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書評1❘中村文則「悪意の手記」

最近、現実逃避をするように本にかじりついているのだが、その中でも特に印象に残った書籍は書評という形で自分が小説を読んだ時に考えたことなどを昇華させようと試みる。

第一弾は中村文則さんの「悪意の手記」。著者の3作目の作品であり、あとがきによるとこの執筆のために別で部屋を借りて、この言葉が適しているのかはわからないが「自分を追い込ませて」執筆された。理由は本書をよめばわかる。このテーマは一人で自己の深いところに入り込んで苦しまなければ書けないものだからである。

あらすじ

死に至る病に冒されたものの、奇跡的に一命を取り留めた男。生きる意味を見出せずすべての生を憎悪し、その悪意に飲み込まれ、ついに親友を殺害してしまう。だが人殺しでありながらもそれを苦痛しない人間の屑として生きることを決意するー。
人はなぜ人を殺してはいけないのか。罪を犯した人間に再生は許されるのか。若き芥川賞・大江健三郎賞受賞作家が究極のテーマに向き合った問題作。(新潮文庫より)

書評(ここから先は内容に触れていきます)

重大な病に冒されて苦しむ主人公。しかしこの部分で身体的な苦しみとともに心理的な苦しみも詳しく描かれる。
それは自分を「治りたい」に身を置くかどうかの矛盾である。
普通の人は、「そりゃ、治りたいに決まっているだろ」と不思議に思うかもしれない。しかし、治るかどうかわからない、死ぬ確率が非常に高い、絶望的な状態の時はどうか。
もしその状況下で「治りたい」と望んだとしよう。本当に治れば万々歳であるが、死に至ることになったときの絶望は治るつもりで来た分計り知れない。逆に「人間いつかは死ぬんだし別に治らなくても大丈夫です」というスタンスでいけば、もし死に至ることになったとしてもその絶望の落差が少ないのである。
ただ、治らなくてもいいと思うことで、身体的にも死を受け入れ薬の効用が減ることももちろん考えられるし、治りたくて治るならばそれが一番なのは当人も承知である。だから矛盾していて苦しいのである。

私がこの部分に強く共感した理由は、精神的な病にもとても近しい状態が生まれることがあるからである。
一般的に精神疾患と分類される病は治療のスタンスを意識するのが難しい。なぜならば多くの患者はそれまで自分に厳しく、「頑張る」ことを得意としてきた人間だから、治りたいから治療を「頑張ろう」とすると、逆に辛くなってしまう人も多い。それにたくさんの気分の波を経験していくうちに、これは本当に治る病気なのか、という疑問も拭えない。
いっそのこと、「治らなくてもいいや」と思えば、楽かもしれない。しかしそう思うということはこの病と一生付き合うことを決断しなければいけないし、自分から治る可能性を断ち切るような気がしてしまう。当然治るものなら治したいと思う。この間をずっと彷徨う。

私は今まで身体的疾患と精神的疾患を分けてきたように思う。身体的疾患ならば心は健全なのだから、えいやっと自分を奮起させ、治す方向に矛盾なくもっていけるのではないかと。
しかし本書を読み、ぶつかるのは非常に似ている問題なのかもしれないと、一つ解像度を上げることができた。

主人公が治療に苦しんでいる中、だんだんと周りに憎悪を抱き始める。こちらも痛いほど気持ちが伝わってくる。
病に臥している時、自分の周りがとてつもなく順調で幸せに見える。自分とそれ以外という線引きを行う。そして彼らを羨んだり、時には主人公のように彼らの笑顔を憎む。でも彼らがもし悲しそうな顔をしていても憎む。我々にはその悲しそうな顔は「作られた」悲しそうな顔でしかないから。信頼する条件は彼らが生命を脅かすような苦しんだ経験があるかどうか、それのみに信頼は生まれる。

