掌編小説:高みの見物【1829文字】
「おはよう、朝早くからすまないね」
コーヒーの香りが漂うキッチンに、夫が顔を出す。朝食の準備をしている私。
「いいのよ、あなたこそ、休みの日まで朝早くから出張なんだから。大変だわ」
「まぁ、仕事だ。仕方ない」
夫はへらっと笑ってソファに座り、新聞を広げる。今朝のニュースは何だったかしら。私は、夫好みの、酸味と苦みの強いコーヒーを一杯カップに注ぎ、そのカップに酸化マグネシウムを四錠溶かす。ボルダーオパール色の香しい液体。
「はい、コーヒー。ブラックで良かった?」
「あぁ、ありがとう」
コーヒーに口をつけ、「んん、うまい」と唸る夫。トーストとベーコンエッグという簡単な朝食をとる。
「今回は、大阪よね?」
「そうだ。阪大の先生が、どうしても僕と会いたいんだそうだ」
「名誉なことじゃない」
「まあ、そうなんだけど、休みの日くらいゆっくりしたいよ」
「仕事ができる証拠よ」
「それならいいんだけどな。あ、そうだ。阪大の先生、スナック通いが好きらしい。もしそんな店に行くことがあっても、付き合いだから気にしないでくれるか?」
「当たり前じゃない。仕事の付き合いで行くスナックやキャバクラに、いちいちヤキモチ焼くような年じゃありませんよ」
「ふふ。そうか。ならいいんだけど」
「じゃ、行ってくるから」と、夫は私が準備した出張用のキャリーケースを引いて玄関へ行く。
「家族サービスができなくてすまない」
「何言ってるのよ。あなたが働いてくれてるから、私もあの子も生活できてるのよ、感謝してるわ」
私は微笑んで見せる。
「ありがとう。じゃ、いってきます」
「はい。いってらっしゃい。お気をつけてね」
中学生の娘はまだ眠っている。
夫を見送った私はすぐにスマートフォンをチェックする。
やっぱり。思った通りだ。夫のスマートフォンのGPSは、大阪行の新幹線ではなく、箱根行のロマンスカー乗り場へ向かっている。
まぁ、わかっていたことだけれど。
不倫している男は、妻がそのことに気付いてないなんて、どうして思えるのか不思議だ。夫のスマートフォンやPCのロック番号を知らない妻が、この世にいるとでも思っているのだろうか? なんて浅はかな。不倫がバレていないと思っている男がいたら、そいつの頭はとんだお花畑だ。「女の勘」なんて言葉があるけれど、それ以上に鋭い「妻の勘」を知らないのだ。まさに、私の夫のように。スナックに行くかもしれない、なんて予防線まで張って、あほくさ。
私は、夫が大阪行の新幹線のチケットをとっていないことを知っているし、不倫相手と箱根に行くためにロマンスカーのチケットをとったことを知っているし、箱根のどこの宿に泊まるかも知っているし、なんなら相手の女も知っているし、女の職場も自宅も実家も家族構成も知っている。
夫のスマートフォンで撮影された気持ち悪い写真も保存してあるし、鳥肌が立つような幼稚なラインのやりとりもスクリーンショットで保存してある。
夫への嫉妬は全くない。外でよその女と寝た男なんて、気持ち悪いだけだ。適度な嫌がらせ(例えば、芦ノ湖のボートにでも乗っているときに強烈な便意に見舞われるとか? 酸化マグネシウムの効果は8時間後くらいに出るから、ちょうど観光している時間だろう)をするのが楽しくて仕方ない。食事を全て妻に委ねていることがどれほど危険であるのか、やはりお花畑にはわからないのだ。危機意識の低さ。
相手の女も気持ちが悪い。本気の気概を見せて奪いにくればいいものを、悲劇のヒロインを気取っているのが気持ち悪い。
「私はなんて儚くも美しい悲しい恋をしているのでしょう」
「ロミオとジュリエットの気分」
女のSNSにお姫様気取りのポエムが載っていた。中学生じゃねーんだから、馬鹿かお前は。妻子持ちと寝るような下衆のくせに。やっぱり相手も脳内お花畑なのだ。
妻が夫の不倫を知らないふりをしているだけ、というシチュエーションは腐るほどある。というか、私の知る限りほぼ100%そうだ。バレていない不倫なんて見たことがない。夫がバレていないと思い込んでいるだけで、ほとんどの妻は知っているのだ。夫から全くバレていないように見えるのは、そのほうが妻にとって都合が良い、というだけのことにすぎない。
気付いていない男の愚かさと、そんな男と寝ている女の惨めさよ。
私と娘だけが傷つかず、夫と女、二人を陥れる全ての算段は、整いつつある。
せいぜい旅行を楽しめばいい。こっちは物事の好機を待って、高みの見物をしているだけなのだから。
《おわり》