種田山頭火〜まっすぐな道でさみしい〜
弟の二郎が投げたボールは正一の頭を大きく超えていった。
「どこ投げとるが!」
だからあいつと投げ合いをするのは嫌なんじゃ。
悪態をつきながら、正一はボールが飛んで行った方へ向かった。
ボールは庭の塀に沿って、粉雪のように咲いた雪柳の陰に転がっていた。
やれやれ、そう思いながら雪柳の裏へ回り込むと、その先の井戸の方から大人達の話し声が聞こえた。
正一の家の井戸の周りに、近所の大人達が集まっていた。
男達が何か叫びながら、慌ただしく動いていた。
一方、女達は、一つどころに固まって、着物の袂で口を隠して、何か囁きあっている。
何事だろう。
妙な胸騒ぎがした。
なかなか戻って来ない兄を探して、二郎がやってきた。
「おまんは、ここでまっちょれ」
正一は、井戸へ向かって歩き出した。
井戸に近づくにつれ、鼓動が早くなった。
急かされるように、自然と駆け足になった。
「寄っちゃいかん!向こうへ行っとれ!」
突然、井戸の近くにいた男に前を遮られた。
その手を掻い潜り、正一は、本格的に走り出した。
「おい!こら、待て!」
男が後ろから追ってきた。
夢中で走り、たむろしている女達を突き飛ばし、井戸の周りに固まっている男達の背中へ、体当たりするように、身体ごと突っ込んだ。
「正一、よせ!やめんか!」
着物の襟首を掴んで後ろへ引っ張られた。
手を振り回し、必死で抵抗した。
何か、とんでもないことが起きた。
身体の奥の何かがそう告げていた。
「嫌じゃ!何があったんや!離せ!」
一瞬、襟を持つ男の力が緩んだ。
正一は、肩を捻って、襟から男の手を外すと、なおも、井戸の方へ頭を突っ込んだ。押しのけようとする、誰かの手に噛みついた。
「この餓鬼ぁ!何する!」
しこたま、頭を叩かれた。
それでも猪のように人垣の向こうへ頭をめりこませた。そして、見た。
押さえつけようとする、男達の手や、腕の隙間から。
最初に見えたのは、白い着物だった。
濡れて、肌が透けていた。
着物からしたたる水が、ピチャピチャと井戸に響いていた。
視線を横に滑らすと、黒く長い髪が見えた。
顔は髪に隠れてわからなかったが、女だ。
井戸に落ちたのだ。
長い髪が井戸の縁にかかり、そこから垂れた水で、地面が黒く染まっていた。
「よせと言ったんに」
呆れたように誰かがそう呟いた。
女が母フサであることに気づいた時、正一は叫び声をあげていた。
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1892年3月、山口県佐波郡(現・防府市)。
10歳になった種田正一(のちの種田山頭火)は、居間の壁に背中をもたれかけ、足を投げ出して座っていた。
土壁が背中をチクチク刺した。
その微かな痛みで、正気を保っていた。
正一は囲炉裏の周りに集まり、何事か相談する親戚たちをぼんやり眺めていた。時折、そのうちの何人かが、こちらを哀れむように振り返った。
母フサは井戸に飛び込んで自ら命を絶った。
原因はおそらく父竹治郎の芸者遊び。
大人達の話をまとめればそういうことだった。
「大種田ゆわれた、こん家も、あん男が家長やら、もう長くは保たん」
誰かがそうぼやいた。
正一はその声に微かな嘲りの響きがあることに、気づいていた。
「正やんも可哀想やで」
「だから止めたんじゃ。見るあいつも悪い」
悪い?
悪いんは、わしか?
悪いんは、悪いんは、家を顧みず、母を顧みず、自分たちを顧みず、家の金を遊女に注ぎ込み、失意のうちに母を死なせたあの男ではないのか、なのに悪いんは、わしなんか?
