掌編小説:鈍色の未来【1660文字】
五年前の冬、妊娠中の妻が階段から落ちて死んだ。
それは不運な事故だった。臨月で、足はむくんで動きにくく、冬の寒い朝、冷え予防の分厚い靴下が滑りやすかったのかもしれない。身重で咄嗟に手すりを掴めなかったのだろう。些末な不運が重なり、妻は死んだ。
不幸中の幸いと言うのだろうか。お腹の赤ちゃんだけは無事だった。臨月で、もういつ産まれてもおかしくない状態であったため、すぐに帝王切開が行われ、冷たくなり始めた妻の体から、赤ちゃんは産まれた。
僕は、無事に産まれてきてくれた女の子に、亡き妻と一緒に考えていた名前、「未来(みく)」と名付けた。
男手ひとつで育てる大変さはあったが、出産直前に命を落とした妻、残された夫、助かった子供、という世間の同情を買うには充分すぎるほどの条件が揃っており、職場を始め、まわりの人々は僕に優しく、協力的であった。
産まれたばかりの未来は本当に可愛かった。抱っこすると、温かくて柔らかい。甘いミルクのような赤ちゃん特有の良い匂い。愛おしくいて、壊れそうなほど小さな体をそっと抱きしめ、大切に育てた。
未来の顔は妻によく似ていた。昔見せてもらった妻の赤ちゃんのときの写真をよく覚えている。そっくりだ。
未来は大きな怪我や病気もせず、すくすくと元気に成長した。
そして、冬の寒い日、未来は五歳になった。
五歳にもなると、すっかりおませさんである。よく喋り、大人顔負けに口も達者である。顔だけでなく性格も妻に似てきた。喋り方から言うことまで似ているのだ。
例えば、僕が靴下を脱ぎっぱなしにしていると「パパ、靴下はすぐ洗濯機に入れてって言ってるでしょ」などと言ってくるのだから、苦笑するしかない。そんなときの未来の表情は、一瞬ドキっとするほど、妻に似ているのだった。
娘が、自分の愛した女性にどんどん似ていく。父親として、嬉しいような複雑なような、不思議な感情でもあった。
その日、未来は僕のパソコンをいじって、ひとりで見ていた。声をかけると、「パパとママの写真を見ているの」と言う。いつの間にパソコンなんて操作できるようになったのか。子供の成長に驚く。休日の夕暮れ、茜色の空。冬の日没は早い。
「これがパパで、これがママでしょ?」
「そうだよ」
それは結婚してすぐに行ったスキー旅行の写真だった。
「懐かしいな」
思わず口に出す。妻は可愛い人だった。運動神経の悪い妻を、僕が得意なスキーに連れて行って、かっこつけたかったのだ。
「本当。懐かしいね」
ふいに未来が言うから、えっ、と顔を見る。
「この日、私がリフトに全然乗れなくて、あなたが何度も一緒に練習してくれたの、よく覚えてるわ」
「未来? 何言ってるんだ?」
「私はよく覚えてる。この旅行のことも……五年前の事故のことも」
僕は一瞬にして全身が粟立った。
「ねえ、あなた、知ってる? 肉体は魂の器に過ぎないの。私、あのとき乗り換えたのよ」
そう言って僕を見る未来は、妻の顔そのものだった。
五年前。
まるで昨日のことのように脳裏に蘇る記憶。
出産への不安と女性ホルモンの影響で毎日イライラしている妻。仕事で帰りの遅い僕を毎日詰る妻。体がだるいから、と家事を何もしない妻。たまっていく洗濯物。散らかっていく部屋。惣菜とコンビニ弁当の毎日。注意すると逆上して感情的に泣きわめく妻。白けていく僕の目。
階段の踊り場で、妻が足を滑らせてよろけた。
焦って伸ばしてきた妻の手を、僕は掴まなかった。
妻は驚愕と恐怖の表情で僕を見た直後、後ろ向きにゆらっと宙に倒れ、ばたん、どがん、ごろん、ごつん、と音を立てて階段を転がり落ちていった。僕は階段の一番上から、不自然な方向へ折れ曲がった妻の白い四肢と膨らんだお腹を眺め、たっぷりニ分待って、救急車を呼んだ。
「乗り換えたって……未来、お前、何を言ってるんだ、どういうことだ」
指先が冷えていく。恐怖に怯えながら未来に問いかけると
「ん? パパ何のこと? どうしたの?」
五歳児に相応しい無邪気な笑顔が返ってきた。
背中に、冷たく不快な汗が流れる。
美しい夕陽はすでに沈み、空は鈍色に淀んでいた。
《おわり》