長編小説「ブルー・ブライニクルの回想録」 第二章 第四話
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第二章 第四話
僕は努めて普通を振る舞おうとした。いつも通り、何事もなかったかのように。しかし目の前に広がる惨状は、前夜の僕の必死の努力を無惨にせせら笑っていた。
君を驚かせようと夜通し飾り付けをした。君の喜ぶ顔が見たかった。そうして華やかに飾り付けたはずのツリーの姿は、そこにはなかった。見るも悍ましい姿へと変貌していた。
どこを見渡してもあの美しいツリーの姿は見当たらない。君との幸せな時間となるはずだったその全ては、跡形もなく、見事なまでに凍りついていた。
もみの木は根元から葉先まで、枝という枝を伝って広がる氷柱に覆い尽くされる。それは壁を、床を、天井を伝って部屋中を襲うように、鋭い針のように伸びていた。恐ろしさだけが漂うその空間で、僕は呆然と立ち尽くすしかなかった。
なぜこんなことになっているのか。昨晩は美しく輝いていたではないか。僕ではない。こんなはずはない。全く理解ができない。けれど、この家でこの惨劇を作り上げることのできる者は一人しかいない。そう、僕だ。
背後から物音が聞こえる。君が起きてきた。こんな姿を見せるわけにはいかない。早く元の姿に戻さなければ。しかし元に戻す術など僕は持っていない。その場を取り繕おうと、僕は苦し紛れにサンタクロースの衣装に着替えた。
馬鹿馬鹿しくて笑えてくる。何も変わらないというのに。僕はただ真面目にサンタクロースの格好をし、君への靴の入った四角い箱を持ち、じっと耐えた。
どうか笑ってくれ。何も聞かずに僕を笑い者にしてくれ。これは茶番なのだと、そう思わせてくれ———。
とても長い時間に思えた。ゆっくりと君がこちらへ近づいてくる。僕は微々たる動きも取れなかった。自分の心臓が、息が、騒がしいほど大きく聞こえる。
君が姿を現したときの顔を、僕は一生忘れることはできない。変わり果てた部屋に無惨なツリー、悍ましさの中でサンタクロースの格好をして立ち尽くす僕。こんなクリスマスを見たことがあるか。
困惑と恐怖、戸惑いを隠しきれず小刻みに震える君の顔には、どこか僕の全てを悟ったような、そんな表情も映し出されていた。
そして君はいつもの笑顔を見せたようだった。けれど決して僕に目を向けず、聳え立つ悍ましいツリーの姿を真っ直ぐ見つめ、ただじっとそこに立っていた。静寂の中に響く、二人の呼吸が、氷柱から滴る水の音が、脳裏に木霊していた。
このとき君が何を思っていたのか、僕にはわからない。今となってはもう知ることすらできない。気づけばそこに君の姿はなく、滑稽で無様に立ち尽くす僕は、氷柱の溶け始めたツリーの前にただ一人、取り残されていた。
それはヒトとして生を受けてから、僕が一番恐れていたことだった。
「誰も傷つけてはならない」
「誰にも迷惑をかけてはならない」
そう心に誓って生きてきたのだ。しかし僕はその誓いを守りきれなかった。それも一番大切な人の前で。僕は君の人生に、君の記憶に、勝手に入り込み、そして破壊した。
ヒトの能力を目の当たりにした君からは、僕の姿を、僕と過ごした日々を、全ての記憶を、完璧に消し去る必要があった。それがヒトの決め事であるから。
ふと、君の背後に一人の看守が立っていることに気がついた。どこからともなく現れた彼は、僕に目をくれることもなく、何の感情も見せることなく、淡々と業務を遂行した。僕の目の前で君の記憶を凍らせ、一気に壊した。一瞬君はこちらに目を向けたようだった。そして
———君はいなくなった。
もともと僕とは何一つ関わりなんてなかったかのように、ただ僕の前から消えたのだ。君は何も知らず、何も感じず、どこか別の世界線を生きているのだろう。君の人生に僕と共に過ごした時間は事実上、存在しないものとなった。僕の記憶の中でのみ、その時間が流れているだけとなった。嘘か真か、僕の記憶の中でしか知り得ないものとなった。
