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~自己紹介~
みなさんはじめまして
この記事にたどり着いていただき、読もうと思っていただき
誠にありがとうございます。りんと申します。
あなたが私に興味を持ってくれたことにとても感謝しています。
突然ですが、私は少し前まではどん底の状態でした。
・数年前に母親が自ら命を絶ち大きなショックを受ける
・一昨年には弟が希少がんで若干20歳という年齢でこの世を旅立つ
・上記の精神的ショックと仕事で無理した結果、
適応障害・抑うつと診断され会社を休職
・仕事を辞めることを何度も考えたが、何のスキルもない自分が
今より良い条件で転職できるわけもなく八方ふさがり
そんな私を常に支えてくれたのは妻と息子とペットの犬でした。
会社員として普通に働けないことを責め続けどんどん堕ちていく自分を
優しく見守ってくれてどん底から少しずつ立ち直れたのは間違いなく
家族のおかげです。
おかげさまでメンタルは少しずつ良くなってきていて
日常生活は支障なく送れており、無事復職もできました。
しかし、休職中に切り崩した貯金が底をついてしまい家族には
ひもじい思いをさせてしまっているのでこのままではだめだと思って
一念発起し、副業を始めることにしました。
最終的には副業を本業にして金銭的にも時間的にも自由な生活を
手に入れることが目標です。
私と同じような悩みを抱えている方は多いのではないでしょうか。
・収入が低くて家族を養うことができない
・仕事がつらいから転職したい
・自分のやりたいことを仕事にしたい
そのような方にりんのような底辺人間でも一歩踏み出せば
人生を変えることはできるんだから自分も一歩踏み出してみようと
思ってもらえるように発信しようと思ったわけです。
次に私がどんな人生を歩んできた人間なのかを知ってもらいたいので
経歴を以下に記します。
私の経歴
未成年期(0~20歳)
地方の田舎の裕福とは言えない家庭に長男として生まれました。
その後妹と弟が生まれ3人兄弟の長男でした。
幼稚園では親曰く幼稚園に行くのが嫌で毎朝泣きじゃくりながら預けられる引っ込み思案で人見知りな子供でした。
小学校では人見知りが少し解消されクラスの学級委員長を務めていました。
性格はどが付くほどの真面目で頑固で先生に怒られないために頑張るという感じでした。成績はかなり優秀な方でした。
中学校でも引き続き学級委員長を務めていましたが思春期ということもあり
同級生のヤンキーに少しあこがれちょっと真面目な性格が和らぎました。
成績は変わらず優秀でした。
高校は家が貧乏なこともあり通学にお金がかからない家から一番近い
普通科の高校に通いました。スポーツが盛んな高校だったため、
あまり学力は高くなくここでも成績は優秀でした。
大学は同じく家の経済状況を考え一番近い国立の大学に進学。
ここで自分の人生が狂い始めます。将来なりたい職業もなく
一番近い国立に行ければどの学部でもよいと考えていたので
自分の学力と近い学部を選んだところ全く興味のない土木の学科
ということが分かり落胆します。
成年期(21~29歳)
大学3年生になり就職を意識しだす時期になり、依然としてやりたいことや
なりたい職業がない自分は親に子供のころから言われていた
「安定した職業に就きなさい」という言葉のとおりにそこそこ名の知れた
比較的安定した会社に就職しました。
22歳になり、新卒で入社した会社の仕事内容は土木関係の事務職でした。
これが私にはきつかった・・・
小心者で若造の私が現場をよく知っている絶対元ヤンだっただろっていう
おじさんたちに指示を出していかないといけないのですが
反発されることも少なくなく口げんかもしたことがない自分は
いつも言い負かされてそのことを上司に相談するともっと頑張れと言われ
どんどん仕事が嫌になっていきました。
(上司の言葉はもっともだと思いますし、たくさんの新社会人が経験することで自分だけがつらい思いをしているとは考えていなかったのですが
それでも耐え難いしんどさでした)
そんなつらい状況でも頑張れたのは当時の彼女であり現在の妻が
私の生きがいとなっていたから何とか頑張れました。
妻と出会えてなかったら今頃仕事を辞めてバイトで食いつなぐ生活を
していたと思います。
