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格闘ゲームと『セルフ・コンパッション』Part②

前回は『セルフ・コンパッション』の第Ⅰ部~第Ⅱ部のまとめと私なりの格闘ゲームに取り入れるセルフ・コンパッションの解釈などをまとめました👊
今回は第Ⅲ部~第Ⅵ部までのまとめとなります。
よろしくお願い致します🙇‍♀️


◆第Ⅲ部 セルフ・コンパッションがもたらす恩恵

この第Ⅲ部は中身が3章あり、それぞれの章で様々な研究に基づいた自己批判についての学術的な論文をまとめていて、それがセルフ・コンパッションとどのような関係があるかを述べています。
「なぜ自分は自己批判をしてしまうのだろう?」とか「どうして自分は何事にもネガティブになってしまうのだろう?」と悩んでいる人がいれば、こちらの章を読み込むことでより深く理解できると思います。これまでの章よりも専門的な言葉や研究などが難しくも分かりやすくまとめられていて、それが自己批判に対して共通の人間性を認識するのはセルフ・コンパッションを実践するにあたってもひとつの入り口となり得るため、長い第Ⅲ部ではありますが読み解いていくことをおすすめします。

◇第6章 感情面のレジリエンス(立ち直る力)

セルフ・コンパッションの研究によって、セルフ・コンパッションを実践している人は不安や抑うつの状態の程度が低い傾向にあることが示唆されています。
しかし、そもそもなぜ私たちは不安や抑うつの状態になり、そして自己批判をしてしまうのか? この章では主に身体的な仕組みとしてなぜ自己批判に陥りやすいのか? についての解説となります。

要点をまとめると、

・自分は不十分だという思いと自己批判は、抑うつ状態および不安体験に影響を与えていること
「暗黒の感傷(ブラック・グー)」と呼ばれる心を閉ざした状態を起こすのはなぜなのか?
・人間の脳にはネガティビティ・バイアスがあるため、私たちは肯定的な情報よりも否定的な情報に敏感であること
・私たちの脳は否定的な情報にきわめて敏感になるように進化したこと
・いったん心が否定的な思考から離れなくなると、壊れたレコード・プレイヤーのように何度もそれを繰り返してしまいがちになること(※反芻と呼ばれる)
反芻は抑うつ状態と不安の双方を引き起こす可能性がある(※反芻とは一度飲みこんだ食物を再び口中にもどし、よくかんでからまた飲みこむこと。反芻類の動物(牛など)が行う。転じて、くりかえし考え味わうことの意。過去のネガティブな出来事や不快に思ったことを何度でも思い返すことの意。)
・過去の否定的なできごとの反芻は抑うつ状態につながり、未来に起こりうる否定的なできごとの反芻は不安につながっていく
反芻しがちな自分を裁かないこと
反芻もまたネガティビティ・バイアスと同じように生まれつき組み込まれているものだということ
・セルフ・コンパッションをよく実践している人は反芻が少ないこと
・セルフ・コンパッションの効果について
セルフ・コンパッションのマントラ
情動知能について
バックドラフトについて

という点が論じられています。
用語説明などを交えてまとめていきます。

📌ネガティビティ・バイアスについて

ネガティビティ・バイアスは聞いたことがある方もいらっしゃるかと思います。人はポジティブな情報よりも、ネガティブな情報に注意を向けやすく、記憶にも残りやすい性質を持つ、ということを表す心理学用語になります。著者はネガティビティ・バイアスの説明の中で、『自然環境では否定的な情報は通常、脅威を知らせている。』と説明している。自然環境で生き残るには、脅威に対して迅速に行動しなければ生き残ることができないためである。人間の祖先が様々な脅威を逃れて生き残ってきたからこそ今の私たち人間がいることを思い出せばこのネガティビティ・バイアスというのは進化の過程で必要不可欠なものだったと思い出せることでしょう。

📌反芻について

反芻というのは人間だったら誰でも経験したことがあるのではないでしょうか? 私自身も過去に経験した恥ずかしい思いや自分の失敗を思い出しては「あの時どうしてあんなことをしちゃったんだろう!」と思って顔を覆ったり、時には思い出すこと自体が嫌で反射的に大きな声を上げてなんとか気を逸らそうとしてしまったりすることがあります。しかし、この反芻というのは「安全でいたい」という生存的な欲求の表れでもあります。

ネガティビティ・バイアスも反芻も私たちの脳に組み込まれているものだと著者は述べています。それはもっと言えば人間である限り逃れようのない性質、ということになります。人間だから当たり前に起こること、起こって仕方のない構造上の性質だと覚えておくのが大切です。

📌「暗黒の感傷(ブラック・グー)」から抜け出すためのセルフ・コンパッション

しかし、時に人は自己批判によって心を閉ざしてしまうことになります。その状態を著者は「暗黒の感傷(ブラック・グー)」と呼んでいて、そうなってしまうのは前述したネガティビティ・バイアスや反芻といった人間の性質が関係しているからだと説明しています。そして勿論のこと、この暗黒の感傷から抜け出す方法が自分を思いやるというセルフ・コンパッションになる、ということになります。

セルフ・コンパッションの研究により、セルフ・コンパッションを実践している人はセルフ・コンパッションの能力を欠いている人に比べて否定的な感情が少なく、反芻も少ないと報告されています。

では、そもそもなぜセルフ・コンパッションは私たちの自己批判する心を落ち着かせ、自分を思いやることによって成果を上げ、この章のネガティビティ・バイアスを抑制したり反芻を少なくすることができるでしょうか? マインドフルネスだけでは解決できない暗黒の感傷に捕まってしまった時の対処法とセルフ・コンパッションが与える効果とその仕組みを著者は本書の中でこう語っています。 

