アドベンチャーレーサーという自由業
『それでも僕は歩き続ける』 田中陽希 読了レビューです。
文字数:約2,400文字 ネタバレ:一部あり
・あらすじ
表紙には長野県の奥茶臼岳を背に、1人の男が映っている。
彼の名前は田中陽希。
職業はプロアドベンチャーレーサー。
2021年8月、彼は山と山との移動も含め、歩きのみで301の山頂を踏んだ。
本書はその途中に書かれた、「これまで」と「これから」をつなぐ中継点にあたるだろう。
・レビュー
知らない人は知らないけれど、知っている人は彼を神と呼ぶかもしれない。
表紙の写真からだと亀○人かク○リンの親戚に思えるが、おそらく地球生まれのサ○ヤ人である可能性が高い。
彼は301の山頂を踏み、その間の移動においても人力のみで行うプロジェクト、「日本三百名山ひと筆書き」を昨年に達成した。
(301の理由は末尾のサイトを参照されたし)
山頂を踏むだけなら多くの人にも可能だけれど、山と山との間にある平地を歩き、海峡はカヤックで越えるとなれば、その挑戦が如何に果てしないか想像できると思う。
「ちょっと何言ってるか分からない」という困惑をさらに深めるのは、この挑戦が3回目という事実だ。
第1回目が「百名山」、続く2回目で「二百名山」を達成しての「三百名山」なので、単純に600の山を登り、その間においても歩いたということだ。
ただし「三百名山」の挑戦中だった2020年4月、新型コロナウィルスの流行によって、およそ3カ月の停滞を余儀なくされる。
本書はその停滞期間に行われた、リモートインタビューの内容をまとめたものだ。
◇
田中陽希さんの挑戦は「グレートトラバース」と名付けられた番組として放送され、若い頃は山屋だった父がそれを熱心に観ていた。
今はもう体力が衰えて膝は人工関節となり、肺と心臓に難をかかえている父は、かつてのように山を登ることができない。
おそらく田中陽希さんの姿を借りて、若かりし頃の自分に想いを馳せているのかもしれず、そうした経緯もあって本書を手に取った。
新型コロナによって中断を決めたことは知っており、その後どうなったのか世間の慌ただしさに流されて失念しており、今年の夏に達成したと最近になって知った。
本書は中断していた間のロングインタビューが元になっており、自身のこれまでの話から始まり、途中になっている三百名山への挑戦について語るなど、かなり読みやすい構成になっている。
挑戦を続けるにあたってのノウハウ的な話は参考になったし、各地を歩いた実感からの紹介はイメージしやすく、まるで観光案内を読んでいるようだ。
一方で生い立ちや今後についての話から、田中陽希という人物を知るのに適した1冊とも言えるだろう。
◇
本書は百名山、二百名山と続けた2回の挑戦についても言及されており、後者において現在地を示すGPSトラッキングによって、良い面と悪い面の両方あったと明かす。
近くに有名人がいるなら姿を見たいし、話もしたい。あわよくばカメラに映りたい。
最後のは考え過ぎかもしれないが、多くの人に声をかけられて励まされるのを通り越し、むしろ疲弊していたという話は重く考えるべきかと思う。
親近感を持つのは勝手だけれど、相手が映像の中ではなく現実に生きた人間であることを忘れると、お互いにとって不幸な結果を招く。
ましてや有名人なのだから、全ての人に対して親切に対応するのは当たり前だと考えるのは、ご都合主義の発想として山頂から投げ捨てるのが望ましいだろう。
◇
本書を読んで意外だったのは、数々の山を制覇した彼が昔は教員になろうとしていたことだ。
ただ、それは積極的な理由というわけではなかったようで、悩んでいた頃にアドベンチャーレースを知らなければ、現在につながる田中陽希という人物もなかったと本人も語っている。
教員になるか迷っていた頃について、次のように回想している。
そうしてアドベンチャーレーサーとなり、やがて百名山の挑戦をするのだけれど、一般的な見方をするならアウトローな生き方と言える。
同じように小説家やライターになって、ウハウハの印税生活を夢見る人には次の部分を胸に刻んで欲しい。
チャレンジすることに意味がある、という気持ちで百名山を始めたものの……と続くのだけれど、安定と挑戦どちらも楽な道でないのは確かだろう。
◇
私自身は山に登るより麓をうろつくのが好きなので、田中陽希さんを神格化して憧れるとかもなく、番組も自然特集の1つとして観ている。
けれど本書を読んで、日本を自転車で走り回っていた頃を思い出した。
どうしたって体力は下り坂になるからこそ、若いうちに挑んで損はないし、それが今につながる自信の土台になってくれた。
チャレンジすることに意味はあるし、何かしらの経験を得られる。
でもそれを「やってみた」で表現する以上のものにしたいなら、相応の覚悟と努力、それに運が求められる。
実績として認められるまでは心配されたり、ときにはバカにされることもあるだろう。
それでもかつての田中陽希さん自身のように、人生の岐路に立つ人々に本書が届くことを願っている。