正岡子規〜血吐けど 書くは止めざり ホトトギス〜
正直、自分でも無責任な男だと思う。
けれど正直、困惑していた。
それが彼女から子供が出来たと聞いた時の、いつわらざる本心だった。
そんな気持ちはすぐ彼女に見透かされ、いくらかいざこざがあり、雰囲気も少し悪くなりかけた休日、彼女から行きたいところがあると誘われた。
子規庵。
根岸駅から少し歩いた、ラブホ街を抜けた小径に、その古ぼけた建物はあった。
庭付きの、平家の小さな一軒家は、どぎつい周りの風景から時代錯誤的に浮いていた。
入口の木の門は厳めしさより頼りなさを感じさせ、掲げられた「子規庵」の扁額の字は素人の俺には、上手いのか下手なのかさえ分からない。
「正岡子規」。
名前と横顔だけは教科書で知っている。
坊主頭でどこかふてくされたような横顔の男。
俳句で有名らしい。
だが、正直興味がない。
「今のあなたも、そんな顔してるわよ」
子規庵の入口をくぐったところで、彼女に言われた。
そんなはずあるか。
「でもね、あなた、子規がこの時、何故こんな表情だったか、何を思っていたか、知ってる?」
何故?
考えたこともない。
「ねぇ、今、子供なんてできて、面倒くさいことになった、そう思ってるんでしょ?」
バカか。言下に否定した。
「良いわよ、別に、それでも。だからね、今日あなたにここに来て欲しかったの」
こんなとこ、何だって言うんだ。
俳句にも、この陰気くさい男にも、まるで興味がない。
「『柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺』。あなたも聞いたことくらいあるでしょ?」
それがこいつの句か。
確かに聞いたことはある。
奈良に遊びに行って、柿食って、ちょろっとツイートしたら教科書に載れる、イージーな話だ。
「観光じゃないわよ、子規が奈良に行ったのは。東京へ行く途中だったの」
ふーん、だとしても、結局観光だろうが。
「じゃあもしそれが、『死を覚悟した旅』だったとしたらどう?」
死を覚悟?
何だそれ。
彼女から離れて、俺は縁側に面した二間続きの奥の部屋へ入った。そこには妙な机があった。
文机というのか、脚の低い横長の小さな机だ。
その机は、長い方の面の真ん中あたりが四角く切り取られていた。
ちょうど、この机の前に座った時、身体の正面にくるあたりだ。
思わず、その欠けた机の縁に触れた。
「その机はね…」
ふと、彼女の声が遠のいた。
景色が、歪んだ。
----------------------------------------------------------------気づくと、さっきと同じ、和室にいた。
しかし、部屋の中は紙と書物が散乱している。
そして、鼻をつく饐えた匂いと、敷きっぱなしの布団。
窓に面した文机には、着物姿の小柄な男が立て膝で座っていた。その後ろ姿は大きく斜めにかしいで、小刻みに震えている。
ふと、男が振り返った。
角ばった頬に、やや離れたぎょろっとした目。平たい唇に短い髪。迫力もあるけど、なんだか鮎めいていて、愛嬌もある。
「どこの書生か?」
突然の問いに答えられずにいると、続けて男は言った。
「しっかし、その格好はなんじゃ。今はそんなのが流行っとるか。金之助なんぞ、随分西洋にかぶれとるが、お前さんほどじゃない」
格好?パーカーにジーンズだ。
「別に、普通っすよ」
状況が飲み込めないまま、思わず答えた。
「あっは!そうか、普通か。そりゃええ。ぼーっと突っ立ってなんも喋らんから、いよいよ、冥土の迎えでも見えたかと思ったわ。生きとりゃええ。で、何しに来た?今日は句会の日じゃねぇど?」
「句会って…俺はそんな、俺はただ彼女が子規庵に行きたいっていうから、そんで机があって、そう、今おっさんが使ってるその机だよ、したら…よくわかんねぇけどここにいたんだ」
「何を言うとるか。お前、天狗にでもバカされたか?まぁええ。見ろ、ええやろ、この机。この欠けたとこにな、ちょうど左膝を入れりゃ、倒れん。よーできとる」
男はにっと笑ったあと、スッと目を細めた。
「そいから、誰が「おっさん」だ?わしゃお前よか年長よ。言葉には気をつけろ。世が世なら、叩き斬られても文句は言えん」
言葉を失っていると、男はあっは!と笑い、大きく咳き込んだ。そのまま、咳き込み続けている。
さすがに、不安になった。
「あの、大丈夫っすか?あの、もしかしてあんた、正岡子規…とか言わないっすよね?」
男は暫く口を押さえて俯いていたが、蹲ったまま、横目でこちらを睨んだ。
「『殿』をつけろや、坊主」
「……」
「ふん、まぁええわ。で、おまん、俳句はやるんか?今日はな、体調がええ。見てやるぞ」
「いや、俺はあの…俳句ってか…あの…そもそもこんな………ってか、マジかよ…」
訳がわからず、最後は小声になった。
何なのだ、これは。
タイムリープ?
