森逸崎家、地獄のサバイバル事件
「家財一切流されて何もなくなっても、米と味噌さえあれば生きられる。お金を稼ぐ力も必要かもしれないけど、もっと大事なのはどんな状況になっても生き抜く力なんだよ。」
母は昔から、こういうことを子供達によく言って聞かせる人だった。
思い付いたかのように
今から20年以上前、私の小学校2年生の夏休み。
いきなり兄弟たちを庭に集めて母は言い放った。
「今日からみんなでサバイバルをしよう。この2日間は庭で生活。家の中には絶対に入っちゃだめ。」
事前に何も聞かされていないし、何も準備していない。困惑している子供達をよそに、母はどこで借りてきたのかもわからない大きなテントを指差して「さ、組み立ててごらん」と言った。
さらには倉庫に眠っていた非常食も引っ張り出され、テラスに並べられていた。何が何だかわからない。
庭にテントを張ってキャンプ、というのは何度か経験があったが、今回はいつもみたいに母が作る美味しそうなおかずやお肉が並んでいる訳でも、父が火の面倒を見てくれる訳でもない。
徒歩3秒の位置に快適な環境があるのに、「全て子供達だけで、庭にあるものだけで過ごせ」とのお達しだ。
当時長女が15歳、末の妹が4歳。
そりゃ受験生の姉からは文句しか出ない。
長女は「小学生メンバーだけでやればいいじゃん!勉強したいんだってば!」としばらく逃げていた気がするが、「やる」と決めた時の母は誰にも止められない。
無理やり長女を部屋から引っ張り出して、最終的に部屋着のまま外に連れ出した。
水戻しきなこ餅
その後、兄弟たちは訳が分からないなりに、みんなでテントを張り、非常食の中身を確認した。
ライターも何もないから、その辺に落ちている枝と葉っぱで火を起こした。初めてやることだったから勝手が分からず、やっと兄が「火、ついた!」と叫んだ時にはとうに日が暮れていた。
ちなみに当時は今ほど非常食のクオリティが高くなくて、特にその時に食べた「水戻しきなこ餅」なる食べ物は、その後もずっと私の中で「人生で二度と食べたくないものランキング1位」に君臨し続ける程度には不味かった。
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明るいうちはまだ良かったが、最悪なのが夜だった。
とにかく眠れないのである。
寝床となるテントは蒸し暑いし床が硬いし、かといってテントの外に出ても、家の隣がすぐ林で蚊が大量にいたしで散々だった。
「かゆい」
「ムヒほしい」
「クーラーの部屋行きたい」
「シャワー浴びたい」
「着替えたい」
小言が出るわ出るわ、子供達からの不満爆発である。
母の気持ち
8歳の私は、母がこの行動を起こした理由について、単に非常食処理のためだけだと思っていた。缶が錆びたものも、賞味期限が切れたものも、その場に大量にあったから。(それも事実かもしれないけど)
でも、今なら母の本当の意図が明確に分かるのだ。
「もしいきなり大地震が来て、着の身着のまま外に出るしかなく、そのまま家が潰れてしまったら」
「限られた物資とスペースでしか生活ができない状況になってしまったら」
知恵を振り絞って、兄弟で力を合わせて生き抜くための訓練をして欲しいという母の意図が、今なら、手に取るように分かるのだ。
だけど残念なことに当時の私たちは、母の意図を理解しきれず、彼女が期待しているような行動は取れなかったように思う。
食べたこともない(そしてこの上なく不味い)水戻しきなこ餅に悪態をつき、その環境自体に文句を言い、終いにはこんなことをやろうと言い出した母自身を非難した。
初日の夜、我慢の限界に達した長女は「もう、やってられない!」と自分の部屋に帰っていってしまった。
それを見て、私含め他の兄弟達も次々に、徒歩3秒の快適な家へと入っていく。
子供達にとっては、生き抜く力を身に付けるよりもよっぽど、蚊の襲撃から逃げ、シャワーを浴びてクーラーの効いた部屋で寝ることの方が緊急度が高かった。
それでも発案者の母だけは、子供達が張ったテントでひとり、蒸し暑い夜を過ごしていたのだった。
夜だから母の表情はハッキリと見えた訳ではないはずなのに、私は未だに、子供達が部屋に帰ってしまった時の母の顔を覚えている。
口をキュッと結び、誰とも目を合わさず、黙々と作業を進める顔。
「悲しい」という言葉が一番よく似合う、「自分の気持ちが伝わらなかった時」の今の私と同じ顔だ。
飯盒のご飯に泣いた
兄弟揃って多分、根は真面目なんだと思う。翌朝は、誰が何を言われた訳でもなく、みんなぞろぞろと庭に出てきた。
各々母がひとりで過ごす姿を見たのだろうか。
朝ごはんももちろん用意されていない。
非常食のあまりの不味さに耐えきれずに前日何も口にしないまま「お腹すいた」と言う妹たちを見かねて、次女は兄が起こした火と飯盒でご飯を炊いてくれた。
白くてピカピカ光って、ホカホカと湯気の立ったご飯を食べた時は、大袈裟ではなく今まで食べたお米の中で一番美味しいと思った。
2日目の正午、母がすいとんを大鍋で持ってきてくれたのを合図に、子供達だけの生活はこれにて終了した。
ちょうどその日は終戦記念日でもあったから、すいとんを食べる前にはみんなで黙祷をした気がする。
断片的な記憶でも、強烈なもの。
これが今でも兄弟たちの間で「地獄のサバイバル」と語り継がれるできごとだ。
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今でも自然災害が起こる度、そして、ニュースで避難所生活を送る人の映像を見る度に、母の言っていた生き抜く力の必要さを、私はそっと痛感してしまう。
そして地獄のサバイバルの初日の夜に「快適な部屋」に逃げ込んだ自分を恥じ、今の自分にはその力がどのくらいあるのか、自分がテレビで見ている避難所の環境で生き抜くとしたら何をするのか、想像を巡らせるのである。
今さらまた、あのサバイバルが懐かしい。