ハッピーエンドを続けるために”小さじ1”の声を。
「──ただいま」
誰にともなく声を落としながら、寄りかかるようにしてドアノブを掴んだ。
ドアポストにはチラシが数枚溜まっている。
家に戻るのは5日ぶりだった。
日づけが変わる少し前に、ようやく着いた。
三半規管が弱いらしい。
新幹線で酔ってしまい、ホームのベンチで休むうちに遅くなった。
築30年のマンションはロの字型の建物で、中庭にひょろりと幹の細い木がある。その丸っこい葉っぱに、雨粒がしゃらしゃらと弾ける音だけが響いていた。
軋んだ音とともに扉を開ける。
廊下のやや暗めの光が、ワンルームの冷え切った玄関の床を橙色に染めた。
濡れた傘を床に置く。
黒のパンプスを脱ぐ。
ふっと開放感があった。
同時になにか黒いものも襲ってきて、そのままキッチンにぺたりと座った。ジャケットを脱ぎ、力なく放る。
面接官の嘲笑が蘇る。就活は全滅。
足元から底なし沼のように、沈む感覚があった。
電話が鳴る。ポケットをまさぐった。
ピンク色の折りたたみの携帯電話。……これじゃない。音の出どころは細長いおもちゃみたいなPHS。
『家、着いた?』
数時間前に東京駅で別れた彼からだった。
「うん」
声がワントーン跳ねる。
遠距離恋愛をはじめてから、2年になろうとしていた。
「またね」
この日も新幹線の搭乗口の前でいつものように別れた。自由席に座り、彼にもらったMP3で曲を流すと泣きたくなったので、DSで彼に借りたゲームをした。
就活のおかげで前よりたくさん会えるけど、もの足りなかった。
首を傾け、耳との間にウィルコムを挟みながら着替える。
冷蔵庫から卵を出す。
他愛のない話をしながら、熱々のスープをつくった。
「ちょっとまって」
卵を流し入れるのは、電話しながらじゃできない。ボウルを傾ける。──あ、失敗した。
澄んだスープが、どろりと濁ってしまった。
こうなると、あまりおいしくはない。
それでも、はふはふと息を吐きながら、少しずつ口に含む。しゃべれないので恋人の話を聞く。雨音がすきま風と共に吹き込む。
東京でも雨は降っているだろうか。
「……もしもし?」
『……』
「おーい」
『……』
声が途切れた。恋人はいつでもどこでも寝られる人だ。しゃべりながら眠ってしまったのだろう。
「おやすみ」
切ない気持ちで口にして、電話を切った。
ウィルコムの裏には2人で撮ったプリクラが1枚。
たまごスープは、冷めていた。
この距離を、超えていきたい。
朝いちで新幹線に飛び乗ってしまおうか。
むり。──明日は授業がある。
飲み終えたスープの皿をシンクに置く。
冷蔵庫のぶうんという音だけが耳についた。
「ただいま」
「おかえり」
そんなふうに言える日は、来るのだろうか。
──15年が経った。
スマホの通知が鳴り、GPSアプリを開く。
娘はもう家に着くみたい。
「ただいまー!」
「おかえり」
「タブレット重かったー」
ラベンダー色の重たいランドセルを玄関に置きながら、娘が言う。
「疲れたね。あ!ランドセル持っていきな」
「あとで!」
娘がSwitchの電源を入れる。
わたしは低い声で怒る。
卒業後、東京で就職した。恋人の家から徒歩5分のマンションに住みはじめ、結婚したのはわずか1年後。
一気にゼロ距離になった。
結婚というのは、ゴールだと思っていた。
物語の終わり。
ハッピーエンド。
ずっと幸せに暮らしましたとさ、めでたし、めでたし……なんて。
ところが、「おかえり」と言える関係になったのに、けんかが多かった。
四六時中いっしょにいるから、価値観の違いでぶつかる。恋人から悪友のような雰囲気に戻った。
小学生男子のような、とげのある言葉が多くなった。
夫が帰ってくると、子どもたちが「おかえりー!」とにこにこして駆け寄る。彼も頬を緩めて「ただいま」と言う。
「先、ごはん食べる?」
おかえりの代わりの、ひとこと。
「ん」
ただいまの代わりの、ひとこと。
胡麻油をひいた鍋に、冷凍庫から出したエノキを入れた。
しんなりしてきたところで水を注ぐ。スプーンで崩した豆腐と、やはり冷凍庫から出してきたニラも。味つけは、鶏ガラスープの素と白だし。
黄金色のスープが、ぼこぼこと沸騰した。
溶きほぐしておいた卵を、ゆっくり回し入れる。
スープは濁ることなく、卵が花のようにふわりと浮かんだ。
そういえばもう何年も、卵スープは濁っていない。
静かにうつわに注ぎ、すり胡麻とねぎを、ぱらり。ラー油もひと回し。
ゲーム実況がリビングに響く。
子どもたちが大声で笑う。スープをダイニングに置いたら、ゲーム仲間としゃべっていた夫がヘッドホンを外した。
──うるさいなあ。
顔をしかめながらも、さっき味見した卵スープが身体の中をぽっと温めていく。
「のぞみ!」
画面の中ではYouTuberがマイクラで新幹線の車体を再現していた。
ぎゅんと過去に引き戻された。
夫の丸くなった背中のシルエットに目をやる。
ハッピーエンドを続けていくためには言葉が必要だ。明日夫が帰ってきたら、言おう。
「おかえり」
(2,000字)
「 #モノカキングダム2024 」応募作品です。
▼夫とのことを書いた記事。