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他者と比較する環境がないって生きやすい
家族以外の誰とも会わない日々が続いている。
先月上旬くらいまでは公園に行ったタイミングで会ったママ友とちょっと立ち話したりもあったけど、最近はその公園に行くことも無くなってしまった。
元々さほど社交的というわけでもない娘、お友達に会いたいとも公園に行きたいとも言うこともなく、家での時間をそれなりに満喫して過ごしているように見受けられる。その弟も同様。
二人で毎日楽しそうに遊ぶ姿を見て、「まぁ、楽しそうだしいっか」と思えているのは今の生活においての救いである。
こんなに二人と長期間ベッタリ過ごすのも二人が未就園児以来のこと。(長期休み以上という事実に驚く)
学校や幼稚園に行けないことでの成長の機会損失はとても悲しいし今後が不安になるけれど、三人で過ごす時間も懐かしいと言えば懐かしい。
そんな風に考えていたらふと「もしこれが今未就園児時代だったらどうだっただろう…」と思い至った。
意思疎通出来ぬ子どもらと家でずーっと過ごす日々。トイトレも完了していない子どもらと延々と家で過ごす日々。
辛かっただろうし、閉塞感もあってしんどかったと思う。
でも、その一方で、こうも思った。
「ずっと家にいていい」「無理に交流の場に連れて行かなくてもいい」という環境にはある意味助けられたかもな…と。
先ほど「さほど社交的ではない娘」と書いたが、その親である私もまさに「さほど社交的ではない大人」なのである。
未就園児時代何が一番辛かったかというと、公園や子育て支援施設等に連れて行かなければならないというプレッシャーだった。
そういう『不特定多数の集まる場所』は私の最も苦手とする場所だった。
そういう場所は極力避けたいけど、子ども達のことを思うと連れて行った方がいいのだろうか、同い年の子との触れ合いも作ってあげた方がいいのだろうか。
そう気持ちを奮い立たせて行ってみても、既にその場ではコミュニティーが形成されていて、とてつもなく疎外感を感じてしまう。
声をかけようにも会話が全く続かない。(今ならわかる、私が相手に興味がないからだ)
そして、そういう顔なじみが出来ていて子ども同士も仲良く遊んでいる集団を目にするたび、そういう関係を築けていない自分がダメな親なように感じてしまったし、子どもにも申し訳なく感じたりした。
『子どものため』という名目でだけ行くそれらの場所がとても苦手で、「今日は〇〇があったから行けなかった」と毎日何かしらの言い訳をして避けていた。
その代わりに、同じメンバーの集まるサークルや習い事等を選び、自分なりに気を遣って過ごしてはいたつもりではあるが、とにもかくにも公園や子育て支援施設は私の最も苦手とする場所だった。
そこに行かなくてもいい。
人と関わらなくてもいい。
子どもとの関わりだけでいい。
もしかしたら、そういう点においては「助かった」と感じたかもしれない。
習い事にも顔を出せず大人と話せないことでのフラストレーションや寂しさはあったとは思うが、少なくても義務感はなくなったと思う。
そして、何を隠そう、今の私も『子どもとの関わりだけでいい』という日々には少なからず居心地の良さを感じている。
そこには『比較』がないからである。
当時から私はその苦手な『不特定多数が集まる場所』は避けて過ごしていたけど、でもどことなく罪悪感のようなものはあった。
子どものためにそういう場所に通っている親が大半なのになんで自分は出来ないんだろう。そういう場所に行かないことでこの子に悪影響はないんだろうか。
頑張って連れて行っても私が子どもと一緒に遊ぶことには変わらず、その場で一緒に遊べる顔なじみの友達というのもいない。
交流を避けているから当たり前なのに、勝手に疎外感を感じていた。
公園に行っても、楽しそうに駆け回る親子やお砂場で一緒に泥んこになって遊んでいる親子を目にするたび自分の至らなさを感じて辛くなった。
外遊びが昔からさほど好きではなかった私には、あんな風に子どもと公園で遊ぶのはただただ苦痛だったからだ。私は今一刻も早く家に帰りたいと思っている。全然楽しめない。
頑張って子どもを連れて外に出ては、他のキラキラして見える親と自分自身を勝手に比較し、罪悪感や疎外感を勝手に感じていたのだ。
一方今の世は、他者を見て自分と比べる場面が非常に少ない。
他者との関わりを自粛しているのだ、当り前と言えば当たり前である。
そして今は「皆が平等に家で過ごしている」のである。
自分だけが家で過ごし、周りは楽しく外で遊んでいる、というわけでもない。
皆が同じ環境。それゆえの安心感もある。
今は同時に選択の自由も奪われている状況なので、もちろんこの世が良いとは決して思わない。
外に行って仲間と遊びたい人は遊べばいい、家にいたい人はいればいい。本来はそういう選択が出来て然るべきだからだ。
しかしながら、比べなければ平穏でいられるというのは私にとっての事実だ。
でも、私は何のために比較をしていたんだろう。
人と比べて何がしたかったんだろう。
私は何であんなにも罪悪感を感じていたんだろう。
全ては『自信のなさ』が所以だろう。
自分の育児に、自分の選択に、自信がなかった。
でも今なら思う。
あのときの私も、もっと堂々と自分の思うように過ごしてよかったのだと。
子ども同士の関わりは未就園児時代に必死にならずとも幼稚園で充分学べた。
「本当は行った方がいいんだろうな…ごめんね…」と多少の罪悪感を感じながら子育て支援施設に行くことを避けていたけど、もっと行かないと選択したことに自信をもっても良かったのだ。
親子で人のいないところにお散歩に行ったり、人気のない公園に行ってみたり、お家時間を満喫したり、そういうことをもっと堂々とすれば良かった。
比較することで落ち込むなら比べてしまいそうな場所を避けるべきだし、そもそも『比べる』ことが全くの無駄であることに気付くべきだった。
そういう一つ一つの選択に自信を持つべきだったし、「他のママは出来ているのに」と周りと比べて気に悔やむこともなかった。
子どもの成長は周りと比べないように、キョウダイ間でも比較しないように。
そんな風に子どもの成長に関してはそう思えていたのに、なぜ自分のこととなると出来ないんだろう。不思議なものだ。
大人であっても同じ。
自身の性格も育児環境も子どもの気質も、みんなそれぞれ違う。
周りと比べて自分の至らなさを感じる必要は全くない。
各々が生きやすいような育児をしていくべきだ。
それが、今のこの『比較のない環境』を過ごす中で感じたことである。
この世が落ち着いて、他者との関わりがまた戻ったとしても、『よそはよそ、うちはうち』という思いはしっかり持っていこうと思う。