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マルコ福音書 10:35〜45

ゼベダイの息子たち、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちが願うことをかなえていただきたいのです。」
マルコの福音書 10章35節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

ヤコブとヨハネのお願い

弟子のヤコブとヨハネの二人が、イエスのところへ来てお願いをしました。「イエスさま、御国の王となって、その栄光をお受けになるとき、私たちのうちの一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください」。すると、イエスは「あなた方は、自分が何を求めているのか分かっていない」と彼らを叱りました。

二人は、「神の国の原則」について、イエスから何度も、教えてもらっていました。「だれでも先頭に立ちたいと思う者は、皆の後になり、皆に仕える者になりなさい」(マルコ9・35)。「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません」(マルコ10・15)。「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります」(マルコ10・31)。

このように、「謙遜」と「へりくだり」を第一にするように繰り返し教え込まれていた二人でしたが、彼らの頭の中は、神の国での自分たちの地位や立場のことでいっぱいだったのです。他の弟子たちを出し抜いてでも、神の国で高い地位について、王なるイエスと同じ舞台に立ち並びたかったのです。

究極の模範

しかし、イエスは彼らに言われました。「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです」(マルコ10・45)。そして、その言葉どおり、わたしたちの唯一の模範として、へりくだって十字架へ歩まれました。十字架を見上げるあなたは、驚くべき「神のへりくだり」を見ているのです。

神の御姿であるイエスは、天から降って、自らを低くして、人の姿で現れました。十字架の死に至るまで、父の御心に従順でした。墓に葬られ、陰府にまで降ってくださいました。「それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。」(ピリピ2・9)。イエスは、命がけで弟子たちにその模範を示しました。それは「自分を低くする者を、神が高めてくださる」という究極の模範です(ヤコブ4・10)。

悪魔の誘惑

イエスが弟子へ示された模範は、今、あなたにも示されています。私たちは誰もが、「何者かになりたい」と望んでいます。ここで、自問してみましょう。「信仰生活の中で、世の中の人々が求めるような、地位や名声、人々からの賞賛や、歴史に名を残すような功績などを、わたし自分も気づかないうちに追い求めてしまってはいないだろうか」と。さらに、自問してみましょう。「それらの願いが何が何でも叶えられるために、神の側に妥協して欲しい、と思ってはいないだろうか」と。

もし、心当たりがあるならば、悪魔が、その隙を突いてあなたの足をすくおうしてることに常に警戒しなさい。「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています」(1ペテロ5・8)

悪魔は、荒野でイエスを誘惑しようと、高い山からこの世のすべての王国とその栄華を見せて言いました。「これをすべてあなたにあげよう。もしひれ伏して私を拝むなら」(マタイ4・8~9)。しかし、イエスはその誘惑に勝利しました。それは、イエスが、神の言葉だけを宣言し、その解釈を曲げたり、内容に妥協したりしなかったからです。キリスト教を迫害するある国で、命がけで信仰を守っている信者リーダーが言いました。「迫害が教会を破壊するのではない。妥協が教会を破壊するのだ」。

変わらない神の計画

イエスは、ヤコブとヨハネに聞きました。「あなた方は、わたしが飲む杯を飲みわたしが受けるバプテスマを受けることができますか」(マルコ10・38)。これはつまり、「わたしがこれから受ける十字架の苦しみを、同じように通ることができますか」という意味で聞いたのです。彼らは、その意味もよくわからないまま「できます」と答えました。

しかし、後に、本当にその通りになりました。イエスの昇天後、ヤコブは迫害を受けて、逆さ十字架の刑で処刑されました。ヨハネはパトモス島に島流しになり、最期を牢獄で過ごしました。しかし、どれだけ二人が、イエスのために命がけの苦難を通ったとしても、神の意思と計画が変えられることはありませんでした。イエスは二人の願いを却下して言いました。しかし、わたしの右と左に座ることは、わたしが許すことではありません。それは備えられた人たちに与えられるのです」マルコ10・40)。そして、この二人を含めて御国に入るすべての聖徒には、神が備えた、行いに応じた別の報いが豊かに与えられるのです。

ここに希望がある

イエスと二人の弟子とのやり取りに、大きな希望を見出すことができます。それは、あなたがどういう状態であったとしても、神の約束は永遠に変わらない、という希望です。神はすべてあなたの思い通りには動かない、だから神なのです。もし万が一、あなたのすべての願い通りに神が動いたなら、悲劇です。それはもはや神ではなくなってしまします。神は、私たちの願いの枠を超越したところで働くから、神なのです。

永遠に変わらない神の意志と約束を、イエスは今、あなたにこう宣言します。「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい」(マルコ10・43~45)。さあ、あなたは行って、イエスの命じる通りに行いなさい。世界中の信者がこれを実践する時、それは御国が完成する時なのです。

「イエスさま、わたしは自分の要求を手放します。あなたのようなへりくだりの姿にわたしを造り変えてください。」

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