暗黒の感傷(ブラック・グー)に捕まったら、自分に優しくして、相互につながり合おうとする生来の性質を思い出す。そうすることで、自分が大切にされていて、受け入れられている上に安全だと感じはじめるようになる。否定的な感情の陰鬱なエネルギーと、愛と社外的なつながりの明るく輝くエネルギーとのバランスを取るのである。その温かさと安心感は、やがて身体の脅威システムを無効にし、愛着(アタッチメント)システムを活性化させて、扁桃体を鎮め、オキシトシンの産出を高めることになる。幸いにも、オシシトシンはもって生まれたネガティビティ・バイアスの抑制に役立つことが研究によって明らかになっている。

クリスティン・ネフ(2021)セルフ・コンパッション[新訳版]
第Ⅲ部 6章

オキシトシンというのは知っている方も多いかと思いますが幸せホルモン愛情ホルモンと呼ばれる物質のことです。前回の記事で自分に優しくするためのエクササイズとして自分とハグをするというものを紹介しましたが、その時に身体的接触がオキシトシンを分泌し、安心感を生み、ストレスを低減してくれるということに触れました。セルフ・コンパッションにはこのようなオキシトシンの分泌を促す効果があり、人間の構造的に備わっているネガティビティ・バイアスや反芻、自己批判によって起こる暗黒の感傷から抜け出す力添えをしてくれるというわけですね。
このように聞くとセルフ・コンパッションは私たちの心から痛みを取り除いてくれる魔法のように思えますが、セルフ・コンパッションの本質を見失うことなく実践していくことが大切です。

セルフ・コンパッションがすばらしいのは、否定的な感情を肯定的な感情に置き換えるのではなく、否定的な感情を受け入れることによって、別の肯定的な感情を生み出す点である。

クリスティン・ネフ(2021)セルフ・コンパッション[新訳版]
第Ⅲ部 6章 

著者のクリスティン・ネフ氏の言葉を胸に、セルフ・コンパッションの根幹を理解しながら実践していくことの大切さがこの章を読んでいるとひしひしと伝わってきます。

📌セルフ・コンパッションのマントラ

マントラとは、インドで古代から使用されている短い言葉で、心を落ち着かせるために唱えられます。サンスクリット語で「言葉」「文字」を意味し、日本語では「真言」の意味。(※……真言…? とは…?と私自身がなったので簡単に説明を置いておくと、真言とは、いつわりのない真実の言葉の意。 密教で、仏・菩薩 (ぼさつ) などの真実の言葉、また、その働きを表す秘密の言葉をいう。 明 (みょう) ・陀羅尼 (だらに) ・呪 (じゅ) などともいう、とのことでした。)
著者はセルフ・コンパッションのマントラというのを本書で紹介していて、これは著者のネフ氏がセルフ・コンパッションの姿勢をいつでも思い出せるようにする方法を考え出したものだと述べられています。

今は苦悩のとき。
生きていれば、苦悩することもある。
今、自分に優しくありますように。
自分に必要なだけ、自分を思いやれますように。

クリスティン・ネフ(2021)セルフ・コンパッション[新訳版]
第Ⅲ部 6章

1行目はマインドフルに状況を理解するための言葉で、2行目は共通の人間性の認識を思い出させてくれて、3行目と4行目で思いやることの大切さを思い出させてくれる、といった構成となっています。
私自身、セルフ・コンパッションを実践する時に使うセルフ・コンパッションノートの1ページ目にこちらのマントラを書き写していて、自己批判が強くなってしまって抜け出せなくなった時のために読み返しています。
本書ではマントラは著者のクリスティン・ネフ氏の言葉を訳して載せているため、日本人の私たちには馴染みのない言い回しもあるかと思います。
そのため著者のネフ氏はそのすぐ後にエクササイズとして『セルフ・コンパッションの自分専用マントラを作成する』というものを用意しています。
マインドフルネスに基づいた言葉である『今は苦悩のとき。』共通の人間性の認識に基づいた『生きていれば苦悩することもある。』思いやりに基づいた『今、自分に優しくありますように。』『自分に必要なだけ、自分を思いやれますように』というセルフ・コンパッションの核となる構成要素とセルフ・コンパッションの3つの入り口を意識したマントラを自分に合った言葉に置き換えて覚えるというエクササイズです。

📌セルフ・コンパッションと情動知能

セルフ・コンパッションは一種の強力な情動知能(心の知能)である、と著者は述べています。この情動知能という言葉はダニエル・ゴールマンの『EQ──こころの知能指数』(邦訳:講談社)で使われている言葉で、大きな影響力を持つ本であると紹介されています。情動知能とは、自分自身の感情をモニターし、その情報をうまく活かして思考や行動を導いていく能力、言い換えれば、自分の感情に気づき、その感情に乗っ取られないようにする能力のこと、と続けて説明があります。この「気づき」という部分が本書の中で太線で強調されているのを見るに、この気づきというのはマインドフルネスと関係があるようですね。セルフ・コンパッションをよく実践している人ほど情動知能が高いという研究結果もあるとのことです。EQは1990年代の本で、セルフ・コンパッションは2000年代の本なので著者がセルフ・コンパッションを研究していく上で読んできた本であり、なおかつセルフ・コンパッションの中でも紹介されているので俄然興味が湧きました。セルフ・コンパッションの要約も進んできたのでEQの文庫版を注文して読んでみることにしました。機会があればまた記事として取り上げるかもしれません✍️