「何もフサさんも子供5人も残して逝かなくてもよろしいに。仏さんさ、悪く言いたかないが、ちと無責任じゃなかろうか」
「いや、そうよ、辛抱が足らんちゅうか、竹やんの女遊びは今に始まったことじゃなか。そいを支えるんが女房の役目よ」
「ゆうたら、こげな子供ぎょーさん作ってからに、自分らもしっかりやることはやりよーが」
男達の下卑た笑い声があがる。
「正(しょう)が聞いとるが!」
祖母のたしなめる声が聞こえた。
「ハハ。悪いな、坊主。しかしお前の母親も好きもんの癖に、案外薄情やな」
男が正一の方を振り返って言った。
見知らぬ顔だった。
正一は畳を蹴って立ち上がると、猛然と男に突っ込んで行った。一瞬怯んだ男の腕にしがみつくと、思い切り噛みついた。
「何しやがる!こん餓鬼!」
男は腕を振って、そのまま正一の頭を床に叩きつけた。
「不憫に思って優しくしてやりゃ、つけ上がりゃあがって!」
男は馬乗りになると、上から正一の顔をめちゃくちゃに殴りつけた。
「覚えとれ、殺しちゃる。母上を悪く言うやつは全員ぶち殺しちゃる」
鼻血が目に入り、赤く染まる視界の中で、正一はうわごとのように繰り返した。
気づくと、両方の鼻にちり紙を詰められ、布団に寝かされていた。じろう二郎が上から覗き込んでいた。
心配するな、そう言おうとして、口が動かないことに気づいた。
「ひでぇ顔じゃ、何も言わん方がええ。今、水持ってくる」
二郎が部屋を出て行くと、正一は小さく息を吐いて、目を閉じた。目の奥に、渦が見えた。
どこまでも落ちていけそうな心地良くて、寂しい渦だった。
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「どうや、ちと古いが立派なもんじゃろ?」
父竹治郎は、子供が玩具を自慢するように、酒造場の前で、両手を広げてみせた。
「近所のもんは人の苦労も知らんと、種田はもう終わりやら抜かすが、なんの、この酒造場を当てさえすりゃ、元通りよ」
もともと、種田家は、「大種田」と呼ばれるほどの大地主だった。1キロ先の最寄り駅、三田尻駅まで他人の土地を踏まずに行けた。
しかし、父竹治郎の放蕩と相場取引の失敗のせいで、1906年、正一が24歳になる頃には、土地や屋敷を売り払わなくてはならなくなっていた。
そんな折り、起死回生を狙って竹治郎が手に入れたのが、吉敷郡大道村にある、この山野酒造場だった。
「今日からここは「種田酒造場」じゃ。ゆくゆくはおまんに譲ってやってもええ。どや?嬉しいか?」
酒造場の脇で木蓮が枯れ枝を寒風に揺らしていた。
正一の沈黙を遠慮と取ったか、竹治郎が続けた。
「大学やら辞めたこと、まだ気にしとるんか?そんなもん、気にせんでええ。おまんはこれから、ここで酒を造って暮らすんじゃ、大学やら必要ねぇ」
「そんなんじゃなか。だいたい酒やら、造ったこともねぇんに、建物だけ買ってどうすんじゃ」
「大丈夫だ。こー見えてもわしゃ、酒にはうるせぇ。なんせ、人並み以上には飲んどるからな」
そう言って竹治郎はガハハと笑った。
正一は、目を閉じた。
また渦が見えた。
くるくる、くるくる、その渦に意識をうずめていると心地良かった。
「なんも心配すんな。おまんの嫁さんもわしがきっちり見つけてきちゃる。そしたら安泰じゃ」
目を開けると、正一は竹治郎を見て言った。
「わしゃ、酒造りやらやらんぞ。やるなら、あんた一人でやればいい」
竹治郎の顔が険しくなった。こめかみに血管が浮いている。
「やらんやと?なら何やりよる?」
「わからん!だが酒造りはやらん!」
「たわけ!神経衰弱やら知らんが、クソ馬鹿高ぇ、金ば積んで東京の大学さ行かせてやったんに、逃げ帰ってきたんは貴様やろうが。タダ飯食ってブラブラしよってから、そんな勝手は通らんど!」
