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超短編集-幻想-「白銀の扉」
日常が淡々と続いていく。見慣れた景色、繰り返される日々。けれど、時折、ある瞬間すべてが薄膜のように感じることがある。いま立っているこの地、この場所が、溶けて消えてしまうのではないかという感覚。この世界が確かに現実であり、そこに私は生きているのだという確信が欲しかった。それでも悪戯に時は流れ、歩みを止めることは許されない。だから私は、夜が来ればまだ見ぬ明日のために、眠る。
その夜、扉は開かれた。
頬を切るような冷たい風が吹き抜ける。しかし、音はない。静寂の中、消えゆく雪がはらはらと舞い落ちるかすかな音だけが響いていた。白銀の森。凍てつく湖。雲間からこぼれる月明かりが淡く反射し、仄かに辺りを照らす。古びた石畳の道の両脇には、真っ白な雪を纏った針葉樹が聳え立ち、枝の間から青白い光が漏れていた。
足を踏み出すと、雪がきしりと鳴く。吐く息は白く、脆く、凍てついた夜の空気が肺を満たす。それでもどこか懐かしい香りが鼻をかすめ、胸の奥を温かく満たしていった。
ふと、静かに雪が崩れる音がした。トットットッと小さな足音が雪を踏みしめる。前方、あの白銀の森に気配を覚えながらそっと視線を向けると、一頭の白い牡鹿が木々の間に立っていた。大きな角を持ち、顔をこちらにもたげている。月光を受けて淡く光る深い琥珀色の瞳が、はるか昔からすべてを見続けてきたかのように、静かに、深く、穏やかに、こちらを見つめていた。
──待っていたよ、この扉を開ける者が現れるのを。
牡鹿はゆっくりと歩み寄ると、穏やかに頭を垂れ、低く響く声で言った。たしかに、牡鹿がそう言ったのだ。
時は流れを止め、世界には牡鹿と私だけが漂っていた。湖の反対側で牡鹿が穏やかに水を飲んでいる。いまや風も吹かず、雪のふれる音もなく、この静謐な空気が辺りを支配する。そうして、私は一足と動くことなく、ただじっと、じっと、そこにいた。視線を揺らすこともなく、息をするのも忘れていた。
森の奥で何かが動いた気配がした。影が揺れ、遠くから鐘の音が聞こえる。風が枝を揺らし、氷のように冷たい空気の中に、かすかな花の甘い香りが混じった。視界が歪む。焼けるように体が熱い。全身の力が抜けてゆく──牡鹿は変わらずそこにいた。月光を全身に浴びて、青白く、銀色に、煌々と夜闇に輝いていた。
気づけば、足元はしっかりと地面の感触を取り戻し、冷たい風も、白銀のもりも、牡鹿も、どこにもない。代わりに広がるのは、見慣れた町の夕暮れの景色。空がわずかに明るさを保っている。
空の真ん中に、たしかにそれは浮かんでいた。淡く光る輪郭を持ち、静かにこちらを見下ろしている。開いているのか、それとも閉じているのか、何もわからなかった。ただ、そこにあることだけがはっきりとわかる。扉の向こうに広がるのは、あれは、きっと、白銀の森。
心臓が静かに鼓動を打つ。太陽が沈み、街が夜に包まれると同時に、扉も雲間に消えていった。
辺りは暗闇に溶けた。けれどもう、牡鹿は現れない。頬をかすめた冷たさの記憶と温かな香りだけが、たしかなものとして残った。
今日も夜はやって来る。私はまだ見ぬ明日のために眠る。手のひらには、白銀の森の甘い香りを残す、小さな花びらがあった。
超短編集
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