📌バックドラフトについて

言葉自体のバックドラフトの意味について先に説明を置いておきます。
バックドラフトとは、火災現場で発生する爆発的な燃焼現象のこと。気密性の高い室内で火災が発生すると、酸素が不足して炎が消えたり勢いが弱まったりする。窓や扉を開放すると酸素が流入し、急激に空気が流れ込み、爆発的に燃える。消防士が室内から外に吹き出してくる強い気流(draft)に巻き込まれると命にかかわるため、火災現場では窓やドアを開けて水をかけないこともある。
著者の同僚である臨床心理士のクリストファー・ガーマー氏は自らのセラピーを受けるクライエントにセルフ・コンパッションを教えていく時に、クライエントがいくつかの異なる段階をたどっていることに気づいたという。
セルフ・コンパッションに取り組む初期段階でこのバックドラフトということが起こり、特に自分に価値がないという感情に苦しんでいるクライエントに現れるという。自己批判ばかりしている人が、自分自身に対して優しくしようとすると、気密性の高い空間で火災が起きて窓を開けた時のように怒りを爆発させたり猛烈な否定に襲われたりすることがあるのだという。そしてこのバックドラフトが起こった時は当然ながらマインドフルに問題に取り組み、自分を思いやることが解決策だという。
この段階が終わるとセルフ・コンパッションの真価を理解する段階となり、実践に熱心になるという。ガーマー氏はそれを「心酔」の段階と呼んで、セルフ・コンパッションから得られるよい気分に執着しがちになるという。
しかし、時が経つと心酔は消え、セルフ・コンパッションが否定的な感情を根こそぎ消すような手段ではなく、優しさで包んでそれがひとりでに変わっていく余地を与えるだけどいうことを忘れてはならないという。
この状態でセルフ・コンパッションを実践し続けていくと、クライエントはやがて「真の受容」の叡智に到達するという。

自分に思いやりを持って接することの難しさがこのガーマー氏の体験の話を通して浮かび上がっていくのが分かります。セルフ・コンパッションを実践していく中で、このバックドラフトや心酔といった様々な段階はセルフ・コンパッションを実践する人の中でも一般的に起こり得るもので、その中でもセルフ・コンパッションの意味を取り違えることなく実践し続けることで、自分から生まれてくる厄介とも思える自己批判を受容して真のセルフ・コンパッションを習得できるのでしょう。



◇第7章 自尊感情ゲームをやめる

ここからは第Ⅲ部でも章が変わってきて、主に自尊感情について論じられています。
この章での要点をまとめると、

・1980年代後期のアメリカでは高い自尊感情への関心が高まり、1万5千本以上の論文が発表され、学校やコミュニティ・センターやメンタルヘルス施設では自尊感情を高めるプログラムが溢れかえるようになるほど自尊感情が注目されていた時代があったこと
そもそも自尊感情とはなにか?
・ウィリアム・ジェームズ氏による自尊感情の定義自尊感情を高める方法2つあること
・チャールズ・ホートン・クーリー氏は自尊感情が生まれる別の一般的な理由を特定し「鏡映的自己」から生まれると提唱し、自尊感情は親しい人から評価された時よりも他人から評価された時のほうが強い影響があるという
・ナルシストについての研究など
・アメリカの子どもたちの自尊感情を向上させるための見境のない褒めを重視した自尊感情プログラムがもたらすナルシシズムの増大
条件つきの自己価値とその依存性について
・自尊感情の追求とは本当に価値のあるものなのか?
セルフ・コンパッションと自尊感情について
セルフ・コンパッションは自尊感情とは異なり、自分自身が特別であることや平均以上であることや理想のゴールに到達すること(条件つき自己価値)に依存しない
・セルフ・コンパッションは高い自尊感情と同じ利益があり、欠点は認められない(その際、セルフ・コンパッションと自尊感情は明らかに両立する傾向がある)
・著者自身からの自尊感情に翻弄される私たちへのメッセージ

というようなことがまとめられています。
この記事では主に太線で示した部分をまとめていきます。

📌そもそも自尊感情とはなにか?

・西洋心理学の創設者のひとりであるウィリアム・ジェームズ氏によると、自尊感情とは「自分自身に備わっていると認識している能力で、重要だと考えている領域に属するもの」の産物、と定義されています。例えば自分は運動能力が高いと認識していて、それは優れていると思うことで自尊感情というものが発生する、ということになります。

・19世紀から20世紀の社会学者であるチャールズ・ホートン・クーリー氏は自尊感情は「鏡映的自己」から生まれると提唱した。自分が他者の目にどう映っているかについて認識し、他者からの良い評価・悪い評価によって良い気分にも悪い気分にもなる。自尊感情は自己評価からだけでなく他者からの評価として自分が認識したものからも生まれる、というのがクーリー氏の主張となる。そして、自尊感情は親しい人から評価された時よりも他人から評価された時のほうが強い影響があるという。しかし他人からの評価というのは自分をよく知らない人からの評価で確かな情報をもとにした判断ができない点と他人の意見を知り得ることが難しい点が挙げられており、自尊感情は他人からの評価に大きく左右されるものの不安定で正確性がないという側面もある。

