みたいな人間を王の理想に描いて世界を作ったんじゃないかな…と思ってしまいます。
 本当に、あの世界の王として、尚隆はぴったりの人間なんだろうなぁと思います。

 どこまでも他者のために、民のためにありたい人。
 何なんですか、もう。そんなの、大好きで堪りませんよ。

 他に、書いていて思ったのは、尚隆の優先順位のつけ方や振る舞いには、組織運営やビジネスに活かせるヒントもたくさんあるな、ということです。
 それって、結局、組織も社会もすべての根幹は「人」であって、尚隆はやはり、人を気持ちよく動かし、人の幸福度を高めることに長けているのだと思います。
 だからその言動からは、組織運営に当たって活かせるものがたくさん見えてくるのではないかと思います。尚隆のことを好きでいることで、実生活に活かせる部分もたくさんあって、私はそれがとっても嬉しいです。

 そして、尚隆の生き方を見ていると、この尚隆という人が、どこまでも他者の幸福を尊重し、他者の幸福のために一生懸命に生きる人だから、私はそんな人を心から好きだと思うから、だから私は、自分が何かに悩んでいる時にも、その悩みって自分本位の思考に陥ってないか?周囲のことまで考えているか?ということを問うことができる部分があります。
 自分本位に陥りすぎて出口が見えなくなってしまう時に、尚隆のことを考えると、視点を変えて答えを出すヒントがもらえることがあるのです。

 もちろん、自分がどうしたいか答えが明確な時は、その心に従うのが良いと思います(尚隆もそういう部分ありますし。)が、そうではなくて、どうしたらいいか分からない時というのは、自分本位なことばかりではなく、周囲のことや、他者のことを考えてみると、こうしたいな、であったり、こうしてみようかな、という、答えが出てきたりします。

 だから私、尚隆のことを好きでいて、尚隆のことを考えることで、自分の考え方も変わったな、と感じる部分がありますし、昔よりも、悩まずに生きられるようになってきたようにも感じます。
 本当に、尚隆には見習いたいところがいっぱいで、尚隆を好きで、見習いたい、少しでも尚隆のような人間に近づきたいと思うことで、視点を変えよう、とか、優先順位を考えてみよう、と思えることがあって、その結果、自分の悩みが軽減されたり、自分がどうしたいか、どうありたいかが見えてきやすくなったりしています。

 自分がどうしたいかが見えてくると、その方向に進みやすくて、そうすると、私を取り巻く現実も、未来も、自分の理想の方向に変わっていくんですよね。
 それって、尚隆からもらったギフトだな、と思うので、そのギフトも、尚隆を好きだと思う気持ちも、私はこれからも大事にしていきたいと思っています。

 本当に最後になりますが、尚隆について、書けば書くほど新たな魅力が分かってきて、書いていて際限がありませんでした。書いたことで、より一層、好きだな、と思う気持ちが深まった部分もあれば、また新たに見えてきた魅力もあって、とても書ききれませんでした、というのが何よりの感想かもしれません。
 数的な制約や、その他色々考えて、あえて書いていないものもありますからね…ひたすらかっこいいシーンの魅力とか。あと、ビジュアルとかも。笑

 いや、私、これまでも、結構尚隆のどこが好きだとかって散々考えてきて、感じてきて、今回はそれを纏めてみよう、と思ったはずだったのに、書いているうちに、新しい発見が見つかったりもして、まだ好きになることある!?と思って、自分でもびっくりしてしまいました。
 好きすぎて、もはや、尚隆が頷いているだけの描写なんかでも、好きだな~~!と思ってときめいてしまう自分に気づいてしまってさすがに自分に対して苦笑しました。

 これからもまだまだ、考えれば考えるほどに、新しく見えてくるものがあって、そして彼の新しい面や想いを知る度に、ずっとずっと、好きになる一方なんだろうなぁ。

 本当に、こんなに全部好き、って思える人に出逢えたのって、奇跡みたいだなって思います。

 それって人生がとってもハッピー!

 尚隆のことを好きな自分になれて、その自分でこれからも生きていけるのは嬉しいし楽しい。

 そしてこれからも、もっともっと尚隆の好きな部分が見えて、好きな気持ちが深まっていくのも楽しみです。

 大好き!!!!!!!


 今日よりも明日、毎日あなたを好きになる。



 

 

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