この男は本物の子規なのか。
考え込んでいると、大声で一喝された。
「はっきりしゃべれ!お前も日本男児やろ。何をもごついとる!別にええ。俳句やらせんのならそれでええ。ほんなら何しに来た?」
「そんなもん、俺も知るか!気づいたらここにいたんだよ!」
開き直って怒鳴った。
子規はしばらくこちらを、眩しいものでも見るように目を細めて眺めていた。
「そげなでけぇ声、出せるんやないか。最初っからそうしゃべれ。分からんなら分からんでええ。最初っからそう言え。面倒な奴や」
「……」
「で、お前、何しよる。何して食いよる?」
「食うって…仕事っすか?」
「あぁ」
「それだったらあの、美容師やってたっすけど、辞めて、今はあの、なんつーか、ぶらぶらしてます」
「ビヨウシ?何やそれは?」
「あー、髪切るやつです」
「髪結か。何故辞めた」
「いや、先輩とか、色々あるんすよ、怠くて」
「バカか、お前は」
「……」
「お前、ちょっと背中さすれ」
子規の背後に座り、そっと背中に手を添えた。
浮き出た背骨が、恐竜の背びれのようにゴリッと触れた。
最初感じた、酸っぱい臭いが強くなる。
「もっと強(つよ)さすれ。大丈夫じゃ、折れやせん」
「あの、あんたが本当に子規なら、聞いていいですか?」
「本当とはどういう意味じゃ。俺が碧梧桐にでも見えるか。あんなインテリな眼鏡やらしとらんが?」
「……あの、俺、実はあんたのこと、あんま知らなくて。でもあの、すげぇ痩せてるし、さっきも苦しそうだったし、何か病気なんすか?」
子規は、ふふっと笑った。
「驚いたわ。ここに来る者で、わしの病気のことを知らん者がおったか。いや、むしろ嬉しいぞ。ところでお前、歳はいくつだ?」
「24すけど…」
「そうか。わしゃな、22の時、血、吐いた」
「……」
「結核じゃ。聞いたことくれぇあるやろ?」
「はい」
「で、もう時間がない思った。本当は政治家んなる為に上京したんやが、学校は辞めた。俳句で、生きてこうと決めた。そんで新聞記者になったんや」
「……」
「暫くは平和に俳句の紀行文なんぞ連載しとったんやが、そこへ、この間の支那との戦争や。わしゃ、勇んで従軍した。記者として、いや、日本男児として、我らが帝国陸軍の活躍やら、みな書いてやろう思ってな。血の、沸きたつごと、結核やら忘れとったわ」
「……」
「けどな、わしが行った時には既に戦争は終わっとった。なんかこー、気持ちが、がくーっとしてな。その、帰りじゃ。帰りの船の上で、血ば、また吐いた。今度は前の比じゃねぇ。どげな出た思う?」
「…いや、分かんねぇす」
「甲板に蹲った、わしの膝も手も血で全部濡れた。必死で口押さえたが、止まらん。身体中の血、全部吐いて死ぬると思ったわ」
「……」
「そいが28の時、今から6年前よ」
「……」
「おい、わしゃ、臭えじゃろ?悪いの」
「あ、いや」
「いや、臭えはずや。わしだって臭えんじゃから、間違いねぇわ」
「……」
「脊髄カリエスゆーてな、結核菌が骨まで入って暴れよる。今、腰にな、穴ばあいとる。そっから膿が出てきよんのよ。臭いはそれや」
「腰に穴って……大丈夫なんすか?さっきもなんか書いてましたけど、もっと休んだ方がいいっていうか、わかんねぇけど、句会とかしてて、大丈夫なんすか?」
「小僧、ただ寝とるだけならな、死んどんのと変わらんぞ。『病牀六尺』ゆうてな。わしゃ布団から動けん。布団から手が伸びる6尺が世界の全てや。この部屋から出ることもできん」
「……」
「だから書くんじゃ」
