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これからは宗教2.0の時代だと思う 〜あたたかいBizDevになりたい #2〜

  • 生成AIによって吐き出された真偽のわからないそれっぽい文章

  • SNSのエコーチェンバーによって生まれるバブル

  • 立場の異なる人同士がぶつけあうポジショントーク

  • 前提の共有がままならない短文チャットでの議論

  • 階層の分断に伴って多様化する価値基準

  • 一部分だけを都合よく切り取ったメディア報道

現代社会にとって、「真実」とは果たしてどれほどの意味があるのだろうか?


同じ「現実」を見ていても、人によって見えている「真実」は異なっていることも少なくない。むしろ、東大駒場時代の英語の教科書のタイトルを借りて言えば、今日の「多元化する世界」では、「真実はいつも一つ!」とは到底言えないのが現状だろう。

そう書くと直感に反するかもしれないが、僕にとっては理解不能で無意味な言説も、陰謀論者にとっては「真実」である、といった例は想像に難くない。僕はここ最近、そんな真実よりも信念の方が大事になっているのではないか、なんてぼんやり考えている。何が正しいか、よりも、何を正しいと信じるか、が鍵となる社会、それこそが宗教2.0社会だ。


このマガジンでは、現在UCバークレー教育学部2年生で、あたたかいBizDevを志し始めた谷津凜勇(Twitter: @Rinyu_DtD)の脳内を月額300円・初月無料で月2回程度発信しています。未熟な思考や固まる前のアイデアをそのまま炎上覚悟で垂れ流すのがコンセプトです。

普段はTwitterの鍵垢に書いてるようなことをまとめていくので、別に全員に読んでほしいわけではないし、本名垢のツイートみたいな「すごい人」としての発信をするつもりもありません。 万人に共感してもらえる内容ではないし、むしろ刺さる人に刺さればいいと思っているので、綺麗事を並べようとも思っていません。それでも、100人に1人くらいは僕の思考を面白がってくれる人がいることを願っています。


「宗教」というと、オウム真理教のような新興宗教のイメージが強い。多くの場で宗教について語ることはタブー視される一方で、盛り上がるのは「宗教2世」をはじめネガティブな話題ばかり。

けれども、僕は必ずしも「宗教」自体について否定的な見方をしているわけではない。むしろ、「奈良の大仏」で知られる東大寺が運営する仏教校・東大寺学園に通っていたし、大学には僕のような日本人よりもよっぽど信心深い友達もいる。オウム真理教や統一教会が不健全な宗教だっただけで、仏教やキリスト教、イスラム教などは長い年月にわたって世界中で多くの人に信仰されており、多くの人々の人生を豊かにしてきた。

一方現代では、宗教よりも科学的知見に基づいた判断が合理的だと讃えられるし、政治制度も神ではなく大衆が主権を持つ民主的なあり方が望ましいとされる。だがしかし、果たして今の社会に、そんなシステムを保ち続ける余裕があるだろうか? このnoteでは、もはや、宗教(的なもの)を前提にした新しい社会へと揺り戻した方が良いのではないか、という提言をしてみたい。過激だと捉えられてしまうかもしれないので、有料noteにすることを許してほしい。

社会を動かす宗教

宗教は、時に社会を大きく動かしてきた。古代エジプトをはじめ昔から多くの国では国王は神と同一されていたため、国民は宗教によって統治されていたし、ある程度社会制度が発展していた古代ギリシアでも重要な意思決定の際には、デルフォイの神託が利用された。中世でも、ヨーロッパ世界はキリスト教に基づいて統治されており、それに対抗したプロテスタント運動が宗教改革という社会システムの構造的な変化をもたらした。近代においても、アメリカの西部開拓と先住民迫害は神の意志による「明白な天命(マニフェスト・ディスティニー)」だと信じられていたし、現代でも、約75年前のインド独立はガンディーが掲げたヒンドゥー教の宗教的理想によって達成された。パレスチナ問題をはじめ多くの戦争が宗教的な対立に端を発しており、今日まで続く国境紛争は国際問題となっている。

これは日本でも同じで、戦後に昭和天皇が「人間宣言」をするまでは、天皇は現人神として讃えられていたし、国家は天皇を中心とする大政翼賛会によって運営されていた。その前は、明治維新による近代化で民主的な国家運営がなされてたが、もっと遡れば、中世の日本は、武将たちが互いの武力を戦わせ、他を圧倒した武家が朝廷によってその地位を認められて国家を統治する、という時代だった。古代・中世では幾度となく民主主義に近しい合議制による統治が試みられてきたが、平安時代の朝廷政治は外戚という立場を利用した藤原氏によって瓦解し、「鎌倉殿の13人」で知られる鎌倉時代の合議制も北条氏によって執権政治に移行していった。さらに遡るならば、卑弥呼のような古代日本の指導者は、占いなどで国家運営を行う神権政治の代表例だ。

「歴史は繰り返す」とはよく言ったもので、日本の統治体制の移り変わりを見ていると、我々の社会が宗教的権威に基づく社会システムと宗教とは切り離された主権に基づく社会システムとの間を揺れ動いていることに気づく。

現代民主主義の限界

そして、我々が暮らす戦後の日本社会は、民主主義的な憲法に基づく法治国家であり、近現代の思想に基づいて主権は国民にあると規定されている。宗教的権威である天皇は権力から切り離された「象徴」にすぎず、政治・行政にはほとんど介入しない。したがって、我々国民は、選挙を通じた政治参加が求められ、国家運営は我々自身の意志の集積によって適切に行われている。

……少なくとも、"制度上は"そういうことになっている。でも果たして、そのままでいいのだろうか?

古代ギリシャにおいて、世界初の民主主義を成し遂げたにもかかわらず、デマゴーゴスによる煽動で衆愚政治に陥り、ペロポネソス戦争に敗北した都市国家アテネと同じような過ちを、現代の日本社会が犯してしまう危険性は本当にないのだろうか?

民主主義体制の中で台頭し、メディア戦略を駆使してポピュリズムを推進し、ドイツ国民からの支持を受けてユダヤ人迫害に走ったナチス・ドイツと同じような過ちを、我々が犯してしまう可能性は本当にないと言い切れるだろうか? 

れいわ新選組や参政党が「陰謀論者だ」「カルト的だ」と批判されるのを目にすると、そんなことを考えてしまう。こうしたポピュリズム批判や民主主義の脆弱性の言説は、「だから国民一人一人が自分の頭で物事を考え、慎重に為政者を選ばなければいけない」という結論で終わりがちだ。

では、それは本当に絶対的な正解なのだろうか?

そんな理想的な民主主義社会は、机上の空論に過ぎない、と思ってしまう自分がいる。そんな理想を甲斐甲斐しく追い求める余裕は、課題が山積みの現代社会には無いはずだ、とも思ってしまう。

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