「勝手はあんたやろ!」
「ふん、口だけ一丁前か。まぁええ。明日から仕込みじゃ、遅れるな」
黙っていると、竹治郎は激昂した。
「返事せんか!」
正一は目を閉じた。まだ、渦が巻いていた。
そこに母上がいる。
そう思えた。
「わかった。けど、わしからもあんたに1つ言っておく」
「何や?」
「あんたは母上の墓に参るな。母上の墓が汚れる」
物も言わずに、思い切り拳骨で殴られた。
もんどり打ってしたたか地面に顔を打ちつけた。
竹治郎は正一を見下ろして言った。
「立場をわきまえろ。こんからは、おまんはわしの言うことだけ聞いとりゃええ」
仰向けのまま、血の味のする唾を吐き出した。
涙が溢れた。
何もない自分が悔しかった。
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目が覚めたのは昼近くだった。
正一は布団に入ったまま、枕元の俳句雑誌『層雲』を手に取った。
何度も開いたページには折り目がついており、すぐに開いた。
初めて投稿した句が載ったのだ。
昨日も遅くまで句を練っていて、寝るのが遅くなってしまった。
正一は数年前から「田螺公」の号で地元の文芸誌に俳句を投稿していた。同時に「山頭火」の筆名で、ツルゲーネフの翻訳を手掛けたりもしていた。
やはり俳句はいい。
中学の頃より句作はしていたが、最近、改めてそう感じていた。
句を考えている時だけは、身体中の細胞が生き返るようだった。
『層雲』は地元の文芸誌とはわけが違う。
全国誌だ。
これからどんどん投稿し、主宰者の荻原井泉水に認められれば、俳句で生きてく道も見つかるかもしれない。
そう思うと、久々に心が浮き立った。
「今、お目覚めですか?」
その想いに冷や水をかけるような、尖った声が頭上で響いた。4年前に結婚した、妻のサキノだった。
「何や、いつ起きようがわしの勝手や」
不機嫌な声が出た。
「酒造場はどうしたんです?最近、全然行ってらっしゃらないじゃないですか」
「親父がやっとるやろ」
「だといいですけど。あの方も、当てになりませんからねぇ」
そう言うとサキノは短く息を吐いた。
「何や、その物言いは!バカにしよんのか!」
「大きな声を出さないでください。わたしはまたあんなことになると困るから言ってるんです。あなただって懲りたでしょう?」
サキノが言っているのは、5年前のことだ。
酒蔵の管理を怠り、酒を腐らせた。
仕入れなどにかかった借り入れを返すため、結局、残っていた土地や屋敷を全て売り払う羽目になった。
「懲りるも何も、わしゃ初めから酒造りなんぞやる気はねぇ。文句のあるなら親父に言え」
「そういうわけにはいきませんよ。あなたはもう父親なんですから。しっかり働いてもらわないと困ります」
「困ります?おまん、誰に向かって口ば聞いとる?この、どん百姓の肥(こえ)臭ぇ娘が。本来なら地主のわしとは口も聞けん立場ぞ」
「肥臭くて悪うございましたね。家柄なんてそちらも、もうあってないようなものでしょう?言っておきますけど、わたしはあなたのお父様に請われて縁談をお受けしたんです。こちらから頭を下げてもらって頂いたわけじゃないこと、それだけは、はっきりさせていただきたく存じます」
布団を跳ね上げ立ち上がると、正一はサキノの頬を力任せに張った。
愚鈍な女だ。
口を開けば、不愉快なことしか言わない。
竹治郎に押し切られる形で承諾したが、やはりこんな女と結婚するんじゃなかった。
よろけたサキノは頬を押さえてうっすら笑った。
「気がお済みですか?すぐ手が出るところ、お父様そっくりですわ。流石、親子ですね」
そう言うと、部屋を出て行った。
父親そっくり…?自分が?
