プロセカ映画への考察
7回見てしまいました。CDコンプしました。
おかしいね。
本当はちゃんとした感想とか書こうと思ってたんですけど、上手く自分の中で飲み込めない疑問があって、ずっとそれを考えていて、ようやく1つの結論にたどり着けそうだったので、ある意味なぐり書きのメモ帳のようにして今これを書いています。
以下、プロセカ映画のネタバレしかありませんので、未視聴の方はとりあえずスマホを閉じて映画館に行ってきてください。話はそれからだ。
イオンシネマ幕張新都心、セカライ会場の幕張メッセと近いので、セカライ開催期間中の応援上映には「訓練されたオタク」しかいなくて最高でした。ちゃんと声出ししてほしくないようなシーンではしっかり黙って見ているし、応援上映のあるべき姿でとても良かった。
以下、ネタバレありの考察。
バツミクさんは、考察文内ではバツミクと敬称略しています。ご了承ください。
映画を観ていく上で、長い間しっくりこないというか、上手く考えがまとまらなかったのが
「何故バツミクの声は『届かない』のか」
だってバツミクがやってることは、各ユニットと大きく変わらないはずなんです。歌える歌は未完成なものだけど、伝えたい「想い」は変わらない。むしろ各ユニットよりも大きい。
そして、これに加えてプロセカがずっと重視して描いて来たのって、決して「完成度」そのものではないんですよね。
最近だとプロになったり武者修行したり壁を越えたりとで「完成度を高める努力」にフォーカスされたりしますが、初期のストーリーではむしろ「本当の想いの発見」がフォーカスされていました。
それに各ユニットのパフォーマンスレベルが上がった今でも、「本当に伝えたいこと、やりたいこと」に対してはずっとスポットライトを当て続けています。例えばレオニは「一歌のボカロ版を出すことへの躊躇」に触れていますし。
これを踏まえると、
「なぜ本当に想いを届けたいはずのバツミクの声は届かないのか」
そして
「なぜミク消失後の各ユニットのパフォーマンスは『届いた』のか」
について、自分の中で上手く整理することが出来ていませんでした。
「ある人を『救いたい』で届ける想いでは人を救う事は出来ないから」という考えもありましたが、そもそもこれは映画に関係なくニーゴと矛盾するので没。
そこで少し考え方を変えてみて、「届く」とはどういう意味を持っているのかと考えてみます。
これで気がつくのですが、我々、特にプロセカにハマっている人ほど、
「声が届かない人」
=「本当の想いに気が付いてくれない人」
という方程式を無意識のうちに立ててしまい、結果としてバツミクの「声が届かない」という意味も「想いが届かない」と解釈します。
しかしよく考えてみれば、バツミクの声は「物理的には『届いている』」わけです。そもそも「聞こえていない」のであれば、スマホを投げつけたり「消えろ!」と言われたりしないわけです。
同じコメントが見つかるかどうかは分かりませんが、私の好きなコメントがここにあります。
amazarashiというアーティストについて知らない方はピンとこないかもしれませんが、とりあえず言いたいことは「タイミングの問題だ」とまとめることが出来ると思います。
「救い」となる音楽、小説、絵画、言葉は既にこの世界に様々あって、日々生まれていて、誰かの救いになっている。
ではその「救いとなる作品」がいつ何時でも誰かの「救い」になりえるとは言えない訳です。むしろ多くの人にとっては全く響かない「作品」となっているわけです。
問題はここからで、
ではなぜバツミクは想いを届けようとしたら逆に「飲み込まれてしまったのか」
=「消えろ!」等と言われてしまったのか
誰かには物凄いトラウマになりそうな(私がまさにそうです)、バツミクが消えろと言われるシーン。あのシーン自体はダブルミーニングだと思っていますが、バツミクに注目すれば、
「タイミングが悪かった」のだと思います。
「頑張れ」「諦めないで」という応援はごく普遍的なもので、一般的には通用するものですが、一方で既に限界まで頑張っている人に対してその応援が届くかというと微妙なものです。ただ届かないだけならまだしも、元々限界な所へ更に追い打ちをかけてしまう結果にすらなりかねません。
バツミクの「届けたい」という想いは紛れもなく本物だった、だからこそ何度も何度も届けようとした、それでも届かなかった。
これを作中の人物たちからしてみれば、「もう限界なのにさらに頑張れなんて無理だろ」というお話になってしまうわけです。実際、バツミクのセカイ消失シーンやその後の真っ黒に塗りつぶされたシーンで聞こえる、「諦めようとしている人」の声の内容は、バツミクへの罵詈雑言ではなく「もう限界なんだ」というのが主です。
「消えろ!」等の強い言葉はあくまでストレスの発散口として生まれただけであって、本来の悩みは「諦めたくないけれど限界だ」なのです。
バツミクが各ユニットのセカイで一緒に歌を歌って「想いの届け方」を学んでいる時、それぞれの「想いの持ち主」はさらに追い詰められていて。
バツミクはなんとかして「諦めたくない」という本当の想いに気づいてもらおうとするけれど、想いはもう消えかかっていて。
(時々映る窓から0と1の文字と砂が放出されるシーンは、想いが完全に消えてしまった事を表していると思います。)
最後のチャンスだと思い臨んだら、各所でその「努力の限界」を目にして。
「私の声は、届かないから。」
「諦めたく、無かったな。」