📌自尊感情を高める2つの方法

こちらはウィリアム・ジェームズ氏が示したものになります。

①得意なものを高く評価し、苦手なものを低く評価する

 →上記の例のように自分の運動能力が高いことで自尊感情を感じているという人が、学校の授業科目の算数が苦手だとします。しかし、自分の運動能力を高く評価することだけを優先し、算数が苦手だからといって勉強することをやめてしまえば将来困ることになってしまうのは明白かと思います。この上記の例では極端ですが、個々の持つ得意なものだけを評価し、苦手なものを価値のないものとして捨て置いてしまうと、苦手なものの中に隠された重要なものを見落とす可能性があると指摘されています。『短期間で自尊感情を
得ようとすると、長期的には自分の成長を損なっているかもしれない』と説明があり、あまりオススメできる方法ではないそうです。

②自分にとって重要な領域に属する能力を強化する
 →自分の運動能力が高いと思っている人ならその運動能力を更に伸ばすことによって自尊感情を高めるという方法です。※こちらは正しい方法であると思われるかもしれませんが、次に出てくる「条件つきの自己価値」と密接に関わる部分でセルフ・コンパッションの立場ではこの形での自尊感情の獲得は推奨されていません。次の条件つきの自己価値で解説します。

📌条件つきの自己価値

「自己価値の随伴性」とは、出来・不出来、可・不可などに左右される自尊感情を言うとき、心理学者が使う用語であるという。この「自己価値の随伴性」を著者は「条件つきの自尊感情」という名前で呼んでいます。
この条件つきの自尊感情というのは自分や他者からの評価によって左右されてしまうため、好ましい評価を受けた時は良い気分になっても、好ましくない評価を受けると嫌な気分になるというような状態に陥りやすいと示唆されています。
ある人が、ある特定の領域で、「結果を出すことができる自分は特別で素晴らしい」と自尊感情を持っているとしても、傍から見たらそれは平均的で人並みだという評価を貰った途端、自分を素晴らしいと感じていた自尊感情は崩れてしまうという。もちろんその人自身がどの程度その領域での自分への自尊感情に依存しているかにもよるものの、人の評価に左右されやすい条件つき自己価値を見出してしまっている場合、否定的な評価を受けた時は計り知れないほどのダメージを負うことになる。
そして、この条件つきの自尊感情には依存性があるとも示唆されています。自尊感情が最初に湧いた時の快感があまりにも心地良いために、他者からの賞賛を受け続けたいと思ったり競走に勝ち続けたいと思うようになり、快感を求め続けるが、これはドラッグやアルコールと同じように耐性がついていってしまうため、賞賛や競走での勝利の量を増やしていかなければ快感を感じられなくなっていくという。自尊感情をもつことができる部分を伸ばし頑張ろうとし続けるのは良いことのように思われるが、目的と手段を取り違え、賞賛を受けて快感を得たいがためにその努力をしてしまうと、賞賛の量が足りなかったり、はたまた賞賛の声を失った時に頑張り続けることができなくなる。

📌セルフ・コンパッションと自尊感情

自尊感情が自分が特別であることや平均以上であることや理想のゴールに到達することで喜びを得ることと比べると、セルフ・コンパッションはそれに依存しない。セルフ・コンパッションから生まれる喜びは自分自身を優しくケアすること、他者と競い合うのではなく共通している部分を受け入れ、その過程でつながりの強まりや全一性を感じることから生まれるという。さらに、セルフ・コンパッションは失敗の体験や物事がうまく進まない時に寄り添ってくれるどころか、自尊感情のせいで自分自身にがっかりしている時にこそ効果を発揮する。
それは、これまでセルフ・コンパッションを学んできた通り、自分の問題も他人の問題と同じくらい大切で思いやる価値があること、人間に共通してみられる事象に遭遇している事実を認識し、なおかつマインドフルに自分の置かれている状況をありのままに享受することで、自分自身に対して(※セルフ)、優しくすることができるからである(※思いやる、コンパッション)。

📌著者からのメッセージ

章の最後の自尊感情に苦しむ私たちに向けた著者からのメッセージがあるのでご紹介します。

 (中略)他者と明確に区別する線を引いて、自分を他に類のない存在だとみなすのではなく、自分は、すべてが相互につながり合うもっと大きな全体の一部だと考えるのである。すなわち、「他と区分した自己」は幻想だと考えるのである。自己はそもそも相互に関わり合う数多くの状況から生まれているにもかかわらず、ある特定の自己は、そうした状況とは切り離して判断されている可能性がある。自尊感情が作用しはじめるのは、自分のことを「他とはっきり異なる存在」だと信じる罠にはまったときだけである。自分のことを思ってよい気分になり、そこから生まれる幸せに浸りたいと思うのは当然である。誰もがそうした願望をもっている。しかも、この幸せは人がもって生まれた権利である。しかしながら、幸せ────永続する真の幸せ────は人生の流れに積極的に関わり、他のすべてから自分を区別するのではなく、他のすべてとつながり合うときにこそ心から味わいうるものである。
 自分の体験を主にエゴというフィルタにかけ、高い自尊感情を向上させ維持することに躍起になっているとき、私たちは、本当は最も望んでいるものを自分に禁じている。私たちが心から望んでいるのは、ありのままの自分を受け入れてもらうこと、小さな自己よりはるかに大きなものの不可欠な一部になることである。制約を受けることなく、測り知れない存在として自由になることである。

クリスティン・ネフ(2021)セルフ・コンパッション[新訳版]
第Ⅲ部 7章



◇第8章 意欲と自分の成長

ここからは第Ⅲ部の最後の章となります。
感情面のレジリエンス、自尊感情、に続いて論じられるのは「意欲と自分の成長」についてのことで、ここでは主に自己批判が学習意欲に対してどんなデメリットがあるのかとセルフ・コンパッションが学習意欲に対してどのように影響するのかということについて論じられています。

