切ないあれこれ
小さなころの幸せな記憶を思い出すと、きゅっと切ない。
もうパパとママの手につかまって、宙ぶらりんになることはできない
パパに肩車は二度としてもらえない
ママにしてもらった抱っこや ”たかいたかい” は、いつかのそれが人生最後だったわけだし
弟と一緒にお風呂に入って、大量に浮かべたスーパーボールに当たらないように避ける遊びだって、きっともう一生やらない
——— こういう幸せな記憶を、時々鮮明に思い出しては、あの頃に「二度と戻れない」ことを、ものすごく強く意識する。それで、自分勝手に切なくなる。
。o ○
これからの切ないこと。
気の置けないあの人たちとは、離れても、きっとこの先何度でも会えるけど
すれ違って、時々立ち話をするくらいには仲良しだけれど、あえて連絡を取って、飛行機に乗って会いに行くほどではないような気がする、たくさんのよき友人たちとは、もしかしたら、もう二度と会わないのかもしれない。
ラテを注文するたびに、微笑んで、ほんの少し言葉を交わす、優しいカフェのお兄さんやお姉さんだって、きっとそのうち顔を思い出せなくなる。
一緒にパン屋さんで働いていた、お兄ちゃんみたいで大好きだったあの人の連絡先は、探すのは簡単だけど、「お元気ですか?久々に会いたいなあ」とは言えないまま、声も姿も、どんどん薄れていってしまうんだと思う。
———こういうあれこれが、ふと頭をよぎっては、全然ならなくっていいのに、センチメンタルになる。胸がきゅーっとするたびに、きっとこれも春の空気のせいだとかって思うようにしている。
。o ○
でも、わたしは知っている。
寂しさを感じるのは、愛おしいと思えるからだってことを。
どうでもいい物事に切なさは感じない。「愛の対義語は憎悪じゃない、無関心よ」という、いつかの友人の言葉を、今頃になって実感する。
だから、切なさにはいつも、嬉しさや幸福の欠片が混じっている。ガラスみたいにキラキラ光るそれらは、わたしの胸に刺さって、チクチク痛い。
——— 痛いけど、消えてしまうくらいなら、そのまま胸に刻んでおきたいと思う。何度でも反芻して、忘れたくない。
本当の本当に切ないことは、シャボン玉みたいに、弾けて、跡形もなく消えてしまうこと。どんなに頑張っても、思い出せなくなってしまうこと。
だから、このきゅっとなる切なさが、わたしには愛おしい。
大丈夫、まだ思い出せる —— そうやって、別れと出会いの季節を乗り越えていく。
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