悔し涙の自覚
大人になってから「泣く」という経験は圧倒的に減っている気がする。
「年をとると涙もろくて…」という親戚もいたから一概に涙する回数とは直結しないと思うけど、やっぱり中学生の多感なわたしを思い出すと、今のわたしはすぐに泣けなくなっている。
代わりに、ふいに涙が出てくれたとしても、正体不明な感情を自覚できないまま、時間もないしってどうでもよくなってきて、ティッシュと一緒にゴミ箱にポイっとなる。結果として、ただ理由もわからず涙が出て、本当の自分を遠く感じてしまう。
そんなことを思いながら、今週のわたしは悔し涙したと思う。
大人になると、自分の力だけでできることなんか限られていることがよくわかる。昔のように、次から次へと流れる涙ではなかった。それなのに、拳を握って息を止めたくなるような。次の瞬間、「あ、今わたし悔しいと思っている」と自覚した。周りに期待したり、自分らしくいられない環境を恨んだり、感謝してもまた裏切られたり、でも昨日まで嫌いだった人に助けられて人を好きになったり。そんなことを繰り返して、結局思ったことは、「私はこんなもんじゃない。こんなところで終わるのはわたしではない。周りが期待していることと、私が期待しているわたしが同じではなくてもいい。私の時間は私のものなんだから、そして相手の時間は相手のものだから、どちらも尊重されるような時間を私が生み出せばいい。それが私の本当にやりたいことではなかっただろうか・・・」
悔しさを原動力にしてきた、いわゆる悔しさスペシャリストの私だから、こんなにもファジーな感情を悔しさだと認識することに戸惑ったのだと思う。(はじめまして、悔しささん。昔から馴染んでいたあなたと、今は全然違う姿のようですね。)
自分はこんなもんじゃないのに。
これを続けた先に、周りの人と自分にとっての幸せはあるのだろうか・・・
あぁ嫌だ、でも明るくいよう、チョコを食べながらPCいじる。
すると、聞き慣れた声が流れてきた。
そうだ、いつかの私はこうなりたいと思っていた気がする。
わたしは人の幸せに貢献したいし、そして自分が幸せな気持ちになりたい。だからリーダーを目指し、マネジメントを学び、みんなの器になりたいと思って走ってきたんだ。私の義憤はいつも「理想のリーダー像」「マネジメント」の中にあるんだと思う。
今は尊敬するマネージャーのもとで、これまで尊敬してきたリーダー達から学んだあらゆるスキルを引き出しとして持ちながら、リーダーとしての自分を再構築していきたい。
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