「水際」 ~ 塩素と陽射しとちょっとハナミズ ~
余白の匂い
香りを「聞く」と言い慣わす世界に迷い込んで十余年。日々漂う匂いの体験と思いの切れ端を綴る「はなで聞くはなし」
土曜の朝のクリニックはすっきりと空いていて、窓の下の見慣れたアーケードも整然と開店の時間を待っている。待合室の棚から手に取ったコミックでは、高校生の帰宅部コンビが川沿いの階段に腰かけてとりとめのない会話で時間を潰している。やんちゃそうな方のモーレツな関西弁がページから溢れ出す。
「…ああそう子供の頃な…夏祭りもクリスマスも昔あんなに楽しかったのに、年々あれ? こんなんやったっけ? と思うねん
ほいでもうあの時の楽しさを一生越えることはないんちゃうかと思ったら めっちゃこわない?」*
*出典:此元和津也『セトウツミ』1巻、「別冊少年チャンピオン」連載2013、P.17
映像でも聞き覚えのあるセリフを目にしたとたん、これで三度目か、私は塩素の香りに満ちた真夏のプールを急浮上し、午後の陽射し溢れる水面からズボリと顔を出していた。少し鼻がツンとするのは、水が入ったせいだ。
プールサイドには白地に青い水玉のスイムスーツの母が、麦わら帽子の下で眩しそうに笑っている。足元には水に漬かりすぎて唇をムラサキにした妹が、浮輪の赤い穴から小さな顔を出して犬掻きしている。
私はといえば水中でんぐり返りのしすぎでどっちが上か下かよくわからない。水から顔を出した時だけ頭上にくる目も開けられないほどの太陽や、其処ここに立つ水柱、水面に散る飛沫のキラキラで、ようやく市民プールの水槽にこうして立っているのを感じている。
「マーマも、来いーてえー!」
母は笑って手を振っている。
大人はいいの、そう言ってちっとも水には入らないって、一体どうして?
もしかしてこんなに楽しいことがそうじゃ無くなってしまうのなら。
── 私は大人になんかなりたくない。
いつしか私も母の年齢を越え、マイルドになった塩素の匂いは今では穏やかな週末の楽しみになっている。水中でんぐり返りは出来るかもしれないが、やめておく。
あの日の光景、今ならこんな風にも思える。
ビーチタオル越しに太陽の熱を背中に感じながら、プールに浸した爪先のその先でびしょ濡れで真っ黒な顔をした娘達がはしゃいでいる。眩しさに目を細めながらその時母は誰よりもリアルに彼女なりの30代の夏の一日を楽しんでいたのではないだろうか。時には陽を浴びたタオルやふとした消毒薬の匂いに誘われて、後々懐かしいような切ないような遠い気持ちでその日の光景にワープしたこともあったかもしれない。
待合室の風景はほとんど変わらない。指が止まったままのコミック本のページでは、真面目そうな相方クンが本心なのか決まり文句なのかクールに返している。
「そうか? 大人になったら大人の楽しさがあるんちゃう?」*
*出典:同上
二人の視線の先には、くたびれた風体のオッサンがさっきから川べりのフェンスにもたれているばかりだ。
大人の楽しさってなんだろう?
くっきりとシンプルで、エネルギーに満ちた子供の楽しさはとても彼らにはかなわない。
ただ、甘いような、苦いような、それでいて酸っぱい、辛い、しょっぱい、何とも言えない微妙な色合いと陰翳を帯びた世界が、重なり混じり合って通り過ぎてゆく。そんな瞬間を丁寧にすくい取って慈しむ ”たしなみ” のようなものを身に着けてゆけるなら、歳をとるのも悪くはないと思いたい。
セト君やウツミ君、10代を持て余した君たちがこうして川っぷちでだらだらと過ごす放課後の時間の美しさも、いつか大人になった時、思い出や想像を紡ぐ記憶の引き出しとしてきっと静かにそこに開いているはず。
「〇〇さん、〇〇〇〇さん」
スピーカーの声が呼んでいる。
クリニックともそろそろ十年あまり。お香に入門した年数と重なる。
Ochi-kochi
抜けの良い空間と、静かにそこにある匂いを愉しむ生活者。
香道歴いつのまにか十余年。
Photoマガジン始めました。「道草 Elegantly simple」
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