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かつて私だったものへのレクイレム
私から解き放たれて 広がり揺れる髪の束 手を振るように
(短歌)
十年以上ぶりに、肩より短い長さまで髪を切った。
結婚パーティに向けてという名目で、胸の下まで髪を伸ばし続け、十一月に無事パーティを終えてからは「髪を切りたい」と口癖のように言っていた。
すぐにでも美容室へ行けばいいものを、
「寝ぐせもお団子で隠せて便利だし」
「冬は首のあたりに髪の毛が当たるだけで温かいのよね」
「ポニーテールってやっぱり好きなんだよな」
とか何とか言って、伸ばしっぱなしにしていたのもまた、私なのだった。
いつだって私は優柔不断で、ぐずぐずと迷っては選択を保留し、決断を先延ばしにする。面倒な性格だと周りからは呆れられながらも、私は「うーんうーん」と唸って、「どうしよう!」と言いながら布団の上をゴロゴロ転がり、「わからないよう」とめそめそすることが、実は嫌いではなかったりする。生きていくのには多少不便だし迷惑をかけることもあるだろうけれど、なんだか人間らしいな、と思ったりしている。
そんな私が今日髪を切ると決めたのは、大層な理由が見つかったわけではなく、上司が休むのに便乗して予定もなく仕事を休むことに決めたこの月曜日こそ、なんだか髪を切ってもいいような気がした、というだけなのだった。
誰に許可をもらわずともヘアカットくらい行ける年齢なのだけれど、あまり頻繁に美容室へ行かない私にとってはちょっとしたイベントだ。でも、例えば「デートの前」とか「友達の結婚式の前」とか、そういった特別なタイミングに合わせるのもなんだか私らしくなくて、あくまでも日常の延長線の、何でもない日に執り行われるべき、と勝手に思い込んでいる。
この有給は近場で過ごす、と決めていたので、家の近くの美容室を訪れる。後に同い年だと発覚し、矢沢愛の話で大いに盛り上がることになるとは露知らずの、担当してくれた美容師さんから「髪の毛、自分で切ってみます?」と言われ、「インスタグラムでよく見るあれか!」と心の中で叫んだ私は、「いやいや私は別に髪を切ったことをSNSにあげるような人間ではないので…」と言い訳しながら断ろうとした。が、口にはせず、せっかくなので切ってみることにした。
前髪は、かつて時々自分でも切っていたし、パートナーの髪の毛をバリカンで刈り上げたことは何度かある。留学中に、「どうしても現地の美容室に行きたくない」という友人に頼み込まれて、彼女の部屋で髪の毛を見よう見まねで切ってみたこともある。が、私は私の(前髪以外の)髪を切ったことはないのだった。
意識したことはなかったけれど、それは小さな発見だった。
美容師さんに手渡された鋏を手に、「この辺ですかねえ」とか言って、躊躇なくザクザクザク、と一思いに切っていく。少しずつ私から切り離されていく髪の毛たちは、ほんの数秒前までは確かに私の一部だった、と思うと不思議だ。
束だったそれらは最後の一本が切り離されると、全体としてふわりと左右に広がった。物理的に「痛くもかゆくもない」けれど、私の手の中で扇のように開き揺れている髪の束をまじまじと眺めていると、胸がキュッとする。
この気持ちは何だろう?と谷川俊太郎の「春」ではないけれど、小さな問いが生まれる。
「これ、どうしたらいいんですか」
と美容師さんに尋ねると、
「その辺に捨てていいですよ」
と言われた。
「え、ごみ箱とかに入れなくていいんですかね」
と、聞かずとも答えがわかりきった質問をしたのは多分、この束を手放して床に落としてしまったら、それは完全に私ではない”物体”になってしまうという感覚が無意識下にあったからだろうか。
鏡の中には、まだ整えられていないにせよ、さっきまでとは異なる印象の私がそこにいた。
ところで、『賢者の贈り物』(オー・ヘンリー)という物語がある。大変有名だけれど、念のためおさらいすると、以下のようなお話である。
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クリスマスのプレゼントをお互いへ贈り合おうとした夫婦は、貧しかった。
そのため、夫は自分の大切にしている金の時計を、妻は自分の持っている美しい長い髪の毛を、それぞれ売ることで、プレゼントを買った。
ところが、夫は妻に、美しい髪に似合う髪飾りを、妻は夫に、金の時計に似合うプラチナの鎖を買っていた。
二人はそれぞれの大切なものを手放し、愛する者へ思いやりを贈り合ったのだった。
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私による簡単な要約なので、もしご存じない方がいればぜひ手に取って読んでいただければと思う。
初めて『賢者の贈り物』を読んだ私はまだ幼く、切ない気持ちでいっぱいだった。が、唯一の希望は、妻の髪の毛はまた伸びるので、時間が経てば髪飾りを使うことができるということだった。この物語の主旨はもちろんそこにはないのだが、幼い傷を癒すには必要な事実だった。
それ以来私は「髪は切ってもまた伸びるから」と、髪を切ることに対してセンチメンタルになることはなかった。万が一思い通りの髪型にならなくても、そのうち髪は伸びるし、また整えてもらえばいい、と。
それなのに、今日、髪の毛の束を床に落とした瞬間、私はちょっぴりセンチメンタルだった。
それは、初めて自分の髪に鋏をいれたから、というわけではなく、多分もう一生これほど髪を伸ばすことはないだろうと、薄っすら思っているからなのだった。
私は友人たちに「ロングヘアが定番スタイル」の人間だと思われていて、異論は全くないのだけれど、すごく長い髪は実はあまり好きではなく、胸に触れるくらいまで髪が伸びると、鎖骨までカットする、というルーティンで生きてきた。
今回、このルーティンを破って髪を伸ばし続けていたのは”結婚パーティ”という名目によるものだったので、この長さまで髪を伸ばすことは多分もう一生訪れない。そんな気がする。
とか言いつつ、『NANA』(矢沢愛)に出てくるレイラのロングヘアxパーマに密かに憧れている私がいつか「レイラヘアにしてみよう」と思い立つ可能性だってある。
それでも、ふと心に浮かんだ「もう二度と起こらないかもしれないこと」に私はどうしても切なくなる。子どもの頃からずっとそう。大人になっても、大小様々な「永遠の別れ」を何度経験しても、慣れない。
森絵都の『永遠の出口』の表題作で、主人公は小学生にして「二度とないもの」に対する執着から卒業するのだが、私は三十歳に近づいてもなお、卒業できない。
ぐずぐずしている私だけれど、今日はひとまず、髪の毛たちへのレクイレムとして冒頭の短歌を詠むことで、日常の小さな「永遠」へお別れをしたいと思う。