要点をまとめると、

・自己批判によってどのような精神状態が発生するのか
・自己批判によって損なわれる自己効力感
自己批判で生まれる恐怖について
セルフ・ハンディキャッピングについて
セルフ・コンパッションが自己批判よりも意欲を引き出せる理由
・キャロル・ドゥエック氏の『マインドセット「やればできる」の研究』から見る、人が目標を達成したいと思う2つの理由について
セルフ・コンパッションを実践している人は、学びを目標とする傾向にあり、失敗を恐れず、自己効力感が失敗によって損なわれる傾向も低い
・セルフ・コンパッションとダイエットについての実践と研究
・著者のセルフ・コンパッションの体験

などが掲載されています。
こちらでも主に太線で示した事柄についてまとめていこうかと思います。※今回は格闘ゲームとセルフ・コンパッションの内容に沿っていないため太線にしていませんが、セルフ・コンパッションとダイエットについては、研究の結果やセルフ・コンパッションに基づいた考え方などがまとめられているため、容姿について悩んだことがある人には読んでいて価値がある内容であるかと思います。また、前章での自尊感情の部分に自分の容姿を当てはめている人にとって自分の容姿に対する不満で自己批判しがちな人には有効であると思うので内容が気になる方は考え方のひとつとしてセルフ・コンパッションを参考にするのも良いかと思います。
それではひとつずつ見ていきましょう。

📌自己批判によって損なわれる自己効力感

「自己効力感」とは、心理学者のアルバート・バンデューラが提唱したもので、自分の能力を信じる気持ちのことである。例えば「自分にはできる」と自分自身を信じたり、「目標達成能力が自分にはある」と思うことである。
この自己効力感は自己批判によって損なわれる傾向がある。自分をけなし続けることによって結局自信を失い、本来できるはずのこともできなくなり、更には自己批判が抑うつ状態との結びつきが強いために、行動をする意欲すらも奪っていくことになる。

📌自己批判で生まれる恐怖

著者は自己批判が効果を上げていることがあるとすれば、それは「恐怖」であると説いている。これは、失敗した時に生まれる厳しい自己批判があまりにも不快なため、自分で自分を裁くという事態を避けたいと思うがために行動の動機となってしまうことがあるからである。この恐怖による動機づけはある程度効果的に働くものの、不安自体がパフォーマンスを損ないかねないという点が欠点として挙げられている。否定的に判定されることに対する恐怖は人をひどく消耗させ、不安は目の前の問題に向ける注意をそらし、集中して物事に取り組むことを阻害してくる。本書では大勢の人の前で話をしたり、試験に対する不安などの例が挙げられている。
自己批判は不安を発生させるだけではなく、失敗した場合の自責(恐怖)を逃れるための心理的な策略(セルフ・ハンディキャッピング)にもつながりうるため、結果として失敗に繋がる可能性が高まる。

📌セルフ・ハンディキャッピングについて

「セルフ・ハンディキャッピング」とは、簡単に言えば「言い訳」のことです。例えば学生の頃の試験前の期間などで家で勉強をしなくてはいけないな、という場面で、急に「あれ?机の上がなんか汚いな?」と気づいて掃除をし始めてしまうことがあるかと思います。これは「机の上が汚いせいで気持ちよく試験勉強ができない。だから掃除をしているんだ」というもっともらしい理由をつけて勉強を先送りにしている事実から目をそむけている時によく用いられる例です。研究によれば、自己批判をする人はしない人に比べて、このようなセルフ・ハンディキャッピングを目論むせいで目標を達成する可能性が低くなっているという。
著者はこの件に関して、最善を尽くしても失敗する可能性はあるという事実を、もっと楽な気持ちで受け入れることと、実際に失敗したときに自分のエゴを救おうとして自己は快適な行動に走る必要はないということを書いている。

📌セルフ・コンパッションが自己批判よりも意欲を引き出せる理由

著者は、セルフ・コンパッションが自己批判よりも効果的に意欲を引き出せる理由について、セルフ・コンパッションを動かしているのが、恐怖ではなく愛だからである、と説いています。自分を思いやるという愛情によってオキシトシンを増大させ、自信をもたせたり安心感を与えたりすることができるセルフ・コンパッションと比べると、自己批判は恐怖によってストレスホルモンのひとつであるコルチゾールなどを増大させてしまい不安になって失敗を恐れるようになってしまう。
この中で著者は『セルフ・コンパッションは、自分に慰め言葉をかけてよい気分になる方法であり、自分を甘やかす方法以外の何ものでもないと思っている人はたくさんいる。』と前提を示した上で、『自己批判は、自分の状態が十分に望ましいものかどうかを問題にするが、セルフ・コンパッションは、どのような状態が自分にとって望ましいのかをといかける。すなわち、健康で幸せでありたいという自分の内なる希望を引き出すのである。』と説いている。

〜仏教の正精進(しょうしょうじん)〜
本書の中で仏教の八正道(はっしょうどう)のひとつである正精進について説明があるため八正道と仏陀について調べてみました。
八正道とは悟りの境地に達するための八つの方法を示したもので、その中で正精進とは「正しい努力。正しく励み、努力をすること」の意味となります。
仏陀とは悟りを開いた人のことで、一般的には釈迦のことを示しています。仏教の中では仏教の始祖である釈迦個人を指す言葉ではないとされています。
参考サイト↓

著者はセルフ・コンパッションの持つ動機づけの資質を仏教の正精進と関連付けて話を進め、この八正道によれば誤った努力とはエゴや支配欲、自分の力量を示すことへの関心から生じることになり、この手の努力は苦悩を増大させると説明している。そして正しい努力について以下のように説いています。

