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私がラップを書くまでのMAP 1/2

【文字数:約2,100文字】

 楽しいから

 五文字で終わった即終了

 だけど不足する心情

 ここは自らを晒す会場


 とまぁ、冒頭から思いつきラップを披露したので慰労して欲しいと所望。

 最後までこの調子だと疲れるから、ここからは真面目に始めてみるとしよう。

 ◇

 今をさかぼのることX0年前、なぜか国語の授業で野外に出た。

 自然を観察することで着想を得て、自分なりの詩を作る参考にして欲しいとのこと。

 とくに決まったコースがあるわけでもなく、かったりぃなぁとぼやく同級生を置いて、私は柵を乗り越えてやぶに入っていった。

 記憶だと時期としては珍しいキノコが生えているのを見つけ、それを見たさに散策コースを外れたのだと思う。

 今現在、人生の王道ルートからも外れているのは、もしかしたらそのときが始まりだったのかもしれない。

 それはともかく。

 授業で私が提出した詩を完全には覚えていないけれど、筆名ことペンネームは「きのこじめお」で、目立たない湿っぽい場所に生えてるけど忘れないでね、みたいなジメジメした内容だった気がする。

「りんどんくんは個性的な作品を考えるんだね」

 それが皮肉か称賛なのか、今となっては教師の顔を思い浮かべないと真相に迫れない。

 たしか「徹子の部屋」に登場する女優さんっぽい先生だったから、とても優しい・・・人だったのだろう。

 キノコ見たさに道を外れた他にアクシデントもあって、すっかり同級生たちからヤベー奴の認定をされたのだと、当時の私は知る由もない。

 その後、思いついた言葉を川柳にしてみるなどはあったけれど、今のように積極的かつ阿呆なものを書くようになったのは数年前からだ。

 上記の記事にも書いているとおり、SNSという発表の場があったからこそ今の自分が存在する。

 とはいえ、小説の経験もラップ創作と少なからず関係がある。

 ◇

 小説というか日本語の文章には、ひらがな、カタカナ、漢字の3種類で構成されており、alphabetアルファベットで略称を表す場合もある。

 例えば冒険活劇と分類される作品で、次のような文章があったとする。

 勇者は始めの村を訪れて仲間を見つけて意気投合し、それからも各地を訪ねて同志を集め、結果的に魔王軍に匹敵する勇者軍を創設した。

 内容は奇妙ながら文章のリズムとしては問題ないと思う。

 ただし、ここで忘れがちな点がある。

 webには自分と同じように文章を読む人ばかりではなく、先の一文をやたらと長く感じたり、面白くないと切り捨てられる可能性もある。

 そうした人向けに調整すると次のようになる。

 俺、こと勇者は始めの村で仲間をゲット。それからも行く先々でソウルメイトたちと出会い、マオー軍と同じくらいビッグなユーシャ軍を作ったわけ。OK?

 だいぶ偏見が混じったのは置いといて、調整に必要なのは間違いなく語彙ごいだ。

 単純に「仲間になった」と書くのではなく、始めの「意気統合した」とか「同志を集めた」のような漢字や慣用表現を用いる他に、軽い作風なら後の「ゲット」も有効だと思う。

 そして小説は視点の位置によっても表現が変わる。

 始めの文章は勇者が語っているのではなく、物語の外にいる第三者が解説しているような視点であるのに対して、後のものは「俺、こと勇者」が語る一人称の視点だ。

 「小説 書き方」などと検索すれば出てくると思うけれど、設定する視点によって描けるもの、描けないもの、描き方がそれぞれ変わってくる。

 そうした違いについては他の記事に譲るとして、小説が同じ内容で複数の言い換えをする訓練になると証明できたのではないだろうか。

 ◇

 小説を書くために様々な表現を探す中で、同じ音で違う意味の言葉、つまり同音異義語によく泣かされた。

 先の文章だと「創設」が「早雪」になるなどの間違いならともかく、有名な例では「付き合う」が「突き合う」になって、いい雰囲気が急にバトル展開に突入したりする。

 ラップも同じ音や似た音で歌をつなげるし、そうした「韻を踏む」と呼ばれるのに近い技法は「掛詞かけことば」として存在した。

 おとにのみ きくの白露 よるはおきて ひるは思ひに あへずけぬべし

古今和歌集470 素性法師

 現代訳としては

 あの人を噂にばかり聞いて、菊の白露が夜は置き昼は光に耐えられず消えてしまうように、私も夜は起きてばかりいて昼は恋しい思いに死んでしまいそうです。

 となるそうで、「きく」が「聞く」「菊」、「おきて」は「置きて」「起きて」の掛詞とのこと。

 1つの文章に複数の意味をもたせ、豊かな情感を表現しようとした人間たちが先祖なのだから、令和の現代において子孫が同じことをしても不思議ではない。

 それは俗説に過ぎないとしても、同音異義語の存在によって言葉の音に注意を払うという素地は、知らずに養われていると考えていい。

 わざと話を壮大にするなら、始めの人類は音声で意思疎通をしていたけれど、その後に文字を発明して今に到るわけで。

 つまり音声を主として捉える姿勢は、体に刻まれた原初の本能を呼び覚ます……かもしれない。

 ◇

 ずいぶん長くなってしまったマップ

 シマウマのように白黒つける

 もうすこし続く つづる 伝えると

 最後にラップで包みます



なかまに なりたそうに こちらをみている! なかまにしますか?