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詩に出会い、再発見するまでの話

【文字数:約1,200文字】

 NHK教育あるいはEテレには「100分de名著」という番組があって、1月は金子みすゞの詩を取り上げていた。

こだまでしょうか、いいえ、だれでも。

『こだまでしょうか』

 あるいは

みんなちがって、みんないい。

『私と小鳥と鈴と』

 そう結ばれる詩は見聞きしていたけれど、他には正岡子規のように短命だったということくらいしか知らなかった。

 とはいえ、まったく興味がなかったわけでもなく、いつか、いつかと思っているうちに時間が経っていた。

 私がTwitterで「#詩」などとタグ付けされたものを目にして、SNSを発表の場として認識したのは数年前に過ぎず、意識して投稿し始めるのに至ってはさらに後だ。

 始まりは言葉遊びの面が強くて、韻を踏んだRAPを中心に投稿していた記憶がある。しかもwebで小説投稿をする合間なので、ことさら詩だけを意識するわけでもなかった。

 ところが昨年の10月頃になって、それまで情熱を傾けていた小説を書く気が失せ、源泉にあたる創作意欲すら湧かなくなった。色々なものが積み重なって、疲労骨折のように限界をむかえたのかもしれない。

 しばしの空白期間を経て、Twitterの投稿枠140文字の中でなら何か書けるかもしれないと、ある日に点滅するカーソルを眺めていて思った。

 少しずつ興味の範囲を広げ、「54字の物語」や「140字小説」にも挑戦していくうち、失ったかに思えた前向きな意欲に気づく。

 そんなときに先の金子みすゞ特集を観て、初期作の「おさかな」を知った。

海の魚はかわいそう。

お米は人につくられる、
牛は牧場で飼われてる、
鯉もお池でを貰う。

けれども海のおさかなは、
なんにも世話にならないし、
いたずら一つしないのに、
こうして私に食べられる。

ほんとに魚はかわいそう。

『おさかな』

 「魚がかわいそう」と言いながら、それを食べて「ほんとに魚はかわいそう」と結ぶ展開に驚き、さらに7音と5音の言葉を使う「七五調」という構成を知った。

 それまで音数を重視する俳句や短歌などは書いていたけれど、詩にも具体的な構成があるのかと、一気に親近感が湧いた。

 結果として、こちら↓のような詩を書くに至る。

 Twitterで目にするのは音数を意識せず、書き手の裁量に委ねられている作品が多かった。言い換えれば自由で無秩序だったから、短編小説の1つとして認識していた。

 ところがそこに音数の概念が入ることで、以前から親しんでいた俳句や短歌などと地続きになった。

 金子みすゞの他作品には七五調にとらわれないものもあるけれど、音数というかせをつけて世界を描く構成に惹かれる。

 それは金子みすゞが26歳で自死を選んだこととも、多少は関係しているのかもしれない。

 最後に『大漁』という詩を引用し、本稿を締めることにする。

朝焼け小焼だ、 大漁だ
大羽鰮おおばいわしの 大漁だ。

浜は祭りの ようだけど、

海のなかでは 何万の、
いわしのとむらい するだろう。

『大漁』


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