大阪弁復興!
これまで方言論の理論を書いてきましたが、 〇さんに具体的な気持ちを書いて、と言われたので書き始めました。 大長編になりそうで、まず序文ですわ。
今回、アイヌ民族に臨夏はなぜ関わるのか、をお伝えするため、○さんと○さんにも送信させていただきます。
ぼくらは大阪弁をもっと皆が使うように、言語復興運動をしているが、疑問を持つ人もおるようや。
1,非大阪人からのもの。そもそも、なんでぼくらが「大阪弁にこだわるのか」わからへんようや。
2,大阪人からのもの。意外で、ショックでもあるが、いまや大阪の若い世代は、ぼくら年寄りが大阪に、大阪弁に、思う気持ちを共有してへんみたい。ちなみに筆者は1968年昭和43年生まれのことし54歳である。
筆者からして、父母や祖父母の「まともな大阪弁」を継承していない。70年代・80年代風の寂れた大阪弁の話者や。しかし、それでも「大阪意識」「こだわり」や、大阪弁への愛着・東京弁への敵意は明確に持っていた。野蛮であり、間違うたことやが、当時は東京からの転校生への「なにいきっとんねん」みたいな虐めもよく見られた。
当時からして、大阪弁は廃れてきている感じがあり、なんとかせないかん、正しい大阪弁を守らんとあかん、という焦りがあったし、なにより大阪弁が東京弁に損なわれていく「苦しさ」は明確にあった。この苦しさが、ぼくの全ての論考と、いや人生の思考と実践の全ての原点である。仕様もないことではあるが、この苦しさをぼくは学的に「文化身体苦痛」と名付けておく。
ぼくの在日朝鮮人や、アイヌ民族・琉球民族へのシンパシーも、「あの人らなら同じ気持ちを持ってはるやろう」「繋がりたい」との、推定=エンパシーから来るものである。ただし、一部アイヌ民族関係者からは、ぼくのこの気持ちは嫌われている。コミュニケーションの取り方に、おそらく問題があると思う。考えるし、解決したい。
ぼくが自分を大阪人である、大阪弁をしゃべっている、と自覚したのは小学生3.4年のころである。ぼくには七歳上の大阪出身で東京に引っ越した、大阪弁はしゃべるが意識は東京人の、じつに許されない・鼻持ちならない・大阪の気持ちも理屈もナニも知らない・母国と切り離された、くそみたいな従兄がいた。ぼくは彼の正体には気付かず、ようあることではあるが、おちょくられ、虐められながらも好きでよく懐いていた。最初に大阪について教えられたのは、この従兄からであった。
ぼくのことを、大阪弁をしゃべっている、と彼は指摘するのであるが、自分では意味がわからない。自分の文化・異文化にまだ無自覚であった。家族ぐるみで、その親戚とは付き合いがあり、お互いよく東西間を行き来した。向こうは「阪僑」で、一家そろって大阪弁がよく保たれていた。もっとも、東京人の知り合いの前では彼らは東京弁をしゃべっていたようやが、ぼくらの前では見せへんし、ぼくも気に留めてなかった。東京の街もよく歩いたが、別に伊丹の近所やあるいは大阪梅田あたりと変わらない。向こうの縁日で金魚を掬ったとき、香具師のおっちゃんから「遠いとこから来たね」とオタマジャクシをプレゼントされたりして、家族は笑ていたが、ぼくは意味も分からなんだ。従兄は「あんたは浜村淳みたいなことばでしゃべる」と揶揄するが、意味がわからない。当時NHKの番組でまだ若い浜村氏がしゃべくっていたが、わしは当時から(いまも)ファンやったんやが、彼のことばを聞いてわしと同じやとも思わない。
