”社会”からの同調圧力と日本がオワコン化した理由
yoko_kishimotoさんの記事、『帰国すると、イライラしがちな日本人に戻る問題」を読んだ。
「電車の中でうるさく電話をする人、道いっぱいにならんで歩く人、進まないバス、愛想のない居酒屋の店員。ベトナムに住んでいる時には、気にもとめなかったことに、イラっと胸が騒ぐ。」
読んでいてこのきもち、すげえわかると思った。自分でも別人かよ!と思う程、居る国の常識に感情の余白が左右されることがある。
そうでなくても、電車でイラついている人を見て「愚かだなあ」と思うこともあれば、簡単なことで腹を立て他人を許せなくなっている自分にびっくりすることもある。
日本人は社会ルールへの従属度が根本的に異常
日本では“おかしいやんけワレ!”と憤る様なことも、“まあええか”と受け入れられてしまう穏やかな雰囲気があるのが海外だ。特に東南アジアはそんなイメージがあるだろう。社会ルールへの根本的な従属率差みたいなものを感じずにはいられないのは僕だけだろうか。
もう少し例を挙げてみよう。
電車でキレる日本人と、派手に車をぶつけられても一通り文句だけ言って去るベトナム人。
肩が触れ合っただけで怒る日本人がいる一方で、派手に車をぶつけられてもバカー!とだけ文句を言って去るベトナム人がいる。この2人の差は“性格”とか“国民性”と言うレベルを超えているように感じられる。
我々は成田空港に着陸した瞬間から“日本人”に戻る。
海外だと他人を許し穏やかに過ごせている我々も、成田空港の駐機場に到着するころには、日常に片足を突っ込み始める。もしかすると早い人は「シートベルト着用サインが消えるまで座ったままでお待ちください」というアナウンスを無視して立ち上がる人たちに苛立ちを覚え始めるかもしれない。
これはひとえに、「社会にいるんだからルールを守りなさい」という謎の力への従属なんだと思う。
ルールがぼくたちを締め付ける
“私たち“という同族間で適用されるのがルールだ。そのローカルルールによって高度に秩序化された集団を社会と呼ぶ。社会で各々が好き勝手やると破綻しかねないので、一定のルールを設けてみんなで気持ちよく過ごしましょうね、というのが根本的な仕組みだ。
そして、このルールは、時に人をいたく縛り付ける。
ベトナムと日本の違い~社会化の程度問題~
ベトナムとかラオスは社会化度が日本より数十年遅れている感覚がある。まだなかば個人で半自給自足生活を送っている地域の方が多いし、ヒトを組織に当て込む学校制度も幅を利かせていない。じつはこれが”私たち”を縛り付ける拘束力の強弱にかかわってくる。
遅れているというと聞こえが悪いが、その分“私たち”の束縛力はキツクないのだ。そして今後会社などが発展して、社会的な共通感覚を作り出すところまでいっても、大陸地続きの利点もあってか、棲み分けつつもうまく融合して社会を作ってゆくだろう。
そしてもっともっと社会化が進むと個々人は違うんだから”私たち“とかいう基準で語れなくね?という「然もありなん」な結論にみんな気づくはずだ。
ぼくは“私たち“の仲間ですか?“フツー”という謎の怪物
今回のノートの筆者さんで、(日本は)「自分と他人との間に境界線がない、雑炊のような社会だと思う。」とあるのは、たぶん、“私たち“という種類に勝手に括られていること、しかもその中でローカルルールを押し付けられることへの違和感なのだと思う。この感覚はいわゆる同調圧力とか、“フツー”という謎の怪物たちだ。
ぼくとあなたは違う、そりゃそうだけど手を取り合う方法はないのか
こう見ると同調圧力とか“私たち”のルールとかを大義名分として、ずかずか土足で上がり込んでくるのが日本社会だ、と言い切ってしまうこともできる。「察しの文化~」とか「行間を読む~」とか、同一民族でつるんで出来た副産物を文化として挙げ連ねているうちは多様化なんてとっても難しそうだ。
でも外国人がこれだけ増えても一向に社会が多様化に向けて動き出す様子が見て取れないのは単純にヤバイと思う。
ぼくとあなたが違うのを前提にして手を取り合う方法はないのだろうか。
日本社会がオワコンになる日
日本に住みたい!と思ってもらえない社会はだんだんと衰退の一途を辿ってゆく。そうでなくても優秀な人はこうやって海外に住んじゃってる。
“私たち“の外にいる人、外にいる人で単純に分けないで、「ぼくとあなたは違うけど”私たち“として頑張ろうぜ」という風にしておかないと、日本がオワコンになる日は近い。
そのためには何が必要か?考えていかなければならない。
謝辞
今回の記事の着想と引用は、yoko_kishimotoさんから頂きました。他にも素敵で考えさせられる記事をたくさん書かれているので、こちらのフォローもおすすめいたします。
yoko_kishimotoさん、ありがとうございました。