私がラップを書くまでのMAP 2/2
【文字数:約2,000文字】
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ここまで書いてきて、意図せずラップを書く土台が作られていたと推測できる。
発表の場としてのSNSが存在したのに加えて、小説投稿サイトでの活動も大きな動機付けになった。
何万、何十万におよぶ長編小説を書くのは数ヵ月かかり、内容を詰めるほどに進みは遅くなる。
形に出来たときの達成感を言葉で表現するのは難しいけれど、海図のない航海を生き抜いて、新大陸を発見したような感動が近いかもしれない。
完成したものが評価されるかを別にして、頭の中にしかなかったものを具現化する喜びは、すべての創作行為に共通しているように思う。
とはいえ数ヵ月に渡って同じ作品に打ち込むのは、おもに精神面での負荷が大きく、だからこそ長編は挫折しやすい。
そうならないために数千文字の短編で小さな達成感を得て、やる気を持続させたりする。
同時進行でなくても長編、短編、長編という感じで緩急をつけるのも有効だ。1つの長編のみで何百万字に達する人もいるけれど、とても私にはマネできない。
小さな達成感を得る選択肢の中で、文章というより詩や歌詞に近いラップが浮上したのは、過去に聴いていたのが関係しているだろう。
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今から20年くらい前の曲で、KICK THE CAN CRUWの「イツナロウバ」というのが存在する。
内容を簡単にまとめるなら、「夏を過ごす若者の心情」といったところだろうか。
曲の最後で繰り返されるサビの前、とくに次の部分が好きだ。
朝まで、という発音は英語の「a summer day」と近く、夏をテーマにした曲と合致しており、始めて聴いたときには鳥肌が立った覚えがある。
曲名のイツナロウバも同様に、「It's not over」のくだけた発音であり、「それは終わっていない」の意味だ。
そこから自分でも書いてみるまでには至らなかったけれど、1つの言葉に複数の意味を持たせる技巧への驚きと憧れは、静かに自分の中で育っていたのかもしれない。
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かくして、小説を書くために増やした語彙が苗床となり、ラップを書くに至るというわけだ。
あまり一緒にされたくない人もいるだろうけれど、多くの単語を扱う点では詩や短歌とも共通している。
心に浮かんだものを表現するのに、余計な手間をかけて分かりにくくするのが適切かと、わりといつも考える。
それでも私は拘りたい。
百年あるいは千年など望むべくもなく、せいぜい1週間くらいしか記憶に残らないとしても、形を変えた1枚の写真として残したい。
写真を撮るのは目の前の光景を残したいと思うからで、おおげさな言い方をすれば感動した証拠だ。
かつて感情を失っていた時期があり、そのときは心の動きが苦痛ですらあった。
それでも蛇口から出る水をそのまま飲むのではなく、冷やしたり温めたり、お茶やコーヒーを淹れるなどといった楽しみを探し始めた。
心が死んだような気がしていたのに、まだ自分の中では変化を望む若芽が育ち、その成長を見届けたいと思うようになった。
絶望を味わうことのない人生は幸運だし、すすんで自ら不幸に近づく必要もない。
望んでいないのに起こる不幸を、神からの試練として捉えようとする向きがあるけれど、あまり私は賛同できない。
一方で、人生が他者により委ねられたものだと考えることで、自分は頑張っている、悪くないと擁護するのには賛成だ。
あまりにも肥大化した自尊心は癌に成り得るけれど、自らの内側から聴こえる声に耳を塞いでも意味がなく、むしろ外からの音が遮られてしまう。
やがては目と口が悪くなり、耳は遠く、思慮は浅くなっていくにしても、こうして自覚する手段を持ち続けたい。
◇
よく人生を白紙の地図になぞらえ、将来は自分次第なのだからと激励する流れがある。
間違ってはいないと思うけれど、地図が役に立つのは現在地が分かっているからで、進む方角を間違えれば目的地には辿り着かない。
現在のスマートフォンにはGPS機能があり、いつでもだれでも現在地を知ることができる。
でもそれは端末の発する電波が頼りなので、バッテリーが切れるなどすれば地図上の自分は存在しなくなる。
現実の自分が消えることはないにせよ、スマートフォンを持ち歩くのが当たり前になって、不安を覚えるという人も多い気がする。
しかし人間には記憶という地図があり、合わせて写真や映像、音声なども再生できる。
さらに目や耳を駆使すれば、おおまかな現在地を知ることが可能だ。
ラップを書くことは現在の心を表現し、人生の地図上に自分を見つけ出す行為だと思う。
それは詩や短歌といった創作全般に言えるけれど、過去に自らを見失った経験があるからこそ、これからも私は現在地を探し続けるのだろう。