多文化社会での保育とアドラー心理学①(縦の関係と横の関係)
今私はカナダのBC州・バンクーバーに住んでいます。
カナダ自体が移民の国ですが、バンクーバーは特に色々な国から来た人達が共存していて、独特な街だと思います。
色々な文化や考え方、宗教や生活習慣があって、そんな中での保育は、最初のうちは本当に戸惑う毎日でした。
何せ「普通がない」んです。
今まで当たり前だと思っていた事、常識だと思っていた事が通じなかったり、逆に彼ら彼女らの言っている意味が分からなかったりと、英語という共通語で話しているにも関わらず話が通じないという経験をしました。
そんな中で見つけた、バンクーバーでの保育を通じて思った、体感したアドラー心理学にも通じる考え方をいくつか紹介したいと思います。
縦の関係と横の関係
まず最初に挙げたいのは、アドラー心理学では、とにかく子どもを一人の人間として認識して接することに重きを置いている、という事。
子どもでも大人でも人間として対等であり「横の関係」を持つ事を主としています。
横の関係とは、子どもが何かをしようとしている時に、一緒にそこにいて、見守り、どういう風にするのかを見せたりはする(モデリング)ものの、基本的には手を出さない。
子どものそのまま受け入れて、過剰な手出しはせず、必要な手助けだけをする。
逆に「縦の関係」だと、上の方から指示出しをするイメージです。
子どもに対してどうすれば良いのか、何をすればいいのかを手取り足取り、もしくは答えを全て教え、言われたとおりに子どもは行動する。
ある意味大人にとっても子どもにとっても簡単な方法で短期での問題解決に繋がります。
イメージとしてはこんな感じです。
ただ、これを常にしてしまうと子ども達は自分達で考え、責任を持って行動するという事をしなくなっていってしまいます。
常に誰かの指示待ちを、もしくは答えがわかっている事しかしたくなくなっていく。
そして最終的には、大人の方も大変になっていってしまうんです。
だって常に子どもの為に答えを提供するなんて、出来ないですよね?
でも子どもからしたら、どうやって自分で問題解決に導いていけば良いのか練習していないのだから、いきなり「自分で考えなさい」なんて言われても、今更⁈ってなりませんか?
北米では特に、自分の意見をきちんと伝えないとどんどん自分が辛くなっていってしまいます。
「言葉にしていないけれど察して」という文化はないからです。
明らかに大変そうにしていても(勿論助けてくれる人もいますが)その人が言わないという事は、自分の好きでしているんだな、という解釈になりがちです。
仕事場では特に各々のやり方や考え方があるから余計な口出しはしないが吉、という場合も勿論あるのですが、だからこそ助けが欲しい時にはきちんと口に出さないといけません。
そして子ども達に対しても同じで、子どもを一人の人間として尊重する(対等な関係)からこそ、彼らの声をきちんと聞きます。
何があったのか、何をして欲しいのか、何が必要なのか。
そして何か問題があっても、それを大人が解決せずに、どうすれば良いのか、どんな解決方法があるのかを一緒に考える(脳発達にも関係)事を重要視しています。
ただ、毎日の忙しい生活の中で常に子どもからの解決方法が出てくるまで待つ、という事は(出来たらいいのですが)なかなか難しいです。
大人には大人の都合も事情もありますし、常に大人ばかりが我慢する道理もないです(勿論逆も然り)。
そういう時はチョイス(選択肢)を渡す(子どもがコントロールする機会を増やす)事をしています。
朝保育園に行く時間なのに、子どもが靴を履きたくないと癇癪を起している。自分の仕事の時間もあるし、怒鳴って、無理やり履かそうにも余計に大泣きする。または自分で履く事が出来るのに履かせて貰いたいと駄々をこねる、もしくは時間がないのに自分で履くと言い張る。
こういうシチュエーションって、どんなお家でも一度は経験したことないでしょうか?
勿論保育園でも日常茶飯事で起こっています。
こういう時は
「じゃあ今日は自分で履く?それとも先生がお手伝いする?」
「片方は先生がするからもう片方はXX君/ちゃんがしてみようか」
「こっちの靴とこっちの靴、どっちを履く?」
「自分でしたくないなら今日は先生がお手伝いしようか?」
など、「靴を履く」という事自体は変わらないけれど、そこへ至る経緯に対しての選択肢を子ども自身に選ばせて「自分が決めた」という経験に繋げていきます。
この方法である程度大人の方での制限が出来ますし、でも最終的な決定権は子どもが持っているので「やらされている感」がかなり軽減します。
「物事のコントロール権」というのは子どもに限らずとても重要な事で、人の行動原理の一つです。
「普通」や「当たり前」だから動くのではなく、コミュニケーションを取り、相手の気持ちを認識した上で、でも自分だけが我慢するわけではない。
お互いが「対等」だからこその方法での保育は、自分の言動に責任を持つ大人になっていく過程だと思います。