活きた空間を生きる by. 木森 林林
『手放すこと』
それは失うわけではなく
ただ手放すということ
これは人生において
一概に容易にできるモノではない
だがあらゆるモノを手放し身軽になることで
多くの恩恵を得られることは分かっている
今ワタシは
これまでの取捨選択の最終フェーズと感じている
生まれもった
直感と本能のまま
交差する先を見据えるワタシの特性は
抱えていたモノを少しづつ手放すことで
新たな光の先へ進んでいることは明白だ
- 掃除と大掃除 -
世の中では聞き馴れた音楽が鳴り
多くのイルミネーションが光る。
多くの男女が行き交う街から離れ、
ワタシは秘境で過ごす事にした。
共に過ごす相手は
お寺の坊主。いや、和尚さん。
田舎の山奥にあるお寺で、
年末の時期もあり “大掃除” を手伝う事になった。
掃除や整理をするということは
それまで積もったあらゆるモノを選び、綺麗に整え
また新たな余白を作り迎え入れるための行動でもある。
中でも “大掃除” は
定期的に維持するためなのか、
節目の風習や習わしの様に行うのかで視点は異なる。
廃棄するモノが生まれると同時に
大事にすべきモノがナニカを自問自答する時間でもある。
一つの生き方で積もったモノを片す場合
その先もその生き方を維持するための掃除は、
習慣の様に必要な行動になるが
ワタシの今は積もった場所の大掃除を終え
整理整頓をしながら新たな土台の余白をいかに広げるか。
この "作業" の段階であり、
つまりは習慣としての掃除でありながら、
さらなる整理整頓を優先に今後を見据えている。
どこまでもこのまま自然体でいるために。
- 整えるための剪定 -
そんな今日は “剪定” からだ。
剪定とは生い茂った野山の木や
長く伸びてアンバランスな庭木を整え、
人間的には視野が澄み、
新たな機会や出会いを歓迎する習慣でもあり、
草木としては
新芽や絡み合う他種の草木との偏りが無いよう剪定を行う。
これは太陽光が遮られることなく
草木の成長を促す役目もある。
だが場所や用途に合わせて
人間優位なカタチで “剪定” を行うことも事実。
そんなコトを考えながら
周りには人の手が届かない範囲も存在し、
手入れがされていない姿とワタシの行動は
『自然の姿と密接な距離感でありながら
どこか切り離された不条理な感覚』を得たのだ。
- 活きた空間を生きる -
だが自然の掟や循環には
「不自然という名のモノや事象」は孤立し、
ここでの “孤立” は循環するサイクルに対する孤立。
つまり、草木の剪定や枯れ葉の掃除も、
全ては土に帰る状態にあり、特別なシステムを不要とする。
その本来の自然のサイクルから逸脱しなければ、
どの視点であれその循環を前提に行う行動に意義はある。
決して不条理なわけではない。
その不条理と考える感覚は
人間が生きる社会と植物が生きる世界の比較であり、
もし異なる世界同士を比較し
そこで起きる摩擦を調和させるならば、
物質的な事象として目には見えない
「人間が感じる活力」の根源的なモノや、
サイクルの流れから新たに生まれる未来の変化に依存する。
それは『活気』という言葉がある様に
活きた気が循環している “場” には
様々な意志や気の流れが複雑に絡み合い
前述に記した “剪定” も、
その場に人が手を加えることで『活きた空間』へと昇華し、新たな循環の起源を生むことは確かである。
動植物と共存する人間もその循環の中の役目は担っており、偏った思想や行動をしてしまう習性もあるが
人と植物、人と動物といった調和の役割を意図して行動し、
活きた場づくり、生きた生命をつなげる働きは
他種族とは大きく異なるカタチではあるが
自らの意思でそれらの恩恵を『与えること』は可能である。
- さいごに -
ここまで見てくださりありがとうございます。
この記事の執筆中は
“聖なる日” とされる日の前後で、
ワタシは少し特別な環境に身を置き、新たな経験をさせていただきました。
一般的な掃除と大掃除の違いや価値観
そして社会生活での視点か
自然界のサイクルを軸に見る視点で
新たな感覚を得ました。
実生活の中で当たり前のように過ごす流れやサイクルは、
環境や境遇が異なったとしても
大きな輪が回り続けられているかどうかであり、
この動きは全て同じと考えます。
人間特有の考えや動きは、
本来はそれらの大きな流れに身を任せている事を忘れがちな世の中で過ごし、特異な場合もあります。
「全ては必然」という言葉もあるように
新たな創造もその循環に沿ったカタチであれば
自然で必然なカタチで産まれるものかもしません。
木森 林林(KOMORI RINRIN)