病が回復し、しかしあらゆる感情を失った主人公は当時の親友Kを殺害してしまう。そして二つの問いが提示される。
病気の治癒後に感じた虚無は何だったのか。
Kの殺害後、なぜあの虚無は終わったのか。

Kの殺害後、疑われることもなく、自分を殺すこともできず、大学に進学する。ここから悪に完全に堕ちようとする場面と、必要以上に自分に厳しくする場面が繰り返される。
罪についての主人公の悟りの中で、「大多数に支持される罪ならばその罪は許されるのではないか」とある。戦争の映像を主人公が見たときに思ったことである。そしてもしそうであるならば、自分の殺人は大多数に非難されるか支持されるかどうかの違いでしかなく、大したことではない。
この場面では主人公は自ら悪に堕ちてしまおうとしている。

一方、目の前で車に轢かれた猫を抱きながら、自分はこの猫を轢いた車を追いかける資格がないと愕然とする。つまり例え今から良い事をしても良い事をしたと認める資格がない、悪を制裁する資格がない、だって自分は殺人を犯したことがあるから、ということになる。こちらでは必要以上に自分に対して厳しくして一生背負っていかなければならない方向に傾いている。

先ほどの二つの問いに答える形で、青い服を着た少年が幻覚として登場する。そしてなぜKを殺してしまったか、それは自分の自殺を防ぐためだ、という残酷な理由を主人公に言う。主人公は激高して否定するが、少年は自分は主人公が会いたいと要望しているから見えるのだ、つまり主人公の一部と言える。
ここでは、意識と無意識の中間の部分が描き出されているような気がする。この中間の意識は冷静で自己本位で自分の汚い部分を担っており、往々にして無意識に閉じ込められ、意識はそれをやんわり感じながら否定する。
非常に誤解を生みやすいのであまり言語化してこなかったが自分にも心当たりがある。
例えば、気分が落ち込んできた時に何も考えることができず、スマホで意味のない動画を見て何時間も過ごす。これは意識としてはっきりしている部分。そして意識としては落ち込んだ時に何をすれば持ち直せるか考えることができないと認識している。しかし同じようなことが何回か起きたときに、意識の下に、冷静に考えればスマホでだらだらしているよりしっかり睡眠をとった方が良いとわかっているのに、わざとスマホに流れているのではないか、と疑問がもたげる時がある。派生して、自分は健康になる選択肢を自ら捨てているのではないか、とまで意識の下にぼんやりとした罪悪感なるものができる。
意識として表面に出ているわけではないので、言語化できないけどなぜかもやもやする、程度のことであり、そのため本当に健康から自分の意志として逃げている訳では本当はないのかもしれない。
事実としてこれがどこまで意識として認識して良いかもわからない。
言語化すると、いかにも自分がわざと病んでいる(フリ)をしているただの意志の弱いやつみたいに思われそうで怖くて、だから言ってこなかった。だって自分でだって真相はわからないのだから。

この「悪意の手記」はそういう言語化できないもやもやに焦点を当てていると感じてならない。

主人公は、罪の意識から楽になることとは、という点でも厳しい指摘をしている。それは
逮捕されることと、狂うこと。
逮捕されたら、法に則り他人が裁いてくれる。→自分が罪について考える義務から解放されるから楽なのではないか。
狂ったら、それも考える苦しみを思うがままに発散させて、脳で考え続ける義務から解放されるのではないか。

主人公は自分に楽を与えることに抵抗しているから、良心が半端に残っている状態なのかもしれない。他人によってそう言語化されるのは嫌がっているようではあったが。
死ぬことからも逃げずに、殺人者であることを意識し続けながら、病が再発しても生き続けることを選択して話は終わる。

私は自分が罪を犯したわけではないのに、なんかずっと耳が痛くなるような気持ちで読んだ。犯罪とかから距離があるように感じる人でも、似たような葛藤を自分の経験の中から見つけることができるのではないか。
その点において、この小説はとても素晴らしく、文章にできる中村先生が心底うらやましいと思った。

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