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つれづれなる2022 ~ネムダルアの目覚め~

【文字数:約2,700文字】

 古風なゲームタイトルっぽくしたみたけれど、つまりは2022年の振り返りだ。

 私がnoteを始めたのは去年の11月頃で、Twitterでやり取りをしていた人が登録しており、その流れで始めたと記憶している。

 ただし自分でも記事を書いたのは登録からしばらく経った後で、始めは読書感想文を投稿していた。

 記事としての体裁や機能にも慣れてきて、他の人の記事を読みに行きコメントしたり、引用での記事を書くなどするのが今年の始めくらいだろうか。

 先日にLoris_M.さんが「つれづれモノローグⅣ」で振り返ってくださったけれど、その中に書いていた引用記事が ↓ だ。

 自治体側の設定ミスにより、津波の緊急速報メールが10分おきに届いたことに触れ、タイトルの参考という形で ↓ の記事を引用した。

 よければこちらも、みたいな軽い気持ちで引用したけれど、それが現在まで続くやり取りに発展するとは考えもしなかった。

 私がLoris_M.さんに興味を持ったのは偶然で、イタリアで過ごしている日本人の生活が、例の感染症もあって眩しく思えたような気がする。

 先の「つれづれモノローグⅣ」では、他にも私の作品ランキングTOP3をあげてくださり、その3位に位置する『ある日、兄と弟は』の投稿が1/19なので、これまた偶然の近さで視界に入ったのかもしれない。

 その後、何かしら書けばコメントしてくださる中で、老婆の日常茶飯事さんとのやり取りにつながった。

 始めは私を上品マダムかと想像していたらしく、期待を裏切ってしまった現在でもやり取りが続いているのは、正直なところ奇跡かもしれない。

 ↓ の記事では「一風変わった感性の持ち主」という誉め言葉をいただき、キノコ推しとなる今現在への道筋を作ったと言っても、おそらく過言ではないだろう。

 少し前に投稿した「コメント響・恐・狂想曲」でも触れたけれど、御二人の読者がいるから様々な話を書く気になったし、タイトルにしたネムダルアが目覚めたのも無関係ではない。

 ワクチン接種の副作用により眠くて怠く、熱も出ているから汗くさい三重苦を経て、ネムダルア・セクサイは目覚めた。

 しょーもない言葉遊びながら以降もコメントを読む限り、Loris_M.さんの飲み物を何度ダメにしたのか恐ろしくなる。アヤマルワ・ユルシテ。

 ◇

 ここまで読んできた方は想像できるかもしれないけれど、Loris_M.さんとのやり取りが今現在もnoteを続けている大きな理由だ。

 冒頭に書いたTwitterでやり取りをしていた人は、例の感染症による影響もあるのか、年が変わったあたりから更新が疎らになっている。

 私に「りんどん」の名前を付けたのもその人なので、noteを続ける理由もまた失われたような気がするし、投稿にかける時間と労力を使えば、積んである本の解消が果たせるかもしれない。

 とはいえ、基本的に職場と自宅との往復になりがちな人間にとって、自分とは違う日常を生きる人の存在は、見ず知らずのNPCでしかない他人を1人の個人へと変えてくれる。

 ことLoris_M.さんに関して言えば、身体的な不安を持っている点であるとか、負けを認めたくない性格、小説を書くまでの経緯など、どうにも親近感を覚えずにはいられない。

 近年は疲れるので人と争わないようにしているけれど、いったん火が着くとよく燃えるため、今年の始めには素手でガラスを叩き割った記憶がある。

 そうした心根が影響しているのか不明ながら、noteが2年目になっても人望は厚くならず、興味を持った人が次々と更新しなくなっていく。

 おぼろげながら理由は推測できる。

 昨今の情勢が多くの人から物心両面の余裕を奪ったのはもちろん、noteの表示方法が変わったことも無関係ではないと思う。

 未知の記事につけられた背表紙が目を引く、まるで本棚のようだった表示方法は項目ごとに変更され、他者と関わるには能動的な動きが必要になった。

 見ず知らずの誰かと出会う確率は減り、反応の薄さがモチベーションを下げ、結果として更新する気が起きにくい。

 私なりの仮説に過ぎないけれど、過去に活動していた投稿サイトでも似たような話は見聞きしていた。

 新規ユーザーは自作を読まれたいがために、物語の内容を吟味することなく高評価を付けるので、ランキングが実態と乖離かいりするという問題があった。

 noteにランキングは存在しないけれど、それに代わる別の評価軸が存在しているので、いつか見た景色と出会うことがたまにある。

 とはいえ、ユーザーが100人いれば反応も100通りあるかもしれず、ある項目にしぼって探す、俗に「掘る」と呼ばれる作品探しがやりやすくなったともいえるだろう。

 ◇

 今年の1/2に私は ↓ の記事を投稿していた。

 拝啓で始まり敬具で終わる、なんとも格式ばった文面だと思いつつ、このときの「今年は何ができるのか」は常に頭の片隅にあったような。

 何かしら形にするという目的というより指針によって、noteで活動を続ける理由の補強になっていた。

 頭の中にしかないアイデアだけの作品は、いくら名作だと自信を持ったところで形にしたら勘違いだったりするし、他者からすれば例え話に過ぎない。

 この1年、noteで書いてきた記事すべてが自分にとっての作品だ。

 読者を想定して内容のさじ加減を考え、PCとスマートフォン両方で読みやすさの最適解を模索し、自らが楽しむことも疎かにしていない。

 私が書き得ないものに触れて悔しがるのではなく愉しみ、暗くなりがちな世界にあって、自分以外への想像力を保てたのはnoteのおかげだ。

 今年の2月末より続く軍事侵攻は、世界の形を変えてしまった。進化し続けると思われた人間が、足踏みどころか退化しているように感じる。

 1つの生命体は自分がもっとも大事だから、そのために他者を食い物にすることを世界もまた許容する。

 けれども人間による最大の人工物、つまり社会がそれを拒否することで、今現在の世界は成り立っている。

 この国が1週間もない独断で防衛費を増額した現状を見るにつけ、何のために祖父は中国戦線で死地を歩き、過酷なシベリア抑留を生き残ったのだろうか。

 それを見届けるためにも、来年もまたこの世界にいる意味があるのかもしれない。

 本年に関わった、もしくは関わり損ねた人々すべてが、生きる希望を持てることを願いつつ、結びの挨拶とさせて頂きます。

 ありがとうございました。Ci vediamo l'anno prossimo.


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