和太鼓、心臓、空間音。
落語や演劇、ミュージカル。歌舞伎に能にコンサート。
映像や仮想空間上ではなく「一度は直接生で見ていたい!」と思うものは数あれど、私は最近それら一切の代名詞を、和太鼓に持って行かれてしまった。
それも旅行先の道の駅で、本当に偶然に居合わせた名前も知らない和太鼓チームによって。
私が通っていた幼稚園では和太鼓を練習し、発表する機会が毎年あった。小学校の頃「和太鼓クラブ」なるものにも入っていた。
でも、そうやって和太鼓に対して多少なり馴染みがあった私でさえ、その時の演奏はまるで別次元のもののように感じてしまったのだ。
◇
目にも止まらない速さで、バチが8の字を描きながら上下の面を叩いていく。ピンと張られたはずの皮がけたたましく揺れる。またバチが踊る。菊座のカンから伸びた肩紐はまさに引きちぎれんばかりである。
「ドンドン」でも「ドシンドシン」でもない、耳をつんざくような音を聞いたかと思った瞬間、自分の心臓が揺らされる。
そう、まるで私が鳴らされている。
◇
和太鼓は、縄文時代には既に情報伝達の手段として利用されていたといわれており、日本における歴史は非常に長いという。
これを読んでから、妙な納得があった。
鼓舞される気がするあの感覚。体の中の悪い気が、音ともに放出されていく気がするあの感覚。
そういえば昔川崎大師に行った時、お坊さんがお経を読み終えて叩いていたのは銅鑼ではなく和太鼓だった。
もしかしたらもうずっと、和太鼓の響きは日本人のDNAに組み込まれているのかもしれない。
◇
ひょっとこのお面を付けた男性が、天井を仰ぐ。
次の瞬間思いっきり振り下ろされたバチからは、明かに先ほどまでの音と違う、ビリビリとする響きがある。
その時初めて、バチで鳴らすダイレクトな音と、天井や壁に当たって跳ね返りながら伝わる音があることに気が付いた。
そうか、和太鼓は、「空間の表現」でもあるんだ。
天井と床と四つの壁というディメンション。そこまでの距離、湿度、人と人との隙間。
まるでそのひょっとこが、そういった要素全部ひっくるめて、この空間全体を支配してるみたいだった。
名前、聞いときゃ良かったなあ。
と思いながら他の和太鼓のコンサートをググる、帰り道。