「……俳句って、そこまでして、やることなんすかね?身体、ダメにしてまで…正直俺にはその気持ち、わかんねぇっす」
「ふふ。『卯の花の 散るまで鳴くか ホトトギス』ゆうてな。22で血、吐いた時、決めたんよ。この身散るまで詠み続けるとな。口の中、ホトトギスみてぇに血で真っ赤に染めようとも。あっは!どうじゃ、豪気じゃろ?」
「……豪気かどうか知らないっすけど、今は起きれてるじゃないすか。結構なんだかんだ、元気なんじゃないすか?」
「今は麻酔薬を打っとるからな。じき、切れる。そしたら地獄よ」
子規はそう言うとにやっと笑った。
「あの、前から気になってたんすけど、1つ聞いていいっすか?」
「何や?」
「いやー、なんつーか、髪、あるんだなと思って」
「そりゃ髪ぐれーあるわ。まぁ剃っちまう時もあるがな」
「いや、俺の…っていうか、だいたいみんなそうだと思うんすけど、あんたのイメージって坊主なんすよ。坊主で陰気くさい顔して横向いてるっていう…」
「誰が陰気くさいじゃ」
子規は少し考えている顔をしていたが、やがて何か思いついたように軽く頷いた。
「そりゃ、あの写真やろ。ありゃな、蕪村の命日にわしの門下のもんが記念に写真撮ったんよ。んで、わしゃ、こんな身じゃ、そん時は加われんから、あとでわしだけ撮ってもらったんよ」
「ふーん、でも何で横向きなんすか?微妙にかっこつけました?」
「いんや、そんな余裕のあるか。正面だと身体を支えられん。倒れちまう。だから、横向きや」
「その机に足入れてるのも、その為ですか?」
「まぁな。支えて、机の縁を掴んで書く。それでもガタつくが、仕方ねぇ」
見ると、机の脚もとの畳が、えぐれていた。
子規は、畳がえぐれるほど、この机で、この窮屈な体勢で書き続けてきたのか。
「それとな、男のかっこよさやら、向きじゃねぇど。横向きやろうが、縦向きやろうが、成したことが全てよ」
「成したこと…」
「そうじゃ、俺は、まだなんも、なんも成しとらん。これからじゃ、こっからじゃのに、悔しい、悔しいのう!!」
子規は上を向いて、喘いだ。
涙声にも、聞こえた。
「や、でもなんつーか、あんた、わりと有名っすよ、多分。ほら、俺みてぇな学のねー奴でも、名前くらいは知ってるし」
子規はこちらを見ると、笑った。
「学なんぞ、これからなんぼでもつけりゃええ。それからな、有名なんて気にするな。お前はお前の仕事を成せよ、あるか、そんなものが?」
考えたが、何も思い当たらなかった。
「……いや、特にないっす。俺はあんたみたいに、命かけてやれるもんなんてないっす。普通で、平凡す。何やっても、昔からそうなんすよ」
子規は、しばらく黙っていたが、ふっと微笑んだ。
優しい、笑みだった。
「坊主、お前がどっから来たか知らん。もしくは、こりゃわしの夢かも知れん。でも夢だろうがこうして会ったも縁じゃ。ええか、非凡なんぞ欲するな。つまらん」
「え?でも、才能とか欲しいっすよ、憧れるっすよ」
「凡でええ。凡がええ。間違えるな……」
「どういう意味っすか?分かるように言ってくださいよ」
「……ちったぁ自分で考えろ。わしゃ、寝る。もしお前が現(うつつ)のもんならな、また来い」
そう言うと、子規は布団に潜り込んでしまった。
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「……んだよ、それ」
「ちょっと!急に黙ったと思ったらそっちこそ何なの?」
彼女の声で、我に返った。