知らぬ間に自分も、忌み嫌う父親と同じ行動、物言いをしているのか。
この身体には、抜きようがなく、父竹治郎の血が流れている。放蕩し、家族を裏切る血だ。
暗澹たる思いで正一は布団に寝転んだ。
目を閉じると、瞼の裏に、いつもの渦が見えた。
酒造場も、サキノも、子供も、親父も、どうでもよかった。どうせ何一つ、自分には守れまい。
どこか知らない場所へ消えてしまいたかった。
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結局、酒造場は1916年、正一が34歳の時、破産した。
正一は初めからやる気がなかったし、竹治郎も飽き性の面倒くさがりだ。そんな2人がやる酒造場が続くわけがなかった。最後の方は赤字続きで、莫大な借金を残しての倒産だった。
酒造場がいよいよどうにもならないとわかったある日、竹治郎が消えた。借金まみれの酒造場を残して遁走した。
酒造場の名義だけ、しっかり正一の名前にして。
全ての借金を背負わされた正一は、なす術がなかった。
大学を中退して地元に戻ってから、この酒造場以外でまともに働いたことがなかった。この酒造場でだって、まともに働いていたとは言いがたい。
34にもなって、金の稼ぎ方1つ知らなかった。
「だから言ったでしょう?どうされるつもりです?」
サキノは他人事のように冷ややかだった。
「今、友達やら相談しとる。どちらにしたって、こんな恥ば晒して、ここにはおれん」
「恥ずかしいのは、あなた方2人でしょう?わたしは何も、恥ずかしいことなどありません」
つくづく、生意気な女だ。
「つべこべ言う暇があったら、実家から金でも借りてこい!こん、役立たずが!」
「あら?どん百姓にお金の無心ですか?天下の「大種田」様がどうされました?」
カッとなって、正一は手を振り上げた。
「わたしを殴ってもお金は降ってきませんよ!」
正一を見据えてサキノが言った。
舌打ちすると正一は箪笥から封筒を掴み、玄関へ向かった。こんな女といたら、運気が下がる。
どこかで酒でも飲まなくてはやってられない。
「どこに行くんです!?そのお金は今月の生活費ですよ!」
サキノが後ろからしがみついてきた。
それを押しのけて、外へ出た。
4月の群青の夜空に黄色い三日月が浮かんでいた。
句が読みたい、そう思った。
どうにもならない現実を、どうにもならないままに句にしてみたい。
その頃正一は、荻原井泉水に認められ『層雲』で俳句の選者を任されていた。
「山頭火」を俳号でも使うようになっていた。
いざとなりゃ自分には俳句がある。
あとはどうとでもなりゃあええ。
そう思うと、少し気持ちが大きくなった。
今夜はとにかくなんもかも忘れて飲もう。
正一は懐手にゆっくり歩き出した。
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結局、日々の生活すら立ち行かなくなった正一一家は、夜逃げ同然で熊本へ引っ越した。
友人が、正一達家族の為に、店舗付きの家を見つけてくれていた。
心機一転、正一はそこで古書店をやることにした。
屋号は「雅楽多書房」とした。
開店資金は、サキノの実家に頼った。
「今度こそ、真面目に働いて下さいね」
そう釘を刺された。
「わかっちょる。酒造は親父が勝手に始めたことや。せやけぇ、やる気の出んかった。じゃが本はわしの好きなもんやけ、大丈夫じゃ」
本屋ならそれほど忙しくないだろう。
店番をしながら句作もできる。
自分にはうってつけの商いに思えた。
しかし実際始めてみると古書店は常に商品である本を仕入れる必要があり、思ったほど自由な時間はできなかった。
しかも仕入れたものがすぐ金になるわけでもない。
下手すると本棚で何ヶ月も埃をかぶっていることもある。いや、むしろその方が多かった。
それならと、額縁屋に暖簾替えしてみたが、その頃には商いに対する正一のやる気は失せていた。
次第に正一は店に出ず、昼間から飲み歩くようになった。
このまま、額縁屋でわしの人生は終わるんか。
そう思うとどれだけ飲んでも酔えなかった。
そんな頃、弟二郎の訃報が届いた。
借金苦の末の、自殺だった。
山中で発見されたというその亡骸に、正一は会いに行かなかった。
苦しくて、行けなかった。
どげな気持ちやったか。
こまい頃は、夜中に便所に行くのさえ怖がってわしを起こしよったような気の小せぇ男だ。それが、死ぬるために1人で山ん中入るなんて。
考えたら、苦しくて、悔しくて、涙が溢れた。
なんも、してやれんかった。
二郎の死を境に、正一は考え込む日が多くなった。
