初ハーフ、完走!
7/17開催の『小布施見にマラソン』に参加してきました!無事に完走。初ハーフ、練習不足でとても不安要素はあったのだけれど、なんとか目標にしていた”完走”は達成できました。
今回は、走っていて感じたことを忘れないようにと思って書いてみました。内面的な想いがたくさん溢れ出てきてしまいましたが、またいつかハーフを走る時、そして仕事で課題に直面した時など、未来の自分に向けて綴ってみたいと思いました。初めてのハーフが小布施でよかった。このタイミングで走れてよかった。秋に向けて、自分の仕事もより一踏ん張り。当面の頑張りチャージになったかな、と思う。
参加する理由は、人それぞれ
私は、20km先にあるゴールに向けてひたすら前を進み続ける集団のうちの1人。すぐ側には、同じようにゴールを目指している大勢の参加者がいる。各々異なるバックグラウンドを持ち、さまざまな想いがある中でたまたま『小布施 × ハーフマラソン』という大会に集まったメンバー。スタートとゴールの地点が偶然、同じなだけ。そのゴールに臨む”状態”は異なる。
ゴールに目標タイムを掲げる人、とにかく完走を目標にしている人、小布施のマラソンが好きでエントリーしている人、仮装してその場を盛り上げたい人など、挙げたらキリがない。ただ、走ることが大好きな人たちだけではない。”走る”という手段で、多様な表現をしようとしている人がいる。そんな多様な想いの元に集まった集団で、同じ20kmを完走した場合、各々の「幸せ」の基準が異なる。
各々が違うストーリーを持ってゴールする。ゴールしたあとは、やり切った感でたいていの人がイキイキしている。目的や想いは違うけど、不思議なことに同じ道を通っているからか、「あれがよかったよね」「あの地点が辛かったね」ってなぜか共感できることがたくさんある。
きっかけなんて、何だって良い。同じ想いや目標を持っていなくても良い。何かを”やりきろう”、”やってみたい”っていう自発的な志が大切なのかも。
私自身も、走ることが得意とは言えず、走った結果も自慢げに提示できるものではありません。ただ、自分と約束したことを果たしたということ、そして新たに挑戦したことが増えた、それだけで自分が誇らしいです。
誰と走るか?
スタートしてしばらくすると、気づくと自分と同じペースで並走していた女性2名がいました。話してみると、過去にもこの大会に参加されていて、小布施近辺に在住とのこと。私が初ハーフでやや心配だと伝え、時にはキツイ登りでゼエゼエしていると、「いまはこのくらいのペースの方が良い」「このペースで行くと後半がもたなくなる、もっとゆっくり行こう」「登りはここの道で最後だからね、あとは下りだから安心して」なんて声をかけてくれて。1人だったら絶対に足を止めていたような場所も、ひたすら安心して前に進むことができた。
この2人のかけてくれた言葉は、私の走るエネルギーになっていた。少しでも前に進む気持ちを失わないように、不安を緩和する言葉をかけてくれた2人には感謝しかないし、自分自身もこういう声かけで気持ちが折れずに済むんだと知った。
もしこの2人が、「こんなとこでゼエゼエしてたら、あと先大変よ」「練習はしたの?」など今の自分に欠けている点を指摘してきていたら、きっと心は序盤で折れていただろう。(もちろん、中にはこの言葉によって奮い立つ人もいるだろう。)
これは、日常生活でも当てはまることなのでは?と感じた。
生活していると、自分の行動に色んな評価・コメントが飛んでくる。それは自分が前に進むためのコメントだろうか?一時的にできていない点を批判して、足を止めるコメントになっていないだろうか?受け取る側の状態によっても、かけてあげるコメントって変わってくるだろうなと思った。
自分は自分、他人は他人
沿道には、たくさんの応援してくれる人がいて、数キロごとに給水や捕食ポイントがある。応援(表現)の方法も人それぞれだ。声かけしてくれる人、演奏してくれる人、垂れ幕やうちわで応援する人、給水・捕食を提供してくれる人。各々ができる方法で、応援してくれている。
そして、ランナーもどれを受け取るかは自由だ。すべての給水スポットで足を止めて、気分転換しても良い。必要だと感じた時だけ手に取っても良い。応援に対して手を振り返しても良い。どれも正解はないし、自分の余裕と相談して決めれば良い。そして、自分がゴールしたい状態に近づけるのであれば、それはより良いと思う。選択の自由だと思う。