「あ?いや、あれ?」
「どうしたのよ、机抱えて急に黙るんだもん、びっくりするじゃない…」
見渡すと、散らかった紙のくずも、饐えた臭いも布団もない。何より、あいつがいない…。
夢でも、見てたか…
思いついて、文机の脚に目をやると、綺麗な畳だった。
「…………」
「興味ないならもう帰る?」
「いや…。なぁ、ビョーショーロクシャクって知ってるか?」
彼女は怪訝そうな顔をしてこちらを見ていた。
「それってもしかして、子規が晩年に新聞日本に連載した『病床六尺』のこと?何であんたがそんなこと、知ってんのよ、もしかして、ちゃっかり予習した?」
彼女が茶化すように笑う。嬉しそうだ。
こんな顔を見るのも、久しぶりだった。
「うるせぇ。違うわ。で、何なんだよそれ」
「こっちにあるわ」
ガラスケースの中に、古ぼけた原稿用紙が入っていた。
墨で書かれた、柔らかな字がきっちりマス目に収まっている。
見かけによらねぇ字を書くんだな…。
『病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである。わずかに手を延ばして畳に触れる事はあるが、ふとんの外へまで足を延ばして体をくつろぐ事も出来ない…』
「これ、エッセイみたいなんか?」
「そうね、晩年、子規は寝たきりだったけど、ここから見える風景、思うこと、好きなこと、嫌いなこと、歌のこと、食べ物のこと、なんでも書いたわ」
「ふーん…」
「それに、子規自身は動けなくても、ここにはしょっちゅう俳人仲間がきて、賑やかだったみたいよ」
「句会だろ?ふん、あれで意外とリア充かよ…」
「何よ、あれでって。会ったことでもあるみたいじゃない?」
「…バーカ。知るかよ」
句会か…。
もう一度、原稿用紙に視線を落とすと、文字がぐにゃりと歪んだ。思わず、ガラスケースの縁を掴んだ。
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気づくと、またさっきの和室にいた。
窓の外の庭は雪化粧だったが、部屋は人の熱気で熱いほどだった。
その輪の中心に、あの男がいた。
子規だ。
「虚子よ、それじゃ古今和歌集をなぞっちゅうだけよ。もちっと、胸襟開いて書かんか」
「はぁ、写実と言っても難しいものです」
「お前ならすぐものにできる」
「はぁ」
「長塚殿はどうじゃ?」
「1つ、今朝の雪を材に書いてみようと思うんですが、どうもまとまりません」
「雪か……。さしずめわしが書くとしたら……『いくたびも 雪の深さを 尋ねけり』ちゅーとこか。なんせよー歩けん。確かめることもできんからの」
「はっは。そりゃ先生らしか。何度も聞かれる律さん※1もいい迷惑じゃ。なんせ一度じゃ納得せん。疑り深いんじゃ」
自分の前にいる男が茶化す。
※1子規の妹。当時子規と同居して看病していた
「こりゃ、碧梧桐、おまんは自分の句ば作らんか」
そう言ってこちらを見た子規と、目が合った。
碧梧桐と呼ばれた男が振り返る。
「先生、彼も新しい弟子ですか?」
「いや、あぁ、彼はな、そう…髪結だ」
「髪結?髪結がこの『山会』に何の用よ?」
先程、虚子と呼ばれていた、端正な顔つきのがっしりした体格の男もこちらを見る。
「わしが呼んだんじゃ。今日は見学よ。のう?」
子規に言われ、慌てて頷く。
「見学?せっかく来たんだ、挨拶代わりに一句披露してもらいましょうや」
虚子が言う。
えらいことになった。
今やその場にいる全員がこちらを見ている。