どれほど自分が愚かであったかを痛烈に思い知らされた。人間とヒトとが共に生活をするなんて、うまくいくはずもないのだ。そんなこと初めからわかっていたはずだ。それなのに僕としたことが。欲望の波に呑まれ、理性を失うなんて、愚か者のすること。
あそこで立ち去っていれば良かったのだ。財布を渡されたあの時、断りを告げて立ち去るべきだった。その後も何度も姿を眩ます瞬間があったではないか。映画を見ながら暗がりに紛れて一人席を立つことだって、君が眠っている間に抜け出すことだってできたはずだ。仮に君を悲しませることになっても、それは、君を守るため。許されたはずだ。
一人取り残された部屋で僕はただひたすらに氷が溶けるのを眺めていた。日が昇り、日差しが強くなり、そこら中に水溜まりができた。パシャリと水溜りの中に氷柱が一つ落ちる。これは本当に僕が起こしたことなのだろうか。
僕は自分がやったわけではないという証拠を必死に集めようとした。そして、部屋中を歩き回った———サンタクロースの格好のままで———。
僕の能力が力を増していたのだろうか。そのことに気づけなかった僕が新たな訓練を積んでいなかったからか。知らず知らずのうちに力が増し、それが僕の体内では収まっていられず、勝手に飛び出したということか。
幸か不幸か、ツリーがあったお陰で君に迸(とばし)りせずに済んだのだろう。君は九死に一生を得たのだ。
僕は自分の能力の持つ恐ろしさを、底知れぬ不気味さを、この時初めて目の当たりにした。それはこれまでの失敗とは比べ物にならないほどであった。別の誰かの仕業であってくれ。心から願った。こんな怪物が自分の中にいるだなんて到底認められなかった。これだけのものを前にしてもなお、自分は人間であるのだと、そう思い込もうとしている自分がいた。
このときすでに百八十五歳を迎えていた僕は、百五十五年もの間、ヒトとして生きているにもかかわらず、未だ自分の変貌した姿を受け入れられずにいた。あまりに愚かで情けない。
この年のクリスマス以来、君に出会うことは二度となかった。僕の記憶を消し去られた君が、再び僕の前に姿を現すことはなかった。そして僕は再び一人になった。
かつての生活に戻っただけ。何度もそう言い聞かせた。百数十年そうして一人で生きてきたではないか。誰に頼ることもなく、影を潜めてひっそりと生きてきたではないか。その頃に戻るだけ。何も難しいことはない。
しかし君と過ごした十年はそう簡単に消えてはくれなかった。僕の記憶も消してくれと何度もそう願った。一方でこれは人間の前で能力を使ったことへの罰なのだと自分を追い込んだ。その刑は僕に重く、のしかかっていった。
二人で暮らした家はあっという間に朽ちていき、行く当てもない放浪が再び始まった。
一人になった僕に、今の僕に、この街は大きすぎた。この街には君を思い起こさせるものがあまりに多すぎた。一度は小さなアパートに移った僕だったが、居ても立ってもいられず、早々にこの街を後にした。
駅へ向かうまでの道すがら、列車の中で、人間の目が痛いほど僕を刺した。皆が僕に対して批判的な目を向けていると、そう思い込んだ。それはあの日、収容所からの帰り道に感じたよりももっと強く、痛く、突き刺さるようだった。
「ヒトなど存在する価値のない生物だ」
そう言われているようで、胸を抉られる思いだった。
気づけば僕は我が家を目指していた。あのとき決して手放すことのできなかった我が家を。そうして僕はあの小さな町へ舞い戻ってきた。
数十年という年月を感じさせないほど、町は変わらず静かにそこに佇んでいた。白い石垣に囲まれた道を進むと、あの小さな広場がある。
何も変わらない風景に意図せず安堵した僕は、真っ直ぐ我が家へ向かった。あの街は僕には刺激が強すぎたのだ。ここへ戻ってくればもう、何も心配はいらない。あそこでの出来事はきっとこの町が、我が家が癒してくれる———。
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長編小説「ブルー・ブライニクルの回想録」
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