短編小説「あるとき月が目にした話によると」第六夜
第五夜↓
第六夜
「その少年には名前がないのです」
これまた興味深い、とわたしが窓を開けますと、月が続きを話してくれました。
「背丈の足りない彼は、足をぶらぶらと揺らしながら、腐りかけたベンチに腰掛けていました。そうして道行く人を眺めていますと、親切そうなおじ様やおば様が、声をかけてゆくのです。『ぼうや、一人でどうしたのかね?』
『こんなところで一人でいては、危ないよ』
『ところでぼうや、名前はなんというのかい?』
こんな具合にです。すると少年はこう答えます。
『名前?そんなものはないよ』
おじ様、おば様はあっと驚く顔をしたかと思うと、少年の手を握りながらこう言うのです。
『まあ、なんということでしょう!名前がないなんて、可哀想なぼうや!』
『わたしが名前をつけてあげましょう』
そうしておじ様やおば様は満足気に笑いかけます。
『これでぼうや、お前も可愛がってもらえるさ』」
ふと月のほうへ顔を向けますと、どうにも納得がいかないといった表情です。
「人間だけですよ、なんでもかんでも名前をつけて可愛がろうとするのは。私からすれば隣にいるこの星も、あの星も、『ねえ、君』と声をかければ済む話なのです。私たちの間に名前なんてありません。人間が私のことを“月”と名付けましたから、私は月らしいですが、それもこの空の世界では必要のないものです」
たしかに我々の世界では、あれにもこれにも名前があります。そして番号で呼ぶのはなんだかなあというきらいもあります。でももし、これらすべてに名前がなければ、ただ空に煌めく無数の点であるということですから、それはそれで儚く美しいと感じてしまうのは、薄情者でしょうか。
もうそこに月の姿はありませんでした。本当に自由気ままに生きているのでしょう。たまにはこちらの問いにも答えてもらいたいものです。
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