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本音の音量 by. 木森 林林

目の前に "心" と書かれた箱がある
密閉された箱で外から容易に開けることができない

そこには張り紙と注意書きがあり
「中には "本心" という玉が入っている」とある。

その玉は大きさ、カタチは様々のようで
生命を宿しているらしい。

耳を澄ますと
閉ざされた箱の中で外に向かって "音" が鳴っている。

この箱をワタシは一体どうすべきか
開けるべきか
誰かに知らせるべきか


ワタシはこの一連の状態が
"本音と建前" と考える。

photo : The World (Rinrin Komori)


- 本心と本音の違い -


まず "本心" に対するワタシの解釈は
前回の記事に記した通り(下記参照)であり、

本心と “本音” の違いは、
冒頭で記した様にワタシは考える。


人の "本心" は、相手は勿論のこと
自分でさえ『ナニカ』で見えにくくなっている。

ただ「本音」はどうだろうか。

無意識に出る言葉や表情、感情に身を委ねる事で
外側に出る "音" こそが「本音」であり、

「本音が漏れる」という表現がある通り
自然に出てくるモノ、自然に鳴るモノこそが
"本音"なのかもしれない。


- 本音の “音量” はコントロールできるのか -


前述の通り、
仮に人間が交わす 「本音」 が “音” だとしよう。

その音は心地の良い鳥のさえずりの様な響きなのか
緊急アラームの様な不快な音なのか。

いずれにせよ、
本音に「音量」という概念が存在するならば
たとえ鳥のさえずりや自然音ですら
音量次第で不快に感じる事もあるのだ。

では本質的に音色の問題ではなく
人間が交わす "本音" という音は、
「音の鳴らす方向」に合わせて調整する必要がある。

そのためには
音が鳴る母体である「本心」を自ら理解し体現し、
その上で本音を発するならば、コントロールは可能なのではないか。

そこでようやく人と人の中でその音が共鳴し、反響し、
不快になる事なく調和する働きが生じると考える。


- 本心と本音の矛盾 -


もし冒頭で記した様な仕組みが本心と本音であり、
そして建前という形式なのであれば、

人同士が交わす本心や本音の実態は
実は同じの様で全く異なる可能性を秘めている。

“本心” とは生まれ持った不動のモノ
“本音” とは状況に合わせた変動するモノ

といったところか。

だが人間社会での実生活において
これらが混同され、誤解や混乱を招くことも少なくない。

本心の実態を明かすコトが容易ではないのであれば、
「本音」をいかに素直に自然体で鳴らすコトができるか。

そのためには前述で記した "音量" すらも
相手と共鳴するためにコントロールを自らできる
心= “玉” が必要になる。

そしてその玉から鳴る "音" を受け取った相手もまた、
反響するカタチで相互に鳴り響く関係になれば

互いに誤解や不快になることもなく
冒頭に記した「心の箱」も痛みや傷もつかず綺麗なカタチで守られるのではないか。


- 現代社会の本心 -


昨今のインターネット社会で生きる人の "本心" は
とても見えにくく、

本心が内包されている外側の『箱』すらも
実態として直視する機会は稀だ。

ワタシは現代社会を俯瞰で見る上で、
全ての人がそうとは思わないが一つの結論に行き着いた。

三次元的な実体のある "体感できる世界" の中で
皆が「原体験として学び、経験したい」というコトが本心なのではないか。

これは一概に全ての事象に対して言えることではないが、

生まれた時からインターネットが当たり前に存在し、
SNSから多くの情報が散見できる環境にあり、
さらにコロナ禍なども経験した今の世界で生きる人は、

年齢や性別、国籍すらも超えて
各々が感じ取り、得ている感覚。

こうした環境下で個々の本心から鳴る本音としての音は、
まるで壮大な不協和音として鳴り響いている様にワタシは感じている。

大きなスケールでの表現になってしまったが、

そんなワタシも前述で述べた時代を生き、
同じ経験をしている一人の人間に過ぎない。


- さいごに -


ここまで見てくださりありがとうございます。

今回の記事は、
前回の『本心』から連なるカタチで
ワタシが実体験として感じとり、
考える一つの見解に過ぎません。

noteでの執筆はまだ始めて間もないですが、
AIは使用せず全てワタシの感覚とありのままです。

昨今の時代感やトレンド、時間軸の変化は、
数年前から加速度的に大きな変化が起きている様に感じています。

あらゆる業界や枠組みの価値観の中で
「時代は繰り返す」という概念も存在しますが、

その繰り返し消費していく感覚すらも
これまでの次元では無い感覚です。

ただ、それら全ては一人一人の人間が、
あらゆる事象に対して取捨選択を繰り返し、
前進する上で起きている現象に過ぎない。

日々の時間や情景に対して「アタリマエ」ではなく、

本来アルべきものはナニカ。
イビツで本来無いはずのモノすらも紛れ込んでいる。

といった程度にモノゴトを捉え、

目の前の事象に対していかに感謝し、
いかに有難く考えられるかが今後とても重要な価値観になってくる様にワタシは考えます。

photo : 瑠璃立羽 (Rinrin Komori)


木森 林林(RINRIN KOMORI)

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