身近なモノの価値 by. 木森 林林
『金と銀』
それは硬貨や順位、経済的価値としても
上下の互換性で比較される
そうした概念は広く一般的だが
視点を変えると
銀も磨けば美しい光沢を帯び
物質としても金に勝る強度がある
ではナゼ “金” が上位に位置付くのか
それは物質としての希少性や
多くの歴史から紐解けるのだろう
ただそれは "後転的な価値" に過ぎず
全てが比較から生まれた概念であり
『身近なモノ』としての優位性では
本来優劣はつかないはずだ
- 鉱物としての金と銀 -
目の前に金と銀の延棒があれば
アナタはどちらを手にするだろうか。
これは『金の斧と銀の斧』のハナシではない。
受け取る立場の価値観が
"その瞬間にどちらが優位に働くか"
それはその個人の求める価値観に依存する。
経済的価値としての金なのか。
物質的価値としての銀なのか。
たしかに “金” そのものの特性として
その他の物質と容易に結合しないことや、
金の粒子は肉眼で確認できないほど小さく
鉱物として見つけることは容易では無いことは
相応の価値があるかもしれない。
だが金と銀の延棒も
どちらも元は同じ「鉱物」だ。
そう考えるとどちらも経済的、物質的それぞれに
用途次第では同等の価値があるとワタシは考える。
- 身近なモノの価値 -
古くから継承される錬金術としても
『金だけを取り出す方法』、
『金と銀のみを取り出す方法』などが現代でも受け継がれ、
それらを分離させる労力
鉱石の中にある成分
鉱脈から採れるモノ
山々の火山活動…
遡れば『地球の源』まで行き着き、
元を辿れば経済的な “お金” と紐づいた価値や尺度で計ることは本来であれば困難である。
ただ人間に備わった内面的価値観から、
モノゴトに優劣を求めることが “一つの生き方” として社会システムに組み込まれている現状も事実として存在する。
そのような社会システムと対峙する生き方も、
同じ枠組みの中で起きている事象であり
その行動すらも自ら優劣をつけようとしているコトに対して盲目的になってしまうのが人間の性(さが)でもある。
これらは現実のハナシを述べているに過ぎず、
ナニカの「主義」や「思想」を提唱したいわけでは無い。
そう考えると、
“金と銀” といったモノの価値が重宝され受け継がれているように、古来からの伝承として受け継がれる『教え』にも
“身近に存在するモノゴト” に対して
あらゆる技術や視点の気づきとなる「多大な叡智」が詰まっていることは明白だ。
- 優位性の順位 -
現代社会には多くの競争による優位性が存在し、
それらの仕組みはとても画期的だ。
一位が金
二位が銀
三位が銅
この優劣の中で一位には "金=お金" や
"相応のモノ" という対価が得られる。
その羅列は枠組みのシステムや形式により様々である。
だがこれらは本来は流動的ではないのか。
例を挙げるならば
夏の暑い時期に羊毛、綿、麻に個人が求める優劣をつけるならばどういった優先順位になるのか。
大凡の場合、冬の寒い時期にはそれらは逆転するだろう。
そうした優劣や優位性も四季の移り変わりのように、
流動的であればある程に広くバランスの取れたサイクルが生まれるのではないか。
今ワタシが述べているハナシは、
エンターテイメントや娯楽という視点で見れば
『当たり前に皆が理解しているコト』かもしれない。
だが細かい視点で見れば、
今の現代社会ではそうした優位性や競争に無意識の内に参加し、
大衆相手に行う大会の様なモノでなくとも
各々が "ナニカを求める限り" これらは個人間の中で起きているハナシなのではないか。
それらの根源には多くが
「今、何が必要で何が不必要か」という視点や考え方に起因している。
ワタシが考えるのは
「今、何があり、何を活かすのか」
こうした自然な移ろいを
あらゆるモノゴトが混同し盲目的に日々過ごしてしまう人間の本質的な様相に自ら違和感を感じている。
- さいごに -
ここまで見て下さりありがとうございます。
今回は『金と銀』という現代社会における比較対照を一例に、無意識の内に陥ってしまう人間の性(さが)について記しました。
後半は思想的な一面もありますが、
娯楽としての優位性や順位に否定的な意見を述べたいわけではなく、
ワタシ自身も望んでいなくとも
これまで多くの挑戦や争いに揉まれる中で、
そこで起きる経験は
内面的な影響や将来的な希望などに対して、
勝者として敗者としても良くも悪くも後に大きく影響を及ぼすことは身をもって体感してきました。
これら全てが "対するモノ" と相互に理解ある前提の中で起きた優劣や順位であれば、
遺恨や確執なども生まれず自然なサイクルとして消化されていきます。
ただそれらは
予期せぬカタチで時代を超えオモテに現れる事もあるのが人間であり、生まれもった本能的な部分なのかもしれません。
ワタシは "SHAPES OF LIFE" という活動の中で、
『本能』という感覚をコンセプトに取り入れています。
"本能" は呼吸の様に無意識的な感覚と解釈しており、
その他に掲げる『直感』、『交差』という点に関しても、
その全てが "俯瞰で見るコト" が限りなく困難です。
ただもしそれらが意図して起きている事象として、
全てが「自らの軌跡」と俯瞰で捉える事が出来た時
「人はナニを思うのか」
"その先" はまだ未知の領域であり、
ワタシにはとても関心がある領域です。
木森 林林(RINRIN KOMORI)