未来の些細な楽しみを糧に生きている
コロナ禍において、色々な予定を中止にせざるを得ない状況が続いている。
元来インドア派な性分がゆえ、家で過ごす時間そのものに関しては思いのほか心地よさを感じてはいるものの、とはいえ楽しみにしていたこと全て諦めなければいけない現状に満足しているのかというと決してそんなことはなく。
卒園式や謝恩会から始まり(出来ることなら謝恩会は短縮バージョンではなく普通にやってみたかった)、週末のお出かけ、外食、飲み会、連休中の帰省や旅行、普通の入学式、新しく始まる娘の小学校生活。
全て『仕方がない』の一言で有無を言わさず諦めるしかない現状。
命があってこその楽しみなのだ。今は我慢するしかない。
そうわかってはいるものの、楽しみを全て奪われてしまったような感覚に陥り時折ズーンと落ち込んでしまう。
個人的に一番寂しさを感じているのは、桜の下でランドセル姿の娘との家族写真を撮れなかったことである。
ずっと憧れていて知人経由で撮影の予約までしていたがゆえに、「出来なかった」ということが悲しくて仕方がない。
とはいえ、どれも些細なことだ。
お金のかかるものならまだしも、私が立てていた予定など出来なかったからといって莫大な損失があるわけでもなく、今の状況においては大したことではないのだろう。
でも、人間はそんな『未来にある些細な楽しみ』を糧に生きているんだなと最近とても感じる。
「明日友達とランチしよう」「週末お洋服買いに行こう」「月末家族で外食しよう」「来月友達と飲みに行こう」「春になったら桜の下で家族写真撮ろう」「GWに実家に帰ろう」
その他「好きなアーティストのライブに行く」等の大きな楽しみも含めて、未来にある楽しみが生きる糧なのだ。
でも、コロナ禍においては『今』しかない。
未来が不透明すぎてハッキリとした予定が立てられない。
自由に出かけることも出来ない。
いつ終息するのかもわからない。
楽しみを先に見据えることが出来ない。
今出来ることを粛々とこなしていくしかない。
だから辛い。
「出来ない」が積み重なって苦しくなる。
「楽しみ」を作れなくて悲しくなる。
こんな生活、誰しもが一刻も早く抜け出したいのに、自分だけが良ければよいと思う人たちの勝手な行動で足並みをそろえることすら出来ない。
勝手な行動で、事態を長引かせてどうすんだってばよ。
せめて日中は子どもと楽しく過ごそうとのんびり生活しているのだが、夜になると「出来ないの積み重ね」で感じたストレスが脳を占め、中々寝れなくなってしまう。
本当はあれやりたかったな…今頃本当だったらこんな生活だったのにな…
ついあるべき姿の未来を想像しては悲しくなってしまう。
と、悲しさを感じたりもしているけれど。
生きてさえいれば楽しみはきっとこれから先いくらでも作れるはず。
桜の下で家族写真が撮れなかったのなら、新緑でも、紅葉でもいい。
それもきっと後に「このときホント大変だったよね」と語り合う思い出になるはずだ。
今年のGWに帰省できなかった分、次の大型連休はドンと大きく旅行したい。
我慢していればきっと楽しい未来が待ってるはず。
だから、今は家にいよう。
いつになるかはわからないけど、未来の楽しみのために家にいよう。
家族みんなで元気でいよう。
つい夜になると色々考えてしまうのだけれども…、今日はこの吐き出しをもって考えるのを終わりにしてぐっすり眠りたい。
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