助けを求めるように子規を見たが、あさっての方向を見て、何やら思案げに顎なぞ撫でている。
くそ、髭もねーくせに。
あの狸が。
「なんか、一句くらいあるやろ」
生まれてこの方、俳句など作ったことない。
俳句…俳句…あ。
「『柿食へば…鐘が…』」
「そりゃ先生の句じゃろが!」
「何よ、こいつは」
一斉に周りが騒ぎ出す。
「まぁまぁ。そう責めるな。懐かしいのう。松山からこっちに戻る途中で作った句じゃ。もっとも今なら「柿食ふも 今年はかりと 思ひけり」っちゅうとこやがな」
「……」
一瞬、場が静まった。
「あっは!雁首揃えておまんら、なんちゅー顔しとるが。冗談や、冗談」
「それにあの句は金之助の「鐘つけば 銀杏ちるなり建長寺」への返句よ、それなり、世話になったからの」
「……松山では夏目先生のとこの下宿に?」
虚子が尋ねた。
「そうよ、『愚陀仏庵』※2の一階でな。奴は二階じゃ。あっちでもよく句会しての。金之助も参加してな。『漱石』やら、ちゃっかりわしが付けた号を使いよっての。はっは。懐かしいのう」
※2当時の漱石の下宿先
「あの!」
思わず声が出た。
「どうした?」
「あの、松山の、夏目って、金之助って、もしかして夏目漱石のことですか?」
「あぁ?まぁそうなるかの。お前、金之助の知り合いか?」
「いや、いえ…」
「…なんや」
子規は一瞬白けた表情を浮かべたが、再び話し始めた。
「わしと金之助は東大予備門の同級での。あいつも落語が好きでなぁ。一緒になって落語三昧よ」
虚子が相槌を打つ。
「「見つつ往(ゆ)け 旅に病むとも 秋の不二」、ですよね。先生が東京へ旅立つ時、夏目先生から贈られた句は」
「そうな。支那から戻る船で吐血して、そっから半死半生で日本に戻って、金之助の家で養生させてもらっとったんやが、こっちでまだやり残したこともあったしな。いつまでも世話になっとれん、死ぬゆう定めなら、なお行かにゃならん、そう思っての」
「でも、その割にゃ、たらふく鰻ば食って、その勘定はみな、夏目先生とこに置いてきたっちゅうから、先生も悪い人よ」
碧梧桐がそう言って混ぜっ返す。
「はっはー!そのくらいええじゃろ。尋常中学の先生ゆうたら高給取りじゃ」
「「武士は食わねど高楊枝」はどこ行きました?先生も武士の子でしょう?」
「ふん、士農工商やらもうあるか。虚子や、世はもう明治ぞ?」
「それはそうですが…。ところで、夏目先生は今も教師を?」
虚子の問いに、ふと子規は真顔になった。
「そう、今はな。ただ、奴も獅子よ。今に世に出る。教師はそれまでの仮の姿よ」
いつの間にやら、子規の門人達は皆帰り、子規と2人になっていた。
「お前も、帰らんか?」
「帰るって…」
どうやって、帰ったらいいというのか。
困って、視線を落とすと、何やら書きつけられた紙切れが目に入った。
「「瓶にさす 藤の花ぶさみじかければ たたみの上にとどかざりけり」…」
思わず、声に出していた。
「それな、ほれ、ちょっと横になってみぃ」
言われるままに、横になる。
「な、畳が近ぇじゃろ?これがわしの視界じゃ。藤の花が垂れて、畳に届きそうで、届かん。畳と、花房との間の僅かな中空、それがな、わしには宇宙にも見えんのじゃ」
「……」
「それで、見つかったか?」
「え?」
「お前の成すべきことよ」
「……あの。それはまだなんですが、彼女が、その、子どもができたって」
「ほぉ、そりゃめでたいな」
「はい、なんですが、でも俺、素直に喜べなくて…仕事も不安定だし、親になる自信なんてないし…」