今の仕事は嫌だけど安定してるし他にやりたいこともないから
仕方なく仕事を続けていた矢先に母が急死しました。
それを知ったのは3年前の夜に仕事が嫌なことを忘れるために
お酒を飲んでいた時に普段電話がかかってくることがない父からの電話
「母ちゃんが・・・」
その時今まで経験したこともない動悸と呼吸するのもやっとなくらいの
過呼吸が襲ってきました。
母はとても穏やかであまり怒るのを見たことがない人でした。
私とよく似ていて人とぶつかるのが苦手で何でもため込んでしまう
性格でした。
母が亡くなる約1年前に弟が希少がんにかかり、確立された治療法がなく
助かる見込みがかなり低いと診断されていました。
親としては自分より先に子供に旅立たれてしまうのはやはり
つらかったのかなと思います。
母が亡くなった原因は結局分かりませんでしたが最期までいろんなことを
自分で抱えて抱えきれなくなったのかなと思い、自分たちが少しでも
気づいてあげられなかったのかなと日々後悔していました。
そして母が亡くなった後は弟が亡くなりました。20歳でした。
弟は異常なほど我慢強く口数も少ないので何を考えているか分からないと
家族で言われているほどでした。
そんな弟が左肩が異常に痛むと祖母や親に言って病院に行ったところ
希少がんが発覚。後から父に聞いたのですがその時は余命数か月と宣告を
受けていたようです。その後手術と治療を行い一時は容体が安定したの
ですが肺に転移が確認されました。
希少がんは治療法が確立されてなく、治験で大阪へ毎週通って
一縷の希望にすがる思いで治療に立ち会っていました。そんな思いも
むなしく肺のがんはどんどん膨らみ続け呼吸ができなくなっていきました。
発症から約2年経ち、最期は緩和ケア病棟で私と父に見守られながら
本当に短い一生を終えました。
治療と症状はとんでもなくつらく苦しいものだっとと思うのですが弟は
最期まで一つも弱音を吐くことなく旅立ちました。立派でした。
そんな重すぎる経験を重ねていると今度は自分にも影響が出始めました。
もともとHSP気質の私は気にしいなので母のことや弟のことを考え、
自分にもっとできることがあったのではとかあの時こうしていれば
こんなことにはならなかったのではないかとぐるぐる考え続けていると
だんだん夜が眠れなくなっていきました。
夜が眠れなくなることと連鎖的に朝が起きられなくなり、仕事に行くことが
さらに憂鬱になっていきました。
そんな中年度代わりの転勤があり新しい部署へ行くことになりました。
新しい部署ではやることも新しく覚えなければならないのですが、
母や弟のことで頭がいっぱいで頭の中にもやがかかったような状態のなかで
新しいことを覚えられるはずもなくどんどん仕事が山積みになっていき
そうしたストレスで今度は下痢や動悸、過呼吸が日常的に頻発するように
なり、上司に相談し精神科を受診することになりました。
結果は抑うつ状態。休職が必要とのことであったためその後すぐに仕事の
引継ぎを行い休職に入りました。
休職中の話はいろいろ自分の中で転機となったので別の記事にまとめようと思います。
結局3か月休職し、無理して復職、その後1か月で再度体調を崩し2度目の休職を7か月行い復職をしました。
これが私の現在までの経歴です。
みなさんに発信していきたいこと
それはずばり「自分の生き様」です
これから私は副業を通じて最終的にはフリーランスになって
自分の生きたい生き方を追求していこうと思っています。
その過程でうまくいかないこともあると思います。例えば
・副業が成功しなかった
・副業が成功したがフリーランスになるまでの収入は得られなかった
・フリーランスになれたが自分の生きたい生き方とは違った
などなどこれから待ち受ける未来は想像がつきません。
だからこそこれから私と同じ悩みを抱える方にとって
りんのような生き方をしたいと思ってもらえたり、
逆にりんのような人生を歩みたくなかったから事前に知れてよかった
といった道しるべになれればと思っています。
私は記事を読んでくれる皆さんに幸せをつかんでほしいと思っています。
これからどん底会社員がどのように変わっていくのかぜひご覧いただければ幸いです。
ここまで記事をご覧いただき誠にありがとうございます。
また皆さんとお会いできることを楽しみにしております!