やがて、どこからなんやろう?大阪弁の味がわかり、好きになっていくし、東京弁への敵意(これを、非大阪人はなにか他所の都会への「縄張争いの政治意識」みたいにとる人がいるが、まるで当たらない。これは、方言という「身体」への抑圧に対する苦痛と抵抗の意識、「身体の自由」に対する権利意識である)も育つ。実に大阪弁への愛着はぼくは小学校から中学にかけてが、じかのレベルではもっとも強く、自分や周りの「正しいと思われる」大阪アクセントを聞くと、「暖かさに包まれた」「なんともいえぬ至福の気分」になったものや。ぼくは大阪弁が大好きやったし、これを壊すものは許されるべきではなかった。
アイヌ民族の、ぼくが敬愛する学者、知里幸恵さんが『アイヌ神謡集』のなかで「広い北海道は、わたしたちの先祖の自由な天地、、美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた、、何と云う幸福な人だちであったでしょう」とある。いま確かめたら「アイヌ語」とはここにはじかに書いてないが、きっとアイヌ語も当時は「純正」であったやろう。アイヌと大阪の破壊を安易に比較するからわしは嫌われるのやが、アイヌ語ではないが大阪弁がすでにヘドロ(東京弁)にまみれ、わしのことばもまわりのことばもテレビのことばもおかしくなっていて、当時から、いまも苦痛に苛まされていたし、社会が「きれいなことば」ばかりやったら、きれいな大自然よりぼくにはよっぽど嬉しいし、そんなかにおったらどんだけ幸せか、という意味で勝手に知里にシンパシーを感じたのであった。
琉球の学者、高良勉氏は、『ウチナーグチ練習帖』で「高校時代までの同期生たちとはウチナーグチ中心で会話ができます、、同じ集落の人たちと(会うときには)ウチナーグチを使うようにしています、、その晩は思いっきりウチナーグチの会話を楽しんでいます」とある。遠慮なく言わせてもらえば、「同じ気持ち」である。
また、大阪には在日朝鮮人の劇団「タルオルム」がある。彼女・彼らは、いまどきないみたいなきれいな大阪弁を話す(複雑な歴史経緯があり、かんたんにぼくらはこのことで彼女・彼らにシンパシーを持ったらあかんやろうが)。そこで、彼女らは日本にある朝鮮学校において、母語ならぬ(母語は日本語やろう)祖語の朝鮮語で、「ウリマル、スヂャ!(朝鮮語使え!)」と言うのや。なんか委員がおって、うっかり日本語を使た同級生にこない言うみたいや。大阪弁は、じつに破壊が列島に住む朝鮮人ほどではないやろうから、大阪弁学校も、大阪弁の授業時間もなく、同級生が東京弁を使いくさっても、「ウリマル(わしらのことば=大阪弁)で話せ!」と言える権力も、言うてくれる「人民の権力」代表者もおらへん。東京弁垂れ流しや。
みなに、こういう風に親近感を持ってしまう。勘違いや誤解、ズレは甚だしいとは思う。しかし、歩み寄りに至る、こういう気持ちを寄せたりすること自体が、あかんのやろうか?ぐちぐち書いているが、じつはぼくはあるアイヌ民族関係者に、「アイヌ人も大阪人もことばを奪われた」「ともにがんばろう」と言うたら、「アイヌ人と大阪人は違う」「大阪人はアイヌへの侵略者」「破壊の程度が全然違う」「わかったふうに言うな」「恥を知れ」と言われた。それは全くその通りと謝罪したうえで、しかし「言語侵略は、近代中期:帝国主義時代は日本がアイヌを侵略し、「政治的弾圧」の時代やったが、近代後期:ポスト帝国主義の現代は、政治的弾圧も続くが、じかの言語への禁圧は影を潜めてテレビの日本語=東京弁の浸透のように、むかしとは別の柔らかい「生権力(フーコー)」による「社会的弾圧」が大きくなってきている。そこで、部分的にアイヌ民族と大阪人は同じ立ち位置に近寄りつつある」と書いた論文を提示し、丁寧に説明した。彼は誠実で、いっしょに丁寧に論文を読んでくれたが、はじめの溝は埋まらない。