「はぁ、まぁ、そりゃそうやろ。お前な、髪結、もう一度やれや」
「え?」
「え?じゃねぇ。それしかないんやろ?他にできることやら、ないんやろ。ならそれやれ」
「やれって…もう、辞めて2年経ちますよ」
「それがどうした。食わしてかなきゃならんやろが、嫁さんも、産まれてくるやや子も」
「嫁って…まだ結婚してませんよ!」
「結婚せんで、そういうことになっとるか、バカが。威張ってどうする」
「それは…まぁ、そっすけど」
「あのなぁ、俺はじき死ぬ。だから思うがな、新しく生まれてくる命はええど。何がなんでも守れ」
「はぁ…」
「じゃ、お前も帰れ。わしはちと、横になる」
またこれか。
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そう思ったら、目の前に彼女の顔があった。
「人の顔見て、「またこれか」ってどう言う意味?失礼しちゃうわね」
「え、あ?声に出てた?」
「出てました。思いっきり。何なの?さっきから急に黙ったと思ったらぶつぶつ言ったり…」
「………わりぃ。ちょっとな。それより子規の句会だけどな、あれ、結構しょーもない集まりだぞ」
「何よそれ。見てきたみたいに」
「まーな。なぁ、子規ってどんな奴だったんだろうな」
子規庵の入口の年表を見ると、亡くなったのは1902年34歳とある。
「そうね、晩年は病気で寝たきりだったみたいだけど、若い頃は当時、日本に入ってきたばかりの野球に夢中になったりして、結構アクティブだったみたいよ。元々政治家を目指してたみたいだし、根っからの文学青年というより、案外目立ちたがりの野心家だったのかも」
「そりゃ言えてんな」
「なぁ、会ってみたかったって、思うか?」
「んーどうかな。子規はさ、遺してくれたものが沢山あるから。この子規庵もそうだし、沢山の歌集もそうだし、『仰臥漫録』なんて日記まであるし。この日記、もう寝たきりで動けないのに、書いてたんだよ?だからもう、それで充分かな。充分、元気もらえるんだ。すごく辛くて苦しかったはずだけど、それ、跳ね返すくらい、書いたんだなって、見るたび、ここに来るたび、思うんだよね。最後まで命の限り書いて書いて、死んでったと思うから。そりゃ、悔しかったとは思うよ、でも悔いはなかった気がするな。そういうのがさ、感じられるんだよね、ここ来ると」
「……」
「なんかさ、上手く言えないけど、生きなきゃ、って思うんだよね、ここ来ると。だから今日、一緒に来れてよかった」
「そっか…」
壁に、子規の句がいくつか貼られていた。
『いちはつの 花咲きいでて我目には 今年ばかりの春行かんとす』
静かな句だな、そう思った。
この句の周りの空気だけ、ピンッと澄んでる気がした。
俳句を読んで、そんな風に思ったことなど、なかった。
いや、今まで俳句など、まともに読んだことなどなかった。
「今年ばかり」か…来年はもうない、来年はもう、生きてこの花を見ることはない…ってことだよな。
それって、どんな気分なんだよ。
なぁ、あんたの俳句は味気ねぇんだよ。
もっと辛いとか、苦しいとか、言ってくれよ。
俺みたいなバカにも分かるように。
かっこ、つけやがって。
壁の句を睨んだら、再び景色が歪んだ。
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子規は、布団の上でうずくまり、何度もえずいていた。
がっ!がっ!ごっ!がはっ!ごっ!げぇ!げぇ!