店はサキノに任せきりになった。
サキノはそんな正一を時折り呆れたように見るだけで、何も言わなかった。
夫婦の仲は、既に冷え切っていた。
店に立つサキノの後ろ姿を眺めながら、心の中で声をかけた。
(おまんも、不幸やったな、こげん男と一緒になって)
その数日後、正一は黙って上京した。
もう、熊本にも、サキノと子供の元へも、戻らないつもりだった。
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「離縁した妻の元に、よくおめおめ戻ってこれましたね」
サキノの言葉に言い返す気力もなく、正一はただヘラヘラと笑った。
「ここに置いて差し上げられるのもひと月が限度です。ひと月経ったらどこへなり、出て行ってください」
正一はうつむいたまま頷いた。
ここを追い出されればいよいよ、行くところがない。
何かに衝き動かされるように上京したのが3年前。
その翌年にはサキノとの離婚が成立していた。
退路を絶って、東京で生活を立て直すつもりだった。
一旦は、図書館職員の職も得た。
しかし、うまく行かなかった。
馴染めなかったし、貰える金は少なかったし、仕事は馬鹿らしくてやる気が出なかった。
一念発起して出てきたが、結局、東京にも自分が思うような仕事は、居場所はなかった。
そこへ追い討ちをかけるように関東大震災が起きた。
その混乱期に、正一は社会党員であると疑われ、留置所に入れられた。
身に覚えがなかった。
ようやく留置所を出ると、東京の街は廃墟だった。
こんなところにもう居たくなかった。
それで逃げ帰った。
熊本へ。
結局帰る場所は、1つしかなかった。
「それと、不憫に思って雨露しのげる屋根をお貸しするだけです。生活の面倒までは見れませんので、そのつもりで」
サキノの言葉を聞きながら、正一はいつか、竹治郎に言われた言葉を思い出していた。
精神を病み、早稲田大学を中退し、山口へ戻った時のことだ。
(こんの、根性なしの負け犬が)
41歳にもなって、22歳のあの時と何も変わっていなかった。いや、もっと惨めだった。
熊本に戻ってからの正一の生活は荒れた。
サキノの財布から金を盗った。
それが難しくなると、友人に絡んでは、強引に金を借り、しこたま酒を飲んだ。
金が尽きると、また友人に無心した。
次第に正一の周りから人が離れて行った。
そうなると、無性に寂しく、怖かった。
だから友人を捕まえると泣きつき、時には道端で土下座までして涙を溢してみせた。
それでいくばくか、また金を得ると、浴びるほど飲んだ。
どうでもええ、もうどうでもええんじゃ。
飲みながら、ずっと呟いていた。
何もかも、酒に酔った夢ならいいと思った。
その日も夕方から飲み続け、酔い潰れ、酒場のカウンターで寝ていた正一は、店じまいする店主に追い出された。
フラつく足取りで見上げれば、いつの間に夜になったか、上弦の月が美しかった。
こげな自分、もう生きててもしょうがなか。
死ぬるには、もってこいの夜だった。
正一は、走ってきた電車の前に飛び出した。
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二郎が投げたボールを追って、雪柳の裏へ回り込むと、母屋から母フサの声がした。
「正(しょう)、おやつにせんね?」
盆に載ったおはぎが見えた。
正一はボールをそのままにし、母の元へ駆け出した。
「こらこら正、二郎を呼んできて。それから手を洗わんね。そげに慌てんでもおはぎは逃げん」
駆け寄る正一を見て、笑いながらフサが言う。
おはぎが食べたいのか、フサのそばに居たいのか、きっとそのどっちもだった。
靴を脱ぎ捨て縁側に飛び上がると、正一はフサの足に抱きついた。
フサの白い着物から、石鹸と、ほのかな甘い香りがした。
クラクラするような、おはぎよりずっと甘い香りだった。
早春の陽が背中から当たり、暖かだった。
ずっとこうしていたい。
正一は、フサを離すまいと手に力を込めた。
「ちょっと!誰とお間違えですか!?」
サキノの鋭い声でハッと目が覚めた。
知らぬ間に、サキノの腰にしがみついていた。
「目が覚めたなら、離してくださいます?」
サキノが冷めた目で見下ろしていた。
いつの間に、家に戻ったのか。
窓の外は、もう明るかった。
昨日の夕方、酒を飲み始めてからの記憶がない。
「全く、あなたという人はどれだけ人様に迷惑をかければ気が済むのです?」
「うあ?」
間抜けな声が出た。
サキノの話によると、昨夜、酔って市電に飛び込んだらしい。
急ブレーキが間に合い、奇跡的に無傷で済んだが、そのあとも線路に居座り、車掌相手に大立ち回りを演じたらしい。
