ラムネ
わたしの世界の見え方
世界中で自粛をする ーーーという時代を生きるのは、なかなか珍しい体験かもしれないと思うので、そんな状況下での「日常」を綴ることにしました。 ※全体的に、投稿と内容には数か月単位の時差があります。
通っているジムの近くの横断歩道横の電柱に花が添えてあると気づいたのはいつだったかしら。 誰かが事故に遭ってしまって、遺族がお供えしているのだろうと思った。ジムには水泳教室などもついているので、飛び出した子どもが事故に遭ってしまったのかしら。平和な緑道の先にある穏やかな道だけに、想像しづらいのだった。 それから通りがかるたびになんとなく目を向けるけれど、そこにはいつも花があった。そして、その花はちっとも枯れないのだった。まさか造花が、という考えが一瞬よぎったけれど、造花だって
久しぶりに胃腸炎になった。 父の誕生日祝い兼節分ということで、実家で恵方巻と海鮮手巻き寿司と誕生日ケーキを無邪気に食べまくったせいだろうか。 家路に向かう途中に腹痛が始まり、夜中には胃にあるもの全てを出す勢いで嘔吐し、翌朝パートナーが買ってきてくれた経口補水液やらゼリーやらをどうにか口にしてみるも、食べた分だけ綺麗に吐いた。 最後の方には、胃に固形物はないのに、液体だけでも出したかったのか、水のようなものを便器の中に吐き出していた(きれいな話でなくて申し訳ない)。昔、胃酸
社会人になったわたしは、アルバイトを適当にしかしていなかった学生時代と比べたら、たくさんの収入を得ている。なのに、働き出してからなぜだか、給料日十日前になると、「どうしよう、残り一万円」とか言っている(※家にお金を入れたり、一定額貯金をしたりはしているので、月給を全て使い切っているわけではないのだけれど)。 学生の頃だってそれなりに遊んでいるような気がしていたけれど……。どうしてこんなに出費が多いんだろう。 本気で不思議に思ったわたしは、冬頃から、出費を記録し始めた。
自粛生活が始まって、まずしたのは、ToDoリストの作成、だった気がする。 放っておくと予定をバンバン詰め込んで遊びに行ってしまうわたしにとって、休みの日も家で過ごさなければならないという状況は、ちょっとラッキーでもあった。家でやりたいけど、ついつい出かけてしまってできていなかったことが山ほどあるから。 ということで、自粛中にやりたいことと、自粛が解禁されたらやりたいことを、とりあえず書き出してみた。思いついたらいつでも追記すればいい。 何を書いたかというと…… ◆
2020年4月8日、とうとう、わたしのWFH(Work From Home)が始まった。 お昼休みと題してランニングをしたり、仕事終わりには友人とビデオ電話をしながら一緒に筋トレをしたりした。 わたしは前にもしばらく在宅勤務をしていた時期があったし、遊びに出かけられないのはつまらないけど、家でやりたいこともたくさんあるので、自粛生活はそこまで苦じゃないかもしれない、と初日にして思い始めていた。 ただ、ビデオ会議に出るために、パソコンのカメラに貼っていたマスキングテープ
同期がどんどんリモートワークへシフトしていく中、クライアント自身はかなり早い段階からコロナ対応としてリモートワークを開始していたにも関わらず、わたしたちのチームは相変わらず客先に出社を続けていた。 毎朝そこそこ混んでいる電車に揺られながら、「なんで今日も通勤しているんだろう」と本気で考えていた。仕事終わり、エレベーターで一人になると変なポーズをとってみたりするほど、会社に人は少なかった。 そんなある日、上司がチームに対して、「コロナのことなど、何か不安があればいつでも
Kの家に思いがけず泊まった翌朝。ふっと目が覚めると、Nが 「起きた?おはよう」 と言った。「おはよう~」と返しながら時計を見ると、九時すぎだった。寝たのが三時ごろだから、しっかりちゃっかり六時間は寝ている。 「早起きねえ」 「うん、今日夜勤だし、早く帰って家でも寝ようと思っていたから」 Nはすっかり着替えも済ませている。学生時代から彼女は朝に強くて、カフェでアルバイトをしていたころは七時にはお店にいた。どんなに飲んだ次の日でも。今でもその頃の話になると、彼女は決まって「体
ロックダウン――と言えど、日本における「ロックダウン」には強制力がなく、あくまで「要請」だから、海外で措置が取られているロックダウンとは別物なのだけど――初日(3/28)。本来は自宅でおとなしくするべきなのは百も承知なわけだけど、わたしは親友の家に引きこもることにした。というのも、もともと地元の親友二人と会う約束をしていたから。 これでも、一応妥協した。本当は、久しぶりにドライブをし、海鮮丼を食べに行く予定だったのを、急遽お家集合にしたのだから。 そんなわけで、最寄り