 一方、正しい努力は苦悩を癒やしたいというごく自然な欲求から生まれる。仏陀が言ったとおり、「髪の毛に火がついたことに気づくようなものである」。自分の髪の毛から煙が出ていることに気づいたら、急いで濡れたタオルをつかむなり、シャワーに飛び込むなりするなど、とっさの行動を取るのは問題を解決したいという思い、すなわち火傷を負う危険を回避したいという思いからである。自分の力量を示したい(「どうだ、おれは凄腕の火消しだろ?」と言いたい)からではない。同様に、セルフ・コンパッションから生じる努力はエゴが躍起になった結果ではなく、苦悩を和らげたいという自然な欲求が生むものである。
 成長したいと思うなら、自分自身を傷つけている可能性のあるやり方に敢然と対処し、どうしたら状況を改善できるかを見つけ出さなくてはならない。とは言え、自分自身につらく当たる必要はない。自分を変えるという難しい取り組みを進めながら、自分に優しくし、自分を支えるのである。人生は楽ではないこと、誰しも難題に遭遇することを認めるのである。幸いにも、自分に優しくし、自分を励ますと、気分はかなりよくなり、不快も確実に和らいでいく。

クリスティン・ネフ(2021)セルフ・コンパッション[新訳版]
第Ⅲ部 8章

自己批判が誤った努力だとすると、セルフ・コンパッションは正しい努力であり、恐怖ではなく愛で私たちの意欲を引き出しているということの分かりやすいたとえ話になります。では、この正しい努力によって生み出される意欲を持ち、セルフ・コンパッションを実践し続けていこうとする人はこれからどのように自身と向き合っていけばいいのか、というのが次の話となります。

📌『マインドセット「やればできる」の研究』から見る、人が目標を達成したいと思う2つの理由

キャロル・ドゥエック氏による2016年の本からの引用と共に、セルフ・コンパッションを実践している人は成果を目標とするより、学びを目標にする傾向にあることが示唆されています。ドゥエック氏は人が目標を達成したいと思う主な理由を以下のふたつに分別している。

①「学び」を目標に掲げる
 →学びを目標に掲げる人は、新たなスキルを身に着けたいという思い好奇心からくる内発的な動機をもっているという。そして彼らはたとえ失敗してもそれを学習過程の一部だとみなすことが重要な点である。

②「成果」を目標に掲げる
 →一方で成果を目標に掲げる人は、自尊感情を守りたい自尊感情を高めたいという思いから来る外発的な動機をもっているという。目標を達成したいと思うのは他者に認められてもらいたいからであり、失敗を避けようとする傾向がある。

この研究が明らかにするところによると、長期的には学びを目標にするほうが、成果を目標にするよりも効果的であると結論付けられている。
学びを目標としたほうが長く懸命に努力し続けるのは、自分のしていることを楽しんでいるからであるという。このような人は学びに必要な助けや指導を人に頼むようになるが、正答がまだわからないことで無能に見えることをさほど気にしないことが理由に挙げられている。

📌セルフ・コンパッションを実践している人の目標達成傾向と学習意欲と損なわれない自己効力感

著者のクリスティン・ネフ氏の研究により、セルフ・コンパッションを実践している人は成果を目標とするよりも学びを目標とする傾向にあるという。これは、自己批判から逃れたいという欲求や自分の力量を示したいという欲求からではなく、学んで成長したいという欲求からきているためである。
そして失敗に対しては自己批判をするための材料ではなく、成長の機会だと捉える傾向にあるという。
さらに、失敗によって自己効力感が損なわれる傾向も低いのだと明らかになっているという。たとえ失敗をしたとしても自己批判をすることが少ないため、自分は問題を解決する能力をもっていると信じつづけることができ、意欲が下がらないのだという。

ここまでで第Ⅲ部の中の3つの章の内容のまとめが終了しました。
とりあげていないトピックなども多くあるのでご興味がある方は本を読んでみてください。以下からは格闘ゲームとセルフ・コンパッションについて私の解釈を交えて活かせる部分を拾っていきます。



👊ここまで読んで格闘ゲームに活かせそうなことを考える

実際に読むと研究に基づいた結果などが多々記載されていたり専門用語が多いこともあって用語調べなどもあり、そしてその全ての内容がセルフ・コンパッションと密接に関わっているため、まとめるにしても取捨選択するのも難しく長い説明の記事となってしまいましたが、この第Ⅲ部の内容で格闘ゲームに活かせそうなことや当てはまることなどを解説していきます👩‍🏫

格闘ゲームをする時にセルフ・コンパッションを実践するにあたって注意して見ていきたいものを例を交えていくつかピックアップしていきます。

・ネガティビティ・バイアスと反芻の人間の本能的な部分についての認識
・条件付き自己価値のデメリット
・『マインドセット「やればできる」の研究』から見る、人が目標を達成したいと思う2つの理由

などに注目していきたいと思います。

👊格闘ゲームにおける「ネガティビティ・バイアスと反芻の人間の本能的な部分についての認識」について考える

ネガティビティ・バイアスにより、私たちはポジティブな情報よりも、ネガティブな情報のほうに注意を向けがちです。

格闘ゲームでは多くの試合が勝ち/負けのどちらかになることが圧倒的に多いため、負けたことや負けた原因に目を向けがちになるのは必然的なことと言えます。そしてそのようなネガティブな情報を反芻として繰り返し思い出し何度も自分を責めてしまう性質があることも理解しておきたい部分です。