凄まじい音が、部屋中に響く。
骨と皮だけの身体が、上下に激しく揺れる。
えずくのをやめると、力尽きたように、子規はしばらく肩で息をしていた。
口から、すーっと涎が一筋垂れていた。
子規はこちらに気づくと、涎を着物の裾でぐいとぬぐった。
「なんよ、髪結か。みっともねぇとこ見せたな。律を呼ぼうと思ったが、おまんがいるならちょうどええ。書け」
「書け…って」
「わしゃもうよー書かん。聞き取って書いてくれ。そんくらい出来んやろ」
『糸瓜咲(い)て 痰のつまりし 仏かな』
かすれ声で、よく聞き取れなかった。
何度も、聞き返した。
筆など持つのは、何年振りか。
それでも、必死に聞き取った。
これでいいかと、子規に書いたものを見せると、
「まずい字じゃ」
そう言っておかしそうに笑った。
それから2句、同じように聞き取って書き留めた。
いずれも、糸瓜の句だった。※3
『痰一斗 糸瓜の水も 間に合はず』
『をととひの へちまの水も 取らざりき』
※3 子規、辞世の3句と呼ばれる
句の良し悪しなんて、分からなかった。
ただ、仰向けで苦しそうに胸を上下させる子規に、何か言わなくては、気休めでもなんでも。そう思った。
「あの、あの、糸瓜、好きなんすか?」
我ながら、バカみたいな質問だと思った。
だから、慌てて付け加えた。
そしたら何を言ってるか、自分でも分からなくなった。
「あの、いや、なんか、アボカドとか結構流行ってるんすよ、今。いや、今っつーか、なんつーのかな。糸瓜とちょっと似てるっつーか、だからあの…いや、何でもないっす」
子規は眉を寄せて、目を閉じたままだった。
聞こえているのかどうかも、わからない。
「あの、なんか俺、バカだから、こんな時、何て言ったらいいか…。あ、そうだ!呼んできますよ、あの、色々いたじゃないっすか、仲間が」
立ち上がろうとした。
本当は、苦しそうな子規を見ているのに、耐えられなかったのだと思う。
「おい」
小さな声が聞こえた。
「はい?」
「うめぇんか?」
「はい?」
「いやだから。そのアホカトゆーんは、食えるんか?」
「あ、はい。美味いっすよ。こっちにあるか分かんねーすけど、ハンバーガーっつうか、パンみたいのに挟んだり…」
子規はまた暫く黙っていた。
「パンか。4つ食ったことある」
「そ、そっすか…」
「木村屋のな。1日でな。朝な」※4
「4つすか…?」
「あぁ」
「それは、流石に食い過ぎなんじゃ…」
「あぁ、ちとな。飽きた」
「……でしょうね」
※4 子規は大の菓子パン好きであった
「おまん、どうした?」
「どうしたって?」
「………」
「どうしたって、何がです?」
「……」
聞いても、子規は答えてくれなかった。
そして、やがてこう言った。
「律を呼んできてくれ。あと、虚子と碧梧桐やら…律に言えば、分かる」
それだけ言うと、子規はふっと短く息を吐いた。
歪んだ表情が、穏やかになった。
妙な胸騒ぎがした。
生きてるかどうか、確認するのは怖かった。
部屋を駆け出した。
律さんに、知らせなくては。すぐに。
あと、仲間たちにも。
急がねぇと。
なのに、足が、絡まって、動かない。
前に、進んでない気がした。
何でだ!こんな時に!
焦って、苛立って、叫んだ。
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周りの客が、皆こちら見ていた。
それはそうだろう、子規庵の壁にかかる句を見て、突然奇声をあげる男など、不審者以外の何者でもない。
彼女に促されて、子規庵を出た。
「どうしたの?大丈夫?」
「あぁ。恥ずかしい思いさせたな」
「いや、わたしは良いんだけど、なんか、今日ずっと変だったから。やっぱ、無理して付き合わせちゃったかな」
「子規がさ、最期の最期まで書いたって言ったろ?」
「う、うん」
「なんかさ、いいよな、そういうの」
「うん。でも、どうして?俳句なんて興味なさそうだったじゃない」
「まぁな」
おまん、どうした?
お前、どうする? か。
そりゃ、答えてはくれねぇよな、どうせ、自分で考えろ、だろ?
子規の、小さく息を吐いた姿を思い出し、思い切り、息を吸い込んだ。
そして、彼女に声をかけた。
「あのなぁ、俺、決めたことがあんだわ」
「何?」
振り返る、彼女の背後に絡まった電線と、ラブホの看板が夕日に照らされて、シュールで奇跡的に美しくもある光景が広がっていた。(終)
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