ぼくも考える。これは東アジア政治で、被害ばかりでない「日本人の加害責任」がよく指摘されるし、「大阪人の加害責任」を、ぼくら大阪人自身で言うていかなあかんねやろう。ぼくは九州の日本人とも深い軋轢があり、彼は大阪在住の標準語話者で、小さいころ大阪に転校して虐められたそうで、大阪の抑圧に怒り、しかし東京の抑圧は認めようとしない。台湾人や香港人が中国人の抑圧をメインに語り、日本人・イギリス人をかばいがちなのと似ていると思う。
ぼくはこうやって、東京の力とも付き合いながら、はじめは読書を中心に、のちには実際の当人たちとも付き合う、というふうに、大阪内外の外国人や日本人方言話者たちと付き合うてきた。この論文では、はじめの話に戻りつつ、ぼくを一つの視点とした、20世紀から21世紀にかけての大阪の言語風景を綴っていきたい。なお、ぼくはこれまでに数編の言語関係の論文があり、その内容が理屈に傾きすぎていて、わかりにくいとの指摘を受けたので、それを補うつもりでの、記録文である。
ここで振り返ると、ぼくの朝鮮・アイヌ・琉球・日本の方言話者へのシンパシーは、全て言語問題への共感に偏っている。 しかし、彼らは実際には差別され、政治的自由を奪われ、経済的に収奪されて貧困化し、領土を割譲され、自然を破壊され、神々を辱められ、友人や家族を殺されている。 また、共感が自分目線や。朝鮮人学生に対し、「わしらには大阪弁学校がない」とか書いてしもたが、日本語学校はあるし、そこで別に普通に大阪弁使ている。朝鮮人にはまずそういう環境が全く欠落しているから、ほんの一部で朝鮮学校があるのや。「琉球大学には琉文学科があるが、京都大学には京都弁学科がない!(これはこれでおかしいけど)」と言えば、やはりそうやな。
いま、わずかにエンパシー(推測)をするだけでこうや。 勝手に分かった気持になったら、そら憤激を買うわなあ。
ここで、友人の感想
それへの再度レス
〇さん、丁寧なご感想、ありがとうございます! レスがあると、論を書いたカイがありますわ笑 皆さんもどうぞおねがいします。
何点か。
1.東京の横暴
これなどは、ぼくには自明なのですが、果たして日本人の共通認識になっているのか? 少なくとも東京人ご本人は知らへんのでは? 大阪人は、もともと東京に噛みつくが、東京や周りの人はやはりこれを単なるライバル意識やとおもてないか。 東京の、権力を、わしらは批判してるわけやんけ。
東京から来た転校生に、なにいきっとんねん言うてどつく(これはこれであかんがな。黒人の子が、白人の子をどついてええとはならんやろ)のも、彼が道徳的に奢っているのをたしなめているのでなく、彼のことばや身振りに「権力」を見てとるのではないか?東京の子にしたらとばっちりやが、これについてはまた書きます。
また、阪神ファンが巨人に毒づくのは、あれは野球の恨みでなく、あきらかに日頃の地域格差への不満である。なんなら、首都の球団ばかりテレビに映るし、巨人が強いのも、彼らが練習を一生懸命してるからではなく、つまり報道によってファンがつくから強い選手があつまるんやんけ。さらに、阪神ファンが過激なのは、東京の地下鉄が長いことへの恨みかてある。そういう地域格差で重大なのが、方言格差やろう。
かくて、東京の横暴は限りない。東北など、村まるごと崩壊または老人化する。もちろん、その村独自の方言も、生活も、あるのに滅びてしまう。これも、出稼ぎのせいであり、構造的地域格差や。なんなら、出稼ぎや就学・就職は、拉致・実質上の強制連行やし、東京(大阪もや)に行ってそこで家庭を持ち、子供が東京弁を喋り、東京アイデンティティを持つのも、エスニッククレンジングやないか。
それで、わしは「東京の侵略!」と、ごく自然に指摘したら、ある東京の友人は、侵略なんてしてない!と怒ってきた。