私は自分のダメなところばかりに目を向けてしまって、「負けた事実」や「確定反撃が返せなかったこと」や「コンボが完走できなかったこと」などのネガティブな部分に目を向けがちです。これは偉かった!というふうに捉えるよりも圧倒的に否定的に捉えることのほうが多く、自己批判のタネにしかなっていないことが多くありました。ですが、幸いなことに私には多少なりとも学んできたセルフ・コンパッションがあるので、そのような否定的な情報は前回の記事の中で共通の人間性を認識するという観点から認識の改善を図ってきました。ネガティビティ・バイアス反芻などで繰り返し自分のダメな所を思い出しては自己批判するというようなものは「人間に共通して見られる人体の仕組みとして認識する」という入り口から改善が見込めます。「ネガティブになりやすい性質が人間にはあるし、どうしてもゲーム性の中で勝ち/負けが明確にあるから仕方ないよね!」と楽観的になるのも手かと思います。実際にセルフ・コンパッションを実践している人は楽観的になる傾向があるという研究結果も本書に乗っていたりします😊

そして、このようなネガティビティ・バイアスや反芻、自己批判を人間の性質として捉える以外にも、私は実践していることがあって、それは「友達と対戦した時に言われたポジティブな意見(褒め)を自分の試合の振り返りの中でも取り入れること」です。私は圧倒的に自分よりも格闘ゲームの経験が長い人と対戦してもらうことが多いのですが、その中で例えばコンボ始動技などを当てられた時などで「ここでそれ置くの偉いよなぁ」とか浮き確定の相手の技をガードした時に発生フレームぴったりの反撃技を返したりできたときは「ちゃんとしてるなぁ」と褒められたりなどします。これは私といつも対戦してくれる友達の人柄が圧倒的に良すぎるのですが、相手のことを褒めるというのを欠かさない友達の中でゲームをする機会が多いです。「褒め」という観点を人から与えてもらえると、これは褒めてもいいことなんだなということを自分以外の視点からも学ぶことができるので、ひとりでランクマッチをしている時にその時のことを思い出せば、自分のプレイにはネガティブなことばかりが溢れてるわけではないのだということも分かります。他者からの意見というのはとても客観的なものなので、自分の視点ばかりでマインドフルに自分の行動を見れていない状況で不意に褒められると、「あ!友達から見るとそう見るんだ!ありがとう!」と素直に受け入れられたりもします。自分のプレイへの褒めを見つけられる目を獲得できれば、たとえ頭の中にネガティブな情報が増えたとしてもポジティブな情報も一定数増えるため、ひとつネガティブな部分が見えたらひとつポジティブな部分を見つけてみる、という方法も有効かと思います。ネガティビティ・バイアスや反芻が人間に共通して見られる部分であるというのはもちろん理解できますが、格闘ゲームをしていると「勝ち/負け」や「できた/できない」が目に見えてしまいやすいため、他者からの褒め視点を取り入れることもマインドフルネスの観点からのセルフ・コンパッションの実践に繋がるかと思います。
このように、共通の人間性の観点からもマインドフルネスの観点からも、視覚的に見えてきてしまう問題に対して思いやりが必要な問題(自己批判)に直面してしまった時に活用できる可能性があります。

👊格闘ゲームにおける「条件つきの自己価値」を考える

「自己価値の随伴性」、本書では「条件つきの自尊感情」とは、出来・不出来、可・不可などに左右される自尊感情のことを示し、自分や他人からの評価によって左右され、依存しやすいもので、なおかつドラッグやアルコールのように耐性ができて自尊感情から生まれる快感に鈍麻になっていってしまうために賞賛や勝利の量を増やす必要がある、と説明がありました。
これを格闘ゲームに当てはめていくとどのような例となるでしょうか?
ある人の自尊感情が生まれる要因が、試合に勝ち続けて段位やランクが上がっていくと気分が良い、というものだとします。格闘ゲームをしているとどんな人でも何かしらの勝利や段位やランクが上がるという場面に遭遇するかと思います。そうしてずっと勝ち続けられれば御の字なのでしょうが、格闘ゲームには必ず負けが発生しますし、学習していかなくてはどうしても勝てない局面や相手というのは出てきます。そうした時に、「勝ち続けている自分」というものからしか自尊感情を手に入れられないとしたら、その人の自尊感情は落ちていくことになるでしょう。人によってはたかがゲームと割り切ったり自分もまだまだだなと感じて練習に力を入れたりして方向転換できる人もいるかもしれませんが、このような条件つきの自尊感情に依存している場合は確実にダメージが入ってしまうことは明白です。後に出てくる学びを目標とするか成果を目標とするかとも関係がある話になりますが、この例の場合は条件つきの自尊感情の条件を「勝ち続けている自分」と設定して自尊感情が生まれてしまっているため、成果目標となっています。自分や他者の評価によって左右されるものに自尊感情の根っこをもってきてしまうと、それが負けや失敗という体験に触れた時に立ち止まってしまう要因になってしまうと言えるでしょう。

👊格闘ゲームにおける「学びを目標」とするか「成果を目標」とするかについて考える

『マインドセット「やれば」できるの研究』の部分で紹介されていた、人が目標を達成したいと思う主な理由を格闘ゲームに当てはめて考えていきます。その目標達成したいと思う主な理由の2つとは「学び」と「成果」に分けられるという話で、セルフ・コンパッションを実践している人は成果よりも学びを目標としている人が多い傾向にあり、マインドセットの研究においては、長期的には学びを目標にするほうが、成果を目標にするよりも効果的であることが示唆されていました。このことから、格闘ゲームにおいて「学び」と「成果」がどのように違うのかということを当てはめて考えていき、私が実際に考え方を変えていった部分についても解説していきます。順番は前後しますが、セルフ・コンパッションを実践するにあたって目標として設定されにくいほうの成果を目標とする場合から当てはめて考えていきます。

