あなたの同志に敬愛を、敵に銃弾を
『同志少女よ、敵を撃て』 逢坂冬馬
読了レビューです。
文字数:約1,500文字 ネタバレ:一部あり
歴史の中には偶然が重なって出来たものがあり、本作の刊行もそれに含まれる、というのは良くも悪くも神の存在を認めるようなものだろう。
今なお続くウクライナ戦争の遠因になったもの。
それは本書に記された大祖国戦争であり、ドイツおよびヒトラーの野望であり、あるいは人が人である故なのではと思わずにはいられない。
本作の主人公、セラフィマ・マルコヴナ・アルスカヤは小さな村の少女でしかなかった。
それが帝政ロシア崩壊により教育を受けられ、やがては狙撃兵として成長すると誰が想像しただろう。きっと本人さえ予想していなかったはずだし、「そうでなかった未来」があったのかもしれない。
残念ながら世界は戦いを選んだらしく、本書において何度も目にする「〇〇万人」は形を変えて存続している。
なぜ人が戦うのか、という問いに対する答えの1つが本作にも提示されている。
怒りという感情は人を奮起させ、危機から脱するための精神力を与える。
私自身、それを糧に生きていた時期がある。人のせいにして今の自分を正当化することは、ある一面では正しくて効果ありと言わざるを得ない。
けっこう前に「復讐は何も生まない」への反論があったけれど、私は少なくとも意味があると思う。
日常を愛する心理があるように、それを奪った者への憎悪が燃え上がって殺戮を肯定するのは、わかる、と呟いた。とてもお見せ出来ない当時の書き殴りが、それを証明している。
人が生きる理由とは何だろう。
セラフィマの戦友で仲間たちから「ママ」と呼ばれるヤーナ・イサーエヴナ・ハルロワに、私は一番近い気がする。
他の仲間たちが抱く理由のどれかに当てはまるような気もするし、理由と呼ぶには迷う理由もまた、人らしさを感じさせるものだった。
未来はともかく、現在を生き抜かないと続かないし、とある戦友がそれを体現している。戦争は非情だ。それを悪い意味で感じさせないのが、現代の戦争なのだろう。
本作にはスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチによる『戦争は女の顔をしていない』への言及がある。
小梅けいと作画によるマンガ版を読んだ限りでは、本作を側面から読み解くものとなる一方、フィクションながら1人の兵士に焦点を当てた本作とは趣が異なる。
村娘のセラフィマが人を撃ち、それを肯定していくようになる姿は、戦争における正気であり、平和においては狂気なのだろう。
翻って自らを正当化する、つまり敵を「フリッツ」や「カッコー」と呼んで人間と思わないのも大切なことだ。私も知っている「(自主規制)」もそれと根底は同じだろう。
自分と相手は違うと認識すれば、どこまでも非情になれる。そんなことない、と反論する人が正義を振りかざしたりするのだから、鏡を見ることは大事だと思う。
怖いのは鏡が始めから歪んでいたり、映るものを都合よく見ることで、空気などと呼ばれるものがこの国にも存在したし、今なお残り続けているとして間違いない。
タイトルにある「同志」や「敵」が誰なのか、何なのか。
私たちは標的を見誤ることがあっても、学ぶことのできる賢い動物であることが、「人間」と呼ばれるには必要なのだろう。