【映画】家族を想うとき
このケン・ローチ監督の映画を観ながら、まるで芥川龍之介の「蜘蛛の糸」のような話だと思いました。
「蜘蛛の糸」は、死後地獄に落ちた盗賊のカンダタを天上のお釈迦様が見つけたところから始まります。お釈迦様はカンダタ生前の唯一の善行だった一匹の蜘蛛を助けたことに思い立ち、カンダタを助けようと一本の蜘蛛の糸を地獄へ垂らします。
カンダタはその糸を掴み、よじ登ろうとしますが、他の亡者たちも這い上がろうと蜘蛛の糸を掴みます。カンダタは糸が切れてはいけないと他の亡者たちを蹴落とそうとしますが、そのとき糸はプツリと切れてしまい、再び地獄の底へと落ちていきます。
Story
イギリスのニューカッスルに住むターナー家のリッキー(クリス・ヒッチェンズ)は、訪問介護士として働く妻アビー(デビー・ハニーウッド)と16歳の息子セブ(リス・ストーン)と12歳の娘ライザ(ケイティ・プロクター)の4人で借家で暮らしている。
リッキーは、家族4人で暮らす為の住宅、そして2人の子供の進学費用の為にフランチャイズ制の宅配業者としての独立を試みるものの、独立の為に必要な宅配用のトラックを手に入れるにはまとまった頭金が必要だった。
リッキーは当初反対していたアビーを説得し彼女が仕事で使っている車を売って資金を手に入れるものの、いざ仕事に就いてみると、そこはトラックなどの借金と厳しいルール設定で縛られた独立とは名ばかりの厳しい労働環境が待っていた。
『家族を想うとき』の主人公であるリッキーは、「蜘蛛の糸」のカンダタのように縋り付く亡者たちを蹴落とそうなどとはしません。それどころか、リッキーも仲間たちも、ともに弱い立場である仲間たちと助け合おうとすらします。
とはいえ、一般的な労働基準法のようなものが適用されない独立業者の彼等の両肩にはトラック購入の借金に加え、自分の生活や家族といったものがどっかりと乗っかっていることでしょう。
なんとかしたいけれど救いはなく、助け合おうにも、その余裕すらありませんが、さりとて自ら糸を離すことも出来ません。
その時彼らが所属する社会は、彼らに「カンダタ」になることを強要するでしょう。
そのような過酷な環境のなかで、ターナー家にあったごく普通の家族問題は、解決するどころか益々大きなものになっていきます。
リッキーはもとより、アビーも車が使えないために家に居る時間は益々減りました。
それでもリッキーとアビーはなんとか子供達との関係を維持しようと努力しますが、厳しい労働環境はターナー家を追い詰めていきます。
特にリッキーとセブの関係は悪化していきます。
ここで展開していくドラマは、大昔の日本のテレビドラマで何回も観たような気のする「仕事ばかりじゃなくて家族のことも考えてよ!」という妻の叫びに対しての夫の「家族のためにやってるんだ!」という定番のやり取りで表現されるものです。
しかし、高度経済成長期やバブル期に展開されたであろうハッピーエンドを前提とした日本のテレビドラマとは違い、現代イギリスは、いや現代の日本も、そのような夢をみることの出来る時代ではなくなりました。
それはこれからも続いていく問題であり、ラストシーンはそのことを暗示しています。
「家族を想いながら家族を壊していく」という家庭の普遍的な問題とともに、(特に)かねてから先進国とされてきた国々における現代特有の社会問題を孕む「時代性」というものに、カンヌはとりわけ関心が強いのかも知れません。
2019年のパルムドール受賞のポン・ジュノ監督作品『パラサイトー半地下の家族』もそうですし、その前年の2018年に同賞を受賞した是枝和弘『万引き家族』も、さらにその前年の2017年はリューベン・オストルンド『ザ・スクエアー思いやりの聖域』も、そして2016年のケン・ローチ監督自身の『わたしはダニエル・ブレイク』も、社会の分断、格差社会を描いたという点では同様でしょう。
地獄の亡者を社会的弱者と捉えれば、弱者同士が蹴落とし合うという意味では『パラサイト』の方がより直接的で分かり易く描かれていますし、日本のテレビニュース的社会問題の寄せ集めである『万引き家族』も欧米の人々は驚かされたことでしょう。また、他者に対する思いやりを持とうという意味で作られた現代芸術作品を展示する美術館で、館長含めその他の人々も、それとは正反対の、思いやりのない、意識の分断を表す出来事の数々が展開されていく『ザ・スクエア』の風刺表現も見事でした。
しかし、『パラサイト』や『ザ・スクエア』が風刺的であり、『万引き家族』が寄せ集めらしい如何にもの“作り物感”があったのに対し、『家族を想うとき』は現実により近く、心に迫ります。
さらに、この映画で描かれた問題は世界のどこにでも実際に身近でも起こり得る、むしろ既に起こっており、ターナー家の家族の問題が、中々抜け出すことの出来ない現代社会の構造的問題と綺麗に結び付いて描かれている点は地味ながら見事です。
冒頭で「蜘蛛の糸」を連想したと書きました。これは教訓めいた話で連想的に思い出されたのですが、考えてみると、そのちょっとした閃きはあながち的外れでもなかったように思います。
現実的なことを書きましょう。
這い上がるための頼りない糸は、誰かを助けようと垂らされたものではなく、下層の人々の不満を和らげる懐柔策として働いていると言えるかも知れません。
しかし、予め閉ざされた希望より、叶わぬ希望の方が残酷と見えることもあります。
お釈迦様も、その糸では支えきれないと分かりながら糸を垂らしたのかも知れません。
前半、リアルではあるけど、物語展開が平坦だなあと想いながら観賞していましたが、中ほどから後半は号泣させられました。とてもよく出来た構成と思います。