〜格闘ゲームで「成果」を目標とする場合〜
成果を目標に掲げる人は、自尊感情を守りたい、自尊感情を高めたいという思いから来る外発的な動機をもっていて、目標を達成したいと思うのは他者に認められてもらいたいからであり、失敗を避けようとする傾向がある、と記事の中で紹介しました。
格闘ゲームでの成果とは、紛れもなく「勝利」であると言えるでしょう。試合に勝つこと、昇格戦で勝つこと、イベントや大会で優勝すること、プロライセンスを獲得すること…、などなど、勝利することで得ることができるものが格闘ゲームにおいてはとても多いです。勝つことを成果目標とするとついてまわる失敗とは、当然「負け」となります。
私は経験があるのですが、ある一定の段位まで自分が上がった時に次回ランクマに潜るのがとにかく嫌になることがたくさんありました。勝って昇格こそすればいいですが、失敗して降格してしまうと泣いて再起不能になるくらいに酷い自己批判が始まってしまうと分かっていたため、ゲームはしたいけど失敗が嫌だからランクマには行けない、ということが昇格した後は特によく起こりました。まさに説明文の通り、自尊感情を守りたいがために失敗を避けようとする、というのが成果目標の特徴です。

〜格闘ゲームで「学び」を目標とする場合〜
学びを目標に掲げる人は、新たなスキルを身に着けたいという思いと好奇心からくる内発的な動機をもっていて、たとえ失敗してもそれを学習過程の一部だとみなすことが重要な点で、更に長期的には学びを目標にするほうが、成果を目標にするよりも効果的であると説明がありました。
この観点から格闘ゲームの学びについて考えると、「勝ち/負けにこだわらず、試合の全てを学びの機会と捉えること」が重要だと私は解釈しています。
私はセルフ・コンパッションを読んでいた頃に、鉄拳8のある方の配信を何気なく見ていたのですが、その中でこんなひとことがその方の口から飛び出したのです。『大会が本番でランクマは練習』と。スポンサードを受けたプロゲーマーで国内外問わず大会に出て優勝した経験がある方なので、そのひとことが出てくるのは至極当然な状況だったのですが、その方が何気なく言ったそのひとことが今でも私の頭に強く残っています。私からしたらランクマが本番で毎回ドキドキして大変なことをしているという認識で、日々緊張しやすくて手も心も震える中でなんとかランクマができるように気持ちを持っていって、更には負けや失敗で襲いかかってくる激しい自己批判にも耐えて…などということを続けていた中でのひとことだったので、聞いた時はまさに青天の霹靂でした。大会に出るわけでもないので私の中での試合の本番ってなんだろう?と思うことはありますが、ランクマは練習、という言葉を胸に、そしてセルフ・コンパッションを取り組むことで出会ったマインドセットの考え方の「学び」を目標とすることに少しずつですが切り替え始めました。勝っても負けても試合が終わったら練習画面にしたりリプレイを見に行ったりする習慣をつけたのも、この「学び」を目標とするという観点から言えば正しいことだと思います。

格闘ゲームをしていると当然次の段位やランクに行きたいなと思うことは多々ありますが、これは成果目標となってしまったり、条件つきの自尊感情とも関わってくる内容のため、次の段位に行きたい、という目先の勝利(成果)の目標ではなく、この段位帯のランクマで練習すれば(学び)いずれは次の段位帯に行ってるかもしれないな、というようなある種の願望のような、ざっくりとした目標はあるけれど学びを中心とした考え方にシフトしたため、プレッシャーが少なくなって失敗しても大丈夫と思えるようになることが増えてきました。ランクマだけでなくクイックマッチやグループマッチといった段位ポイントの増減がない場所での対戦機会を意識的に増やしたことも相まって、より学びを目標とすることができたかと思います。本書の中で、『失敗は優れた教師である』という一文が添えられている箇所があったので、その助けもあって失敗は学びの絶好の機会と捉えることもできるようになってきたと思います。
成果を目標とすると、成果が出ない時に息切れをしてしまうことが多く、更に失敗を恐れて立ち往生をしたり躓きがちだったという体験で、これまで充分すぎるくらい辛酸を味わってきたのでこれからはセルフ・コンパッションを実践して成果目標ではなく学び目標の考え方を意識して取り組んでいきたいです💪✨


~Part②終えて~
格闘ゲームとセルフ・コンパッションは次回で最後となります。と言っても次回の第Ⅳ部~第Ⅴ部の内容の、特にIV部のほうはほぼ格闘ゲームとは関連性が低い内容(他者への思いやりや育児や夫婦関係などに活かされるセルフ・コンパッションについて)のため、内容について箇条書きなどで取り上げるだけに留めることになるかと思います。ライフステージの変化(育児や夫婦関係)で必要なことがあればまた読み直してみるのも手となるでしょう🍼👶👫

そういうわけでセルフ・コンパッションは次回で終わります✍️
ひとつのことをしているとひとつのことしか出来ないタイプの人間なので本を要約する作業でほとんど鉄拳をできていないのですが、そろそろ再開したいですね🌹
仲良くして頂いてる友達とのプレマや、リー&アリサ交流会などがあって、サウジの大会を夜なべして朝まで観たりと、8月はかなり充実してました。力こそパワー💪💪💪
9月からは秋なので平八のアプデの季節や冬のキャラ発表の季節になるのでウキウキしてきますね🥳 


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