見えてないんや。
東アジアでの、日本の立ち位置に似ている。日本の横暴は有名やが、それでも一般の日本人には悪意はないんやろうし、いきなり(ではなく、ここ100年なんやが、日頃あまりに鈍感すぎたツケなやけや)、日本の悪口言われ、怒る日本人。見えてないんや。 これは、大阪人も似たりよったりで、九州人に、わしも言われたしな。 相手が沖縄人の場合は、わしら大阪人であり、日本人や。
日本が(あるいはアジアが)東京の植民地やいうのはほんまや。 なんなら、北海道や沖縄は台湾や朝鮮と同じくガチ植民地やで。 だんだんスライドして、東北も、四国も、近畿も、京阪神も、植民地や。
ただし、〇さんに言われたが、これは朝鮮人のハルモニを踏みつける言い方やそうで、わしがアイヌ関係者に怒られたのもこれや。 しかし、植民地とは帝国主義時代のもので、現代ではほとんどなくなった。 が、問題山積みやないか。 高校のころ、この現代に残る「新植民地主義」について聞かされ、そんときは、なんや、もう独立したんやったらじき収まるがな、とタカをくくっていたが、まさに自分ワレ大阪のことでもあったんや!て今思い出した。
そう、新植民地主義またはポストコロニアリズム、て北海道、沖縄、東北、四国、近畿、京阪神、そしておそらく東京本国のことなんや。 東京の人かて、毎日苦しく会社で働き、税金納めてるのに、わしから侵略者!て罵られる。 彼ら自身が新植民地主義の犠牲者という側面かてある。
「ヘドロ」発言も、熟慮の末です笑 東京の人は言われて傷つく。しかし、日本語て、おそらくアイヌ・沖縄・朝鮮の人にとってはヘドロではないか? これは、少なくとも世界の一部では、客観的真理なんや。けして、偏見や言い過ぎでなはない。 ただし、東京人や日本人はびっくりする。 ここで大事なのは、東京権力がヘドロなのであり、東京人ではない、と言うこと。 なんなら、日本権力や、大阪権力もヘドロなのである。 ならば東京人や大阪人はどうか?というのは、最終的には所属している権力体を離れた個人の生き方の問題であると思う。 権力はヘドロであるが、東京や大阪のあなたがヘドロかどうかは、門田も含めたあなた達の問題や。
そのある意味ただしい(東京人・日本人個人は悪くない)感覚のまま、突っぱしったのが、ネトウヨ違うか。 ネトウヨは、考えなさ過ぎや。
まとめると、たしかにハルモニ達が考えるように、大阪は帝国主義時代の植民地ではない。 しかし、北海道からスライドできるように、大阪も、グローバル時代の植民地や、と言い得ると思う。ただ、程度問題でいうと、北海道アイヌ民族、琉球人、在日朝鮮人より、よっぽどましで、緊急性は薄いやろう。 結構、現代大阪弁は言語学者からは危機言語指摘されてるし、あぶないんやけどな!
別に、方言論の新展開として、「身体性」にもとづく、トランスジェンダーや障害者、労働者と方言話者の親近性について述べた。 これをも、新植民地主義問題・ポストコロニアリズムとしてとらえたい。「地理学」的アプローチや。 この「植民地問題」は、人間・社会の資本への従属が根本で、その地域的現れ・空間的表現が、特に「植民地化」と言われるわけや。 しかし、地域問題には方言問題も経済格差も地方自治問題もあるが、 「地域」を「人間身体」と捉えるなら、トランスジェンダーもどもりも、植民地にならないか?
身体の拘束なら、学校や会社に縛られ、こき使われるのも植民地現象であり、ひいては労働問題・生活問題、温暖化や資本主義問題の全てに、立ち返る問題や。 言うてしまえば、現代最大の問題は、学校と会社違うか? 方言かて、学校や会社で、奪われ、標準語化するのや。