椿の庭
古きよきものと生きることの難解さとある女性の生きざまとをリンクさせた静かで雄弁な映画でした。
主人公、富司純子の緋牡丹時代を知っているだけに梨園に嫁ぎその役割を十二分に果たしたあとの、女優としての彼女の今が、興味深くて。
劇中、わかってくることは
夫を亡くして間もないこと、大きな古い家に孫娘と住んでいること、その孫の母親は彼女の長女で若い時代に駆け落ちをして海を渡り早くに夫を亡くして一人で娘を育てていたのが事故で亡くなっていること、死ぬまで実家との連絡は絶ったままだったこと、でも亡くなる時に親たちへの思いを口にしたらしいこと、孫娘は長く異国で生きてきたので日本語がおぼつかないけれど祖母との暮らしでさまざまのことを吸収して、これからを生きる存在であること、次女は離れて暮らしているけれど母親のことは気にかけているし姉の残した娘のことも大事に思っている、できれば二人が自分たち夫婦と新しい生活を始めてくれればと願っている、大きな家には大きな庭があって季節によって咲き誇る花は違い、つくばいには金魚が、いる。
この金魚がなにかを象徴しているかのように撮影される。最初の場面からしてこの映画が「生と死」をにおわせるものであることがわかる。
夫の母は、夫の兄にあたる長男が癌で告知通りに数か月で亡くなったあと、持病の薬を飲まなくなった。義兄の死後一年を待たずに彼女は静かに逝ってしまった。薬を飲むことをやめてしまう劇中の彼女の行動は、それを思い起こさせた。
生きていて何になるのかという問い。老いればおのずとその問いと向き合わねばならない。若い孫娘にはそれは許しがたいことなのだということもわかる。与えられた生命は最後まで生きるべきだということも、わからないではない。でも、子にまで先立たれている彼女がこの家を庭を失ってまで生き続ける意味はどこにあるだろう。
わたしにはまだ老親たちが残っているので、今すぐ死んでもいいですとは言い切れないのだが、生きる意味という点でいえば、もういつでも、いいのだ。生きることへの執着はそれほど強くない。主人公の彼女が夫と過ごし子を産み育て、どうか幸せにと願って、一人になった孫娘と日常を過ごしている幸せな映像がずっと続くならそれは生きる糧になっただろうが、この家が庭が失われ、解体されていくのを見なければならないなら、もういいと思うに至る気持ちはよくわかる。
そしてそれを許せないでいる孫娘のきりりとした思いもまた、美しい。
きちりと和服に身を包み、丁寧に暮らしている母親の姿。かつて長女は反発もし、駆け落ちという形で親元から離れた。残された次女はそんな姉を恨んだり羨んだりしながら、このきちんとした母の期待を裏切らないように生きてきたんだろう。姉の残した姪に姉の面影を見たり、そんな姪を見る母の目線に姉を感じてぬぐい切れない劣等感もあったに違いない。心配もし母娘の紡ぎだす独特の距離感を感じさせつつ、実家にとどまる時間が短い彼女の、そんな思いも、想像できる。京香さんの凛々しい空気と「お母さん、あなたらしい」という一言にいろいろな思いがわたしの中に沸いた。
夫の親友が救いの手を差し伸べるわけでも、税理士に紹介された買主がとんでもない善人であるというようなオチもなく、当然のように転売され壊されていく家を見つめながら、象徴である金魚を救い出し、切り出した椿の花とともに狭い新しい鉢の中で泳ぐ金魚をみつめる孫娘がラストシーンである。彼女もまた、新しい場所で生きていく。祖母との生活を、彼女が教えた日本の古い伝統的なあれこれが彼女の振る舞いやたたずまいに残っていく。
どの立場の女性たちの思いも、わかる、そんな映画だった。
映画らしい余白の多い、人によっては退屈になるだろうと予想しやすい邦画だけど、こういうのはやっぱり邦画じゃないと観れない気もする。