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千という名の線 by. 木森 林林

『創成記』

「創世記」や「創生記」など
多くの世界で様々な記録が存在する

今のワタシも自ら創造する過程を生き
人間社会では “想世期” を生きている

その世界では初めに "点" と "知" が創造された。

それはあらゆる点を見る事で
それらの事象を知り
“知” が混沌としている形相に変わりはない

耳をすませば
「心あれ」と聞こえた
これまで生きてきた感情や念が
目の前で心を通して二分される

内側を魂と呼び
外側を霊と呼んだ
それらが交差する瞬間も存在する

ワタシに「心あれ」と言ったナニカは
内側の魂なのか外側の霊なのかは分からない

ただ混沌としている “知” の中で “点” を繋げるには
魂と霊との『内側と外側』が一体になる必要がある様に
ワタシは感じた

それらを動かし導く存在
その中心に「ワタシ」が存在している様に思う

photo : 源泉 (Rinrin Komori)


- 想世期を生きるワタシ -


まず、最初に
前置きの一説はオマージュに過ぎず

冒頭内での「ワタシ」という目線は、
筆者目線であり読者視点でもある。

"想世期" というのは
字の如く「想う世の中」という意味合いの造語であり、

そこに行き着くまでには多くを知り
点を見る機会が必要になる。

そんなワタシもまだまだ無知であり
多くの点を “千” の星として眺めるために

そんな旅が始まったばかり。

“知” が混沌としているのは
実社会におけるあらゆる世界で知識と情報が多く散見され、ワタシが真に求める『点』が見えにくくなっている。

スピリチュアルで思想的な一文に見えるが
今を生きるワタシが人間社会の現実世界を言語化したまでだ。

『心・魂・霊』
これらの概念は生まれた時から存在するが
その実体を万人が納得するカタチで可視化されたことは未だにない。

ただその存在があることは
皆が無意識の中で感じとっており、

実体として可視化されていない事こそに
ワタシは意味があるように感じている。


- 千という名の線 -


多くの知識や情報が錯綜する中で、
自分が求める『点』を探し出すには困難である。

確かに「探し出す・見つけ出す」という行為や行動は、
自分の世界を構築し生きる上で必要な意志。

ただ産まれて1年であれ10年、20年、30年とその期間が世間的には短くとも長くとも、
個々に凝縮された微細な点は多く存在する。

それらを紡ぎ繋ぎ合わせる中で
ナニカに導かれる様に求めていた "点" とされる事象が
時には『面』として現れることもある。

そしてまたその面からも “点” を捉え
混沌とした “知” と一体になりながらワタシの世界の “点” を増やしていく。

そうした過程や成り立ち、
自然の流れや運びで描かれるモノが
人間一人一人の個々の世界のようにも感じている。

それらの "点" を線として繋げるためには
無数の点が必要であり、

「線を繋げること」が目的ではなく
本来は『千ある点』を探しているのかもしれない。

ではその “千ある点が全て線に繋がった時”
ワタシは何を見るのか。その先に何があるのか。

凡その検討がついたとしても、
その先にあるモノはその人にしか見えないのだろう。


- 千の集合体 -


点と点、線と線を繋げる動きや方法も
正解やパターンはなく様々である。

格子状に繋げることで生まれるナニカ
螺旋状に回転することで生まれるナニカ
円形に繋げ限りなく真円を求めることもできる。

これら全ては一見すると図形や数学的な解釈になるが
個の生き方や人生にも通づるのではないか。

あらゆる学者がこうした真理を追い求め、
多くの数式を用いて様々な実験がされてきた現代社会。

ただそうした専門分野の方々が理論的に証明する以前から
一人一人が目に見えるカタチで体感し、

目に見えないナニカと常に共存して生きていることも事実。

それらを言語化し数式化することで、
新たな可能性が生まれ未曾有の世界に行くことも
将来的には可能かもしれない。

ただそうした先人達の功績は
その個人の軌跡の中に存在した “点” を
その時代の混沌の “知” の中から選び、探し、見つけ
千ある点が繋がったモノであることを忘れてはならない。

そうした先人の功績から得られた恩恵は多くある中で、
ワタシ達一人一人もまた今の世界の中から自らの意志であらゆる判断を迫られる。

『内側の魂』と『外側の霊』
現実世界やワタシが生きる実社会から離れた先人を「霊」とするならば、

その先人の意志や軌跡を理解し、
個人の内側の魂が求めるモノと一体となることで

“知” と “点” が繋がり、
その線が『千の集合体』へと変容を遂げるのかもしれない。


- さいごに -


ここまで見てくださりありがとうございます。

過去の10代の頃に長い時間小説や本に触れる機会があり、

その後は期間を空け歴史や哲学本などに関心を覚え
その中の1冊にダンテの神曲がありました。

20代道半ばのワタシにはとても難解であり、
30代になってからようやく節々に理解できる部分も出てきたように感じます。

東洋の歴史、西洋の歴史、世界の神話、
日本史や多くの事象に対する起源など、
過去と現在を広い視野で見るには膨大な時間と情報が必要になります。

それら全てが今はあらゆる手段で取捨選択が可能な中で
自分自身が自然体で導かれるモノがナニカ。

そしてその「モノ=点」とするならば、
必ず自分との因果関係は存在しているとワタシは考えます。

仮にそのモノに対して違和感や自分の意思とは異なる感触を得たとしても、否定や肯定もせずに受け入れること。

2024年を振り返りながら
改めてそうした一人一人の姿勢がワタシ自身も含め、
今後の世の中を想い、自ら創造する上で必要ではないかと感じました。

photo : Untitled (Rinrin Komori)


木森 林林(RINRIN KOMORI)

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