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sailing

 旅をする時、自分にぴったりの案内人がいればよいのにと思ってきた。
 真っ先に思いつくのが、ダンテにとってのウェルギリウス。地獄堕ちは経験したくないが、ラテン語世界に飛び出す際のお供には必ずいてほしい。
 次に、ドン・キホーテにとってのサンチョ・パンサ。幻想的な旅をする時は bon vivant かつ知的な相棒が望ましい。険しい山に登るような時だと、フロド・バギンズの従者サム(『ロード・オブ・ザ・リング』)がまさに適任。
 旅をすばらしい思い出にさせてくれる案内人といえば、チャーリーにとってのウィリー・ウォンカ(『チョコレート工場の秘密』)。不思議の国ではアリスの冒険にホワイトラビットやチェシャ猫が伴う。又三郎は、さまざまな風たちと出会いながら旅を進める。

藤岡孝一《sailing》

 コロナ禍の出口がなかなか見えなかった頃、私は藤岡孝一の木彫に出会った。彼は人生を旅になぞらえた物語の作り手で、さりげない瞬間を切り取ったり、音楽的なモチーフを用いながら、主人公に情感を与える。
 木の素材感や色味の奥深さも、彼独特の幻想をより深遠なものにしているが、中でも、無為の眼差しで細長い小舟の先端に立つ男は、ひと目で私の魂を捕らえた。その男はゴンドリエーリなのか、あるいはウェルギリウスのような古代の詩人なのか、それとも現代をさすらう若人なのか。
 舟はドラクロアが描いた《ダンテの小舟》のようでもあり、耳が聴こえなくなってからフォーレが作曲した舟歌のようでもある。藍色を基調にして彩られたこの幻想的な木彫は、わが家に置いた時から旅を始めるのだと直感した。そして、この舟の往く処が私の主題となる。

 旅には精神的な存在が必要である。ましてや音の旅となると、心のひだを道としてくれる案内人でなくてはならない。新たなリサイタルシリーズを始めるにあたり、彼の "sailing" は願ってもない案内人となり、〈音の旅〉に櫂を入れたのだった。

赤松林太郎ピアノリサイタル 音の旅
Ⅱ 大いなる幻想を見よ Ⅲ 祈りの系譜

 シンガポールに到着した夜、マリーナ・ベイ (Marina Bay) を散策していると、マリーナベイ・サンズ (Marina Bay Sands) は不意に姿を現した。巨大な舟が天界を航海するかのような圧倒的な建造物。そこに海から昇ってきた満月が静かにかかった。なんという幻想。20年前にはなかった光景である。

半身がライオン、半身が魚というマーライオンの像。
設計された1972年以来、水を吐き続けるのが仕事。

31/7/2023, Singapore

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