他の人が何分休憩していようが、何を飲んで食べていようが、一緒にエントリーした人と必ず休憩場所やタイミングが同じでなくても、全く気にならない。一定のペースで長時間走るのが好きな人もいるし、一挙集中、一気に休憩を何セットも繰り返すのが好きな人もいる。自分がどのタイプか?今の自分が何を必要としているか?がわかっていることが大切だと思う。
提供してくれようとしたもの全てに応えられなくて良い。受け取れなかったことに悲観することも必要ない。ただ、提供しようとしてくれた志に「ありがとう」って心の中で返すことはできる。それが知り合いで、上手く受け取ったり反応してあげたりできなくても、ゴール後に精一杯の気持ちを伝えてあげれば良いと思う。
ただ、なんとなく日常生活に置き換えるとこれが出来なくなる場面が多い気がする。人の要望に全て応えないといけない、その要望に応えようとして疲弊する。他人が仕事していないことを指摘する。休み過ぎ、仕事しないで何しているのか?そんな声が聞こえてくる場面があることも。
『走ることと仕事することは別』という考え方もあるかもしれない。ただ、”自分は自分”という考え方においては同じだと思う。疲弊する部位が、物理的なもの(身体的な疲弊)なのか、心や頭脳(精神的な疲弊)なのかの違いであって、根本的な部分は同じだと思う。
私もついつい、他人が用意してくれたものを受け取ってあげねば…!と思ってしまう瞬間がある。それは物理的なモノである場合や、情報である場合、時には、SNSなどのコメントやイイネ!なんかもそれに当たることもあるのかもしれない。実際に受け取れる余裕がある時もあるし、時には周囲のギブに気づいていながら受け取れない時もある。それを受け取ることで、自分は前により進むことができるか?身体的に、もしくは心のリフレッシュに繋がるだろうか?そんなことを考えて、もっと日常に落とし込んで良いと思った。
陰と陽
コースには登りのきついコースもあればひたすら下りのコースもある。日がガンガン照っている場所もあれば、木陰でリフレッシュできる場所もある。結局、20kmもあればどこかしらで自分にとって不利な条件、逆境になることがある。それは、自分が逆境なだけで、他人にとっては違ったりもする。また、その逆も然り。
それは、どこが課題になるのかも人によって違うということ。自分にとっての課題は、誰かにとっての平常運転かもしれない。自分が課題を克服することはできるけど、課題を排除(課題を完全に0に)してしまうことは、誰かにとっての居心地の良さを排除することになるのかもしれない。
登りがあるからこそ下りが存在する。太陽が強く輝くから木陰の恩恵も大きく受け取れる。常に陰と陽が存在し、どちらが良いとか悪いとかではなく、両者が存在してこそ価値が生まれ、恵みを享受できるのだと感じた。
私が目指している未来に、居心地が良いと言ってくれる人もいれば、居心地が悪くなる人もいる。それを忘れずに、心に留めて生きていきたい。
さいごに
大会当日、天候にはかなり恵まれました。前日夜までザーザーに雨が降り、連日変わりやすい天気でした。当日朝、晴れ過ぎず程よい涼しさの中スタートでき、こんなに良い条件あるのだろうか?というくらい恵まれた中で走れました。こんなにドンピシャな環境で走れた奇跡にはただただ感謝。。(神様ありがとうー!)
「誰と走るか?」で登場した並走してくれた女性2名の方。実は、12km地点で逸れてしまった。私がまさかのトイレ!ちょっと休んでいる間に追いつけなくなってしまいました。名前も知らず、大会でたまたま近くにいた私に、こんなに温かくしてくれることに感動した。年齢は私より一回りくらい上なのに、とってもパワフル。走っていてもどこか余裕があって、沿道には知り合いがたくさん!飛んできた声援をパワーにして、どんどん前に進んでいっているような人だった。小布施近辺に住んでいるとのことで、またどこかで会えるかしら?会いたいな。
今回、小布施見にマラソンに参加して、”町民からのお出迎え”にただただ感動した。多分これは、参加した人のほとんどが思うことなのかもしれない。小布施在住の一住民からしても、もっと町を好きになることができて嬉しかったし、初ハーフマラソンランナーとしても辛さも経験しながら「また走りたいな」と思えるマラソンだった。来年はまたちょっと違った想いで臨めれば、と思う。すでに楽しみ!
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