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∞(無限)の束の間 by. 木森 林林

『束の間』

“喜びも束の間”
“束の間も喜び”

この二種類の違いはナニカ

喜びが終わるのか
喜びを感じるのか

喜びが先か
喜びが後か

見方や解釈も大きく二種類存在する

「束」は短い幅で「間」は時間を指し
総して“時間” の表現で用いられるが

ワタシは三種類目の新たな解釈と出会った

photo : Polychroma (Rinrin Komori)


- 束の間の出会い -


“束の間の出会い” とは
ワタシが一時的にナニカと出会う話をしたいわけではない。

まず現在の執筆活動の手順について少し触れておくが、

大枠としてコンセプトに沿うタイトルとなり得る「単語」の選択肢が複数あり、その日の気分でワタシは執筆している。

その過程で『束の間』という言葉と出会い、
“音” と“活字” として触れた時に

意味としては短い時間や刹那的な表現のはずが
ワタシには “無限” とも感じとれたのだ。

冒頭で記した二種類の違いについて、

喜びが先か
喜びが後か

これは活字としての逆さ言葉の様に、
「も」を起点に "喜び" と "束の間" という言葉を
先に書くのか・後に書くのかの違いを述べている。

ただその前後の違いで、
あまりにも対極な解釈ができてしまう。

「喜びもわずかな間に過ぎ去ってしまう」
という悲観的な意味合いと、
「わずかな間の時間でも喜びを感じている」
という楽観的な意味合いだ。

一般的な表現として
喜ばしい時期から一転する接続詞のようなカタチで
「喜びも束の間」という表現を見聞きすることはあるが、

あらゆる展開における “起・承・転・結”の中で
主に『承』から『転』へ差し掛かる際の表現なのだろう。

そして『転』から『結』へ結ばれる時に、
「束の間も喜び」として感じられることができるわけだが、

束の間の喜びを感じ続けるコトや、
"束の間すら喜びと感じられるコト" から
ナゼ始まらないのか。

本来はそうあるべきはずが、
ワタシ自身も従順にこの過程を経て今の視点に至る。

ただ昨今の情報が溢れる世の中で、
『悟り世代』や『Z世代』とも称される現世の多くは

これらの感覚が早い段階から情報という現代の恩恵や叡智として既に認知し、受け取っているようにも感じたのだ。


- ∞(無限)の束の間 -


これまでの時代において、

多くの失敗や挑戦をし、
本来は長い時間をかけて「体現して得られるモノ」として学び成長した世代と、

生まれながらにしてあらゆる情報や満たされ尽くした環境の中で、体現するための選択肢に価値や真価を感じ取りにくい世代が入り乱れているとワタシは考える。

さらに今の現代は
人間離れした情報処理能力と共にしながら、
同じ人間のはずが過剰に生産性や回転率を求められる環境になってしまっているわけだ。

ではこの現代で今必要な価値観や視点はナニカ。

ワタシは偶然出会った『束の間』という言葉だが、
「束の間も喜べる価値観」が必要なのではないかと考える。

つまり考え方として、
前述で記した展開としての “起・承・転・結” が
完全に反転したカタチで、

結ばれたモノを一度解き、
転がる過程であらゆる叡智を受け取り、また起き上がる。

この視点は長きに渡り「体現して得られるモノ」として学び成長した世代がまず理解すべきかもしれない。

ただ現代社会における各々の環境や、既に多くを背負い生きていれば頭で理解していたとしても中々それが行動や言動に活かすことができない場合もある。

その状況を未だ体現には至らない世代が、

『起き上がるための動き』として共存するための働きかけが戦わなくできれば、自然な回転やサイクルが生まれるように思う。

これは『∞』の記号や概念にも通づるのではないか。

この視点はさらに掘り下げ長編記事にすることもできるが、ワタシからの一つの考え方として潤滑油程度に受け取っていただきたい。


- さいごに -


ここまで見てくださりありがとうございます。

今回の記事は、
『束の間』と表現される “ひと時の時間” が、
各々が一番自然体でいられる表現のように感じ、

この “自然体な中にいるワタシ” はおそらく多くの人がこの上ない幸せを感じることができると思います。

「この時間が永遠に続けば」と思う反面、

その時間をよりありがたく感謝すべき感覚として得られるには『対極の環境があってこそ体現できるモノ』でもあります。

ただこの対極な構図の中で、
互いによりよい時間や関係性を維持するには

今の情報社会やあらゆるものが満たされ尽くした現代で、
これまでの価値観と新たな視点が混ざり合った視点を持つ必要があるのかもしれません。

その役割として過去には宗教的な価値観や団体が台頭した歴史もあると思いますが、

ナニカに属さずともまず各々がこれまでの生き方やこれからの変化を考える上で見つめることできれば、

『体現しているモノと認知しているモノの戦い(争い)』から生まれる直接的な被害や深い傷を負うことも少しは緩和されていくのではないかと考えます。

photo : 束の間 (Rinrin Komori)


木森 林林(RINRIN KOMORI)

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