覚えてなかった。
しかし、市電に飛び込んだと聞かされれば、妙に腑に落ちた。
「死のう、思うたんや」
「それなら、1人で静かにされたらいいでしょう。真っ当に働いてる方々まで巻き込まないでください」
「やかましい。おまんが悪いんや」
言いがかりとわかっていたが、サキノを黙らせたくて言い返した。
「わたしが悪い?まだ酔っておいでですか?ふざけたことを言わないでください。あなた、忘れておいでなんじゃないですか?ご自分が、文無しの居候だってこと」
「なっ!この薄情もんが!」
正一は立ち上がろうとした。
しかし、足に力が入らずよろけて倒れた。
「惨めですね。あんまり惨めで、怒る気さえ失せました。まだここに居たいなら、せめて私たち家族の邪魔をしないでくださいね」
サキノは勝ち誇ったように言った。
それを正一は俯いたまま聞いていた。
畳の上で、蠅が前脚を擦りながら、くるくる辺りを見回していた。
(おまんも、飛びあぐねとるか)
そう思ったら、少しおかしかった。
「返事くらい、したらどうです?」
苛立ったようにサキノが言った。
「出てっちゃる」
自然と言葉が出た。まるでずっと前から用意していたように。
「そう、それは助かります。でもどこへ行かれるんです?あなたを預かってくれるところなんてあるんですか?」
やや、意外そうな声でサキノが言った。
「心配すんな」
「やめてくださいね、何日かしたらまた乞食みたいな格好で戻ってくるのは」
正一は、顔を上げてサキノを見た。
「報恩禅寺の和尚がな、前から呼んでくれとったんじゃ」
「……」
「サキノ」
久しぶりに、名前を呼んだ気がした。
「何です?」
「おまんの顔、見るんもこれが限りじゃ。世話んなったな」
ぐっと、力を入れて立ち上がった。
「これから行かれるんですか?」
「早ぇ方がおまんもええやろ」
振り返ると、思いがけず、眉を寄せ、当惑したようなサキノの顔があった。
「達者でな」
それだけ言うと、草鞋をいつもよりゆっくり履いた。
後ろに立っている気配はしたが、サキノは何も話しかけてこなかった。
正一も、黙って外へ出た。
よく晴れた、気持ちの良い朝だった。
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生き直すつもりで始めた寺男の仕事だったが、それも結局長くは続かなかった。
そしてついに正一、いや、山頭火は、放浪の旅へ出た。
しかしここではその足取りの全てには付き合わない。
代わりに、山頭火が旅路に残したいくつかの句を紹介しよう。
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結局、西日本を中心に、7年旅を続け、郷里、山口に「其中庵」を結んだ。
しかし、旅をやめると気が塞いだ。
結局、1つところに留まれず、あてなく歩き続けるのが自分の人生か。
笠を上げれば1人歩き続ける道が続いてる。
また一つ、そんな句を旅の路標に置いていく。
今度は東北を巡り、そのあと木曽路を旅し、流れ流れて、四国へ渡った。
途中、小豆島で同じ荻原井泉水門下の放哉の墓を参り、ついに松山に「一草庵」という庵を結んだ。
死に場所は定まった。
そう思ったら気が楽になった。
現実から逃げるように旅を重ね、気づけば57歳になっていた。
旅の途中、無銭飲食をして捕まったり、自殺未遂をしたり、思えば恥に恥を重ねただけの旅だった。
何も残せず何者にもならず、あとは死ぬだけか。
不思議と心は穏やかだった。
母が死んだ10歳のあの日から、渦の中を彷徨い続けた自分の魂が、ようやく収まるべき場所に収まったように思った。
これでええ。
金もなく、家族もなかったが、なぜか満ち足りていた。
一草庵には山頭火を慕ってたくさんの俳人仲間が集まった。夜な夜な、酒盛りのような句会が開かれた。
あとは1人静かに死ぬだけと思っていたのに、これには山頭火も苦笑した。
しかしこれが最後の一花、酒の一雫か、そう思い、大いに飲み、句を詠んだ。
気持ちいい夜だった。
部屋はまだ句会で盛り上がっていたが、酔った山頭火は奥の部屋でごろりと横になった。
仲間達の声を聴きながら、少し眠ろうと目を閉じた。
その翌朝、亡くなっている山頭火を俳人仲間が見つけた。
享年、58歳。
常々、山頭火自身が望んでいた、ころり往生だった。
最後に編んだ自選句集『草木塔』の冒頭には彼自身のこんな文章が添えられている。
(終)
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