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VTuberのVについて考える

『VTuber学』岡本 健/山野弘樹/吉川 慧 編著
読了レビューです。
文字数:約2,800文字 ネタバレ:一部あり

※本稿において執筆者は敬称略とする。


 私は現在、VTuberを題材に取り入れた作品を書いており、本書を手に取ったのも資料とする目的があった。

 本稿もその点を重視することになるが、本書全体を通してのレビューに関しては執筆者の1人がnoteにて実施しているので、そちらを参考にして頂きたい。


 VTuberを題材としたフィクション作品については、関根麻里恵による第Ⅱ部「調査編」の第6章【メタVTuberコンテンツの表象文化研究──「匿名性」「有名性」「声」「ジェンダー」から考える】において、次のように定義されている。

本章ではVTuberが描かれるフィクション作品のコンテンツの総称を「メタVTuberコンテンツ」と名付け、どのような視座から分析可能であるか、その可能性を幅広く提示しながら、実際に一作品を例に分析を試みる。

p180

 本稿を執筆中の2024年9月現在、アニメが放送中の七斗七『VTuberなんだが配信切り忘れたら伝説になってた』を含めた複数の作品を挙げ、おおまかに物語の類型が2つあるとしている。

主人公自身がVTuber、もしくは、主人公が応援している「推し」がVTuber、という二つのパターンに大別することができるだろう。

p181

 ちなみに、例示されている作品群の中に以前、少しだけ交流のあった方の作品があり、懐かしくも嬉しい気分になった。


 作品を描くためには基本的に物語を観測する主人公が必要であり、自身がVTuberなら俗にいう「中の人」としての視点やエピソードが、推しがVTuberならリスナーからの視点でそれらが観測される。

 後者の場合、リスナーがVTuberの活動を応援するのみであれば、物語として成立させるのは難しいように思う。

 現実において活動を通じて制作された曲を聴いたり、雑談の配信に笑ったり涙したり、推しが同じ人と交流したりといったエピソードが想起されるけれど、それらは「一般的の体験」となる。

 フィクションは節度を守りつつ何でもありの世界なのだから、リスナーの主人公がVTuberの中の人と遭遇した、あるいはVTuberの主人公が熱狂的なリスナーに遭遇した、といった物語にしたい。ソースは私。

 第6章で関根は次のように指摘している。

VTuberは、匿名性──個人で活動しているにせよ、事務所に所属して活動しているにせよ、基本的に「中の人」の身体や顔をさらすことがない──が担保されているため、この匿名性をめぐった出来事が物語の主軸に置かれやすい。

p181

 この指摘は本当にその通りで、前述した七斗七『VTuberなんだが~』や遊野 優矢『VTuberの幼なじみと声優の幼なじみが険悪すぎる』は読者からすると、タイトルを見た時点で匿名性は失われている。

 個人的には物語内でVTuberとして判明した、またはしそうな主人公ないし登場人物が、どのように他者と関わるかに注力したい。

 最後まで判明しない、というのもアリかもしれないが、それは読者からするとモヤる展開なので難しいように思う。

 おもしろい物語とされる1つには揺れ動く心、葛藤が描かれることで「自分ならどうするか」といった自己投影が起き、それが没入感の源になると考えている。

 VTuberだとバレたどうしよう、バレそうだけど隠し通す、中の人だと知ってる彼または彼女にどう接しよう等々、並べただけで私が読みたい。


 中の人とVTuberの姿形は異なるもののの、「声」についての次の指摘もソーナンス!と額を打った。

匿名で活動していたキャラクターの正体がばれてしまう展開、いわゆる「身バレ」、が起こる要因として「声」が用いられやすいことに気づく。

p188

 機械的に声を変えてVTuber活動をする人がいないわけでもないが、基本的に素の声(地声)ないし、声優のような演技としての声を用いる人が多い。

 完全に切り替えたとしても、それは「中の人」と切り離せないものであり、姿形の異なるVTuberとを繋げる糸口となる。

 むしろ他にあるのかと考えたとき、趣味嗜好や行動といったものになるだろうけれど、決定的かつドラマ性のある要素として「声」が重要なのは疑いようがない。

 第5章のコラム4には『鈴波アミを待っています』の著者、塗田一帆へのインタビューが掲載されているのだけど、その作品においても「声」が重要な描写がある。

 そうした事例を踏まえて考えてみると、Aという人間を他者が認識する要素とは何か、という疑問に行きつく。

 当然ながらA自身が見て聞いているものを、他者が同じように知覚することはできない。ただ、音楽や映画といった共有できるものは存在する。一緒に過ごした記憶、あるいは配信もそれに含まれるだろうか。

 しかしながらそれらは普段、表に出ているものではなく、この世界に干渉する力を持たない。具体的な行動が為されない限り、AをAだと認識する手がかりは容姿のみとなる。そしてVTuberと中の人の姿は異なる。

 こうして考えてみると、VTuberは姿形こそ作られたものであるけれど、中の人または「魂」とも呼ばれる存在と分かちがたく結びついており、それは生きた人間を想うのと何ら変わらない気がする。

 また、作品におけるVTuberが作者の意図した存在であるのに対し、現実のVTuberは配信などによって物語を作り出している。第11章「人格(ペルソナ)としてのVTuber」を読むと、それにリスナーが参加しているのだとして解釈しても相違ないだろう。

 物語に参加できるなんて楽しいに決まっているし、歴史の証人となれる可能性すらある。「あの〇〇っていうVTuber、デビュー準備中のときから見てるよ」とか言いてぇ~!

 ちなみに、さかめがね『遠くに行ってしまった気がした推しが全然遠くに行ってくれない話』がそれと近く、とても好きで2次創作まで書いてしまった。

 中の人とVTuberの関係性については第Ⅲ部「理論編」の第9~13章で様々なアプローチが試みられており、難解ながらも「VTuberとは?」という問いの参考になるはずだ。


 ここまで拙文ながら、1人の創作者としての視点でレビューを試みた。

 本稿では言及しなかった第Ⅰ部「VTuberことはじめ」は、VTuberが誕生するまでの経緯や、2つの大手VTuber事務所C社とA社についても書かれ、去年までVTuberがよく分からなかった人間には大変ありがたい。

 何を隠そう私は去年まで、「なんかVTuberっちゅうのがいるらしい」程度の認識しかなかった。

 そんな人間が基礎を知り、理解を深めることのできる本書は、1つの歴史が作られていく過程を記した、貴重な資料となるだろう。





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