3月最後の週末は、不要不急の外出を自粛して頂きたい。 東京都知事の小池百合子が、そんなことを言って、わたしは「対策が遅いなあ」とぼやきつつ(オリンピックの開催有無が決まるまでコロナ対策をする気がないのは、メディアが報じるまでもなくバレバレだった)、タイミングが悪すぎると思った。 外出自粛を求められた週末の直前の金曜日、わたしは会社の同期との飲み会があった。いつものメンバーでの飲み会なら、こんな時期だから今回はパスさせてね、と言えたし、自分の気持ちとして言っていたと思う
2020年の1月頃から少しずつその脅威を露わにし、強かに、且つ猛スピードで世界へ広まっていったコロナウイルス。 それに伴い、わたしが住んでいる(将来どこに住んでいるかはわからないので、住んでいた、と記すべきなのかもしれない)日本でも、他国に遅ればせながら、緊急事態宣言という名の自粛「要請」が出された。それが、4月頭のこと。新年度、新生活に心躍らせていた学生や新社会人は、入学式や入社式がないことに肩を落とし、オンライン授業やら研修やらを家で受けることに退屈している傍ら、ど
すきな歌は死ぬほどあるけれど、小学生の頃特にすきだったのは、 学校で習った合唱曲の「この星に生まれて」 それから、当時大流行りしていた(わたしもファンだった)大塚愛の「ロケットスニーカー」 ロケットスニーカーは意外と知られていなかったりするけど、ポップな曲調(大塚愛の曲は大部分がポップだけれども)と、何より歌詞の発想がすき。 全文引用したいくらい歌詞がすきだけれど、特に 「地球からステップ踏んで軽くして浮いている。あぁ、地球っこ」 「地球にThank you! タッチし
遅ればせながら、年が明けましたね。毎年懲りずに「今年の抱負」を掲げる時期がわたしにとっての1月。それは今年も然り。 たかが前の年の12月31日から数時間(もしくは数秒)経っただけの1月1日になると、「新しい年」という響きだけで、なんだか新鮮で神聖な気持ちになる。お正月は大抵祖母の家で過ごすから、盆地の寒い朝の刺すような冷たい空気が余計に、わたしをそんな気持ちにさせるのかもしれない。 元旦の新しい冷たい空気に包まれていると、今年こそは何でもできるんじゃないかという気になって
永遠はあるけどない。 常々そう思っている。永遠を口にした瞬間、その永遠は確かにそこにあるけれど、その状態が変わらないままいつまでも残っているかと言われれば、大抵は「ノー」だ。 まだ折り目のついていない、真っ白できれいな2019年分の手帳を眺めながら、わたしのこの小さな決意もいつか、違和感なく揺らいでしまうのかしら、なんて思った。 小さな決意というのは、わたしは手帳派を貫く、というものだ。 友人たちがスマホでの予定管理に移行する中、わたしは相変わらず手帳を愛用している。
小さい頃からお風呂掃除はわたしの担当。前に住んでいた家では手動でお湯を溜めていたから、時々お風呂のことをすっかり忘れていて、湯船からお湯が溢れ出てしまったりもした。そんな小さなことでも「お湯がもったいないなあ」とものすごく悲しくなってしまった。懐かしい。 今の家では、ボタン一つで勝手にお湯を溜めてくれる。今はきっとそういうお家が多いと思う。すっかり慣れてしまっていたけれど、昨日は家に帰ってから大忙しで―――洗濯物を片づけて、お夕食を作って、掃除をして―――バタバタしていたか
何週間か前のこと。高校生を対象に、簡単なプレゼンというか、スピーチをした。大したことは言えなかったけれど、せっかくだからその時の話を簡単に記録しておこう。 母校の恩師に、高校3年生にこのタイミングで伝えられるメッセージがあれば話してほしいと頼まれた。既婚者じゃなかったら本気になってしまっていたんだろうな、というくらいには大好きな先生からのお願い。何より、わたしの人生のキラキラが詰まった高校への小さな小さな恩返しになる。引き受けない手はなかった。 お話のタイトルは、「なんで
わたしがもう十年か二十年早く生まれていたら、間違いなく‟Olive”の愛読者だったと思う。 生まれたころには廃刊していたから、シティガールのわたしは、シティボーイのための雑誌“Popeye”を愛読している。何もする気が起きなくてSNSを眺めていたら、今日は発売日だったと知って、さっき最寄りのコンビニで買ってきた。 それが、今日初めての外出になった。22時ごろだった。 あれ、今日は、一日カフェに籠って勉強する予定だったのに。卒論の一セクションを書き終えるはずだった。おかしいな