「ありがとう。そして、さよなら。」
こう言い残して、バツミクのセカイは真っ黒に塗り潰されてしまいます。
「どうせ無駄だ」という「想い」が生み出した、
「真っ黒なセカイ」になります。
ここから起こる「初音ミクの消失」についてはまた別の考察なので一度置いておくとして。
(「昔画像検索から消えた事について触れているツイート」は果たして誰が考案して描いたのかは気になります)
ここから各ユニットのメンバー達がそれぞれ「バツミクの想いを私達が引き継いで届けよう!」と奮起していきます。
そして結果論から言えば、この各ユニットのパフォーマンスは「今までバツミクの声が届かなかった人達」の「救い」になります。
・渋谷の路上ライブ(レオニと同じ宮女生徒)
・作業仲間が教えてくれたアイドルライブ
・帰路、傘をさす中ポスターで知った野外フェス
・妹が見せてくれたフェニランチャンネル
・SNSを中心に話題の音楽ユニットの新曲公開
「誰かにお勧めされて聴くのではなく、どん底で出会う瞬間があって、それが一番必要としているタイミングだ」
もちろん各ユニットの曲が「全員の救い」になったわけではありません。何も変わらなかった人のほうがきっと多い。明日には諦めてしまう人のほうがきって多い。
それでも、『届いた』
「誰か1人でも多くの人に」と強く願って、心を込めて歌った歌が。
「サンキュー。ちょっと元気出たわ。」
漫画家の人が、モモジャンのライブURLを送ってくれた作業仲間にこのメッセージを送るシーン、とても良かったです。
各ユニットのパフォーマンスを見て「もう一度」と思った人の心の中には、ずっと
「諦めたくない」という「想い」があった。
まさしく初期のレオニのように、「本当は一歩踏み出したい」って思っている。
そして、まふゆのように「無駄だと思っていてもまだここにいたい」と思っている。
そんな「もがき苦しみ続ける人々」へ、各ユニットのパフォーマンスは『届いた』
「最後の諦めを決断してしまう前に。」
「各々にとっての『1』を見つけられた。」
ここまでは各ユニットのパフォーマンスについてですが、元をたどれば、
バツミクがずっと伝えたかった「想い」を、
「未完成のまま漂う想い」を、
届かなかったと悔やんでも悔やみきれないまま残り続ける「想い」を、
最後に「誰かに託そう」と、諦め悪く藻掻いたからこそ、各ユニットがその想いを引き継いで歌ってくれたわけです。
そしてもう一つ。
「ではバツミク自体が想いを届けていたのは、最初から想いが叶わない無理な行動だったのか?」
という件についても、自分の中でずっとモヤモヤな疑問がありました。結局各ユニットの楽曲がないと何も起きなかったじゃないか。と。
これに関しても、今なら自分なりの答えが出せます。
繰り返すようですが、映画作中に出てくる人は、各々がかなり限界を迎えていました。
「もうやめようかな」
といつ決断してもおかしくない人々でした。
もしこの人々が、映画作中で各ユニットがパフォーマンスをした祝日までに
「完全に諦めてしまっていたら?」
一度消えてしまった火をもう一度つけなおすのは、小さな火を大きくするよりはるかに難しい。
きっと想いのこもった歌も届かない。響かない。
でも、作中の人々には届いた。
「諦めたと思っていても」
「心の中ではまだ諦めていない」
では、この「諦めそうな人々」に対して、何とかしてその火を完全に消させないようにしていたのは誰か?
「志を延命していたのは誰か?」
この答えが、バツミクなのです。
何度届かなくても、何度でも諦めずに想いを届けようとしたバツミクによって、今にも消えそうな火に僅かながらでも酸素を送る事が出来ていた。
何度も何度も消えそうになっても、その時にはバツミクがまた現れて、声をかけられた。
「バツミクが消えろと言われるシーン。あのシーン自体はダブルミーニングだと思っています」
こう前述しましたが、これのもう一つの意味は、
「自分の中にある『諦めたくない気持ち』」に対しての『消えろ!』だと思います。
無駄だって頭ではわかっているのにどうしても消えてくれない「想い」を、いくら奥深くに埋めたとしても掘り返そうとする「声」には心底うんざりするはずです。最悪な気分です。
バツミクはずっと地中奥深くに埋められた「想い」を掘り返して、各々の目の前に提示して「想い出させて」いたのです。
バツミクが声をかけていた人々は皆、消えてくれそうなのに思い出してしまう「想い」をずっとずっと抱えて生きて、苦しんで、消えたいと思っていて。
バツミクによって苦しんでずっとずっと抱え込まされたその先で、「救いに出会う事ができた」
バツミクは一度諦めてしまったとしても、バツミクがずっとずっとやっていた行動による「想いの延命」が、結果的に死ぬことなく祝日のパフォーマンスに出会わせてくれたのです。
「私の声が、届く!」
ずっと声を『届けたかった』バツミクもまた、「諦めたくなかった」側の一人。
心からの、「諦めたくない」という想いを身を持って実感したからこそ歌える歌詞だと思います。
そして、「ひとりなんかじゃない」と知ることが出来たのは、各ユニットの皆のおかげ。
「ずっと1人」だったセカイでずっと声を届けようとしていたバツミクもまた、「救われる側」であり、実際に「救われた」と思います。
キミとだから、迷える。
今作品は、「プロセカ」がずっとずっと大切に描いてきた「テーマ」を、もう一度しっかりと思い返させてくれる、そんな作品だと思いました。
映画、とても良かったです。