【YOHAKU】「足悪いから無理やろ」言われてきた私が「誰かの選択肢を増やす」生き方に辿り着くまで
こんにちは、YOHAKUです。
今回お話を聞いた人は、幼い頃から左足が不自由で「できない」を多く体験してきました。
しかし今は、その分誰かの「できる」を増やすために生きるという答えにたどり着いたと話します。
どうして、他者の可能性を広げるために生きようと考えるに至ったのでしょうか?
誰かに「できない」と制限をかけられたことがある人
自分の「できない」に挫折したことがある人
なんのために生きたらいいか悩んだことがある人
そんな人にはぜひ読んでみてほしいお話です。
自己分析に悩む就活生も必見です!
きっと自分の可能性に余白をつくるヒントを見つけられると思います。
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「できる」と思っても「できない」と言われる
ー左足が不自由なことで幼い頃から「できない」を多く体験されてきたと思うのですが、
特に印象に残っていることを聞いてもいいですか?
それはほんま色々あるねんけど、その中でどれが1番印象残ってるかっていうと、テニスの事件っていうのがあって。
中学2年生のときの部活選びで、リスト見て何がいいかな〜って選ぶやん。
自分は結構水泳ができて、小3くらいのときかな、競泳とか大会とかにも出るくらいやって。
その前も剣道とかやってたから、
自分はスポーツできると思ってて、それで中学校の先生に「テニス部やりたいです」って話に行ったら、
「いや〜自分は足悪いから無理やろ、できひんやん」という反応で、「吹奏楽部とかあるからそっちいきーやー」って軽く言われたんよね。
「自分の中ではできると思うんですけどなんでやらしてもらえないんですか」みたいな話もしたけど、学校側としては、俺に何かあったときに責任が取れないと。
テニスあかんって言われたことは、今も残っているというか。
昔、何が一番つらかったですかって言われたときに、一番最初に出てくる。
潜在意識に残ってるかなと思う。
ー「できる」と思っていたのに、「できない」って言われた経験はほかにもありましたか?
あ、法律上で言うと、
車のミッションあるやん、あれも左足で踏まないと変えられへんねんやんか、
左足でドラムも叩けるからまぁまぁ踏ん張れるねんけど、ライセンスは取れない。
ー法的とか社会の誰かにできないって言われただけで、ほんとはできるのにって思うことがたくさんあるんですね。
そんなふうにできないことって案外多いんだなって思うことがあっても、お母さんの言葉で「できる」が増えていったんですよね。
「あなたはなんでもできる」母の育て方
親はね、基本的に、なんでもやらしてたんだろうなって思う。
俺がやりたいって言ったことに制限をかけなかったと思ってて。
かつ、なんやろ、「障がい者だから」って言葉を使ったことがない。「脚が悪いから〇〇」とか。
だから、水泳も剣道も、やりたいって言ったらやらせてくれたし、
枠にはめるようなことを言われたことがないと思う。
実際母親がどういうことに気を付けてたのとかは、子ども時代には聞いたことなかったけど、
最近はちょっと話すね、自分が教育に関わるようになってから。
母親が塾やってるんだけど。
「あなたはなんでもできる」っていう育て方がしたかったって言われた。
「できない」って言う子には育てたくなかったって言われたかな。
それは母親のエゴなのかもしれないけど、入院してたり、ずっと「できない」俺の姿を見てきたからかなって。
今となっては母親が1番辛かったと思う。
健常者に産んであげたかっただろうし、病院に連れて行く姿を見るのとか辛かっただろうなと思うね。
今、自分の子どもができたときを想像すると、母親のすごさみたいなのがわかるなあと。
ケニアに行ったときも、「行っといで」しか言われんかったな。
その前にもカナダとか、教授にアポ取って行っちゃったりしてたし。
ほっといたらどっか行っちゃうって逆に心配になってたね、笑
どこでストッパーをかけていいかわかんないって。
帰ってきたら就職で東京行くの!?って。
ーなるほど…素敵です。簡単に誰でもできることじゃないなと思います。
お話を聞いているとお母様の育て方だけでなくて、「自分が実際にやってみてできたことがあるから、できるはずだ」って自分のやってきたことが自信になって「できる」って思えるようになっていかれたようにも感じました。
みんなが障がい者の環境では「できる限界までやる」が普通だった
まさにそうやね、たしかに、俺の中では母親の育て方が大きかったんじゃないかって仮説はあんねんけど、
でも、もう一個あるとすると、小学生のときの2年間の入院生活かな。
俺の足の病気は「デスモイド腫瘍」っていう筋肉の中に腫瘍ができる、良性のガンの一種で。
基本的に取って解決するような病気やねんけど、
幼いときは何回も再発するんよね。だから、0歳11ヶ月くらいの時に発症してから、何回も手術を重ねてて。
その中でもすごいおっきい手術が小学校3年生のときにあって、
小4・5のときは2年間ずっと入院。
親元離れてずっと入院するような病院だったから、当時はまあきつかった。
そこで、気づかせてもらったのは、みんな障がい者やねん周りが。
でも、いわゆる普通の人よりもみんな楽しそうで。
野球とかサッカーとか、ボッチャとか(カーリングの陸上版)を当時みんな生き生きとやってた。
1人で生きる能力っていうのもみんな長けてた。
親もみんな離れてて、看護士さんとかソーシャルワーカーの人とかいたけど、ほんまに手術のときとかに頼るだけ。
そこにいたのは、大人は30、40歳くらいから、下は赤ちゃんまで。
まだ歩けないくらいの子にはお母さんついてるけど、小学生くらいならもう一人で暮らすみたいな。
そんな環境にいたからこそ、「できる限界まではやる」というか「やるのが普通」みたいな。
障がい者も普通にスポーツする。
投げる人がソーシャルワーカーの健常者で、打つのは車いすに座ってようが打てる。
なんなら走るのは、車椅子の方がむしろ早い。
そういう価値観のもとにいたから、中学のテニス部事件は余計に衝撃だった。
なんで退院後こっちに帰ってきたら「できへん」ってなるんやろうって。
それは結構大きいかな、母親とこの経験の二つ。
もう一個なんかそこの経験でいうと、
普通みんな勉強って机に向かって椅子に座ってすると思うけど、
天井に棒立ててクロス下げて、天井から書くための版を下げてきて、割り算とか掛け算とかを、寝る姿勢で勉強してた。
姿勢めちゃくちゃきつかった。笑
病院の中に養護学校みたいなのが併設されてて。
普通に国数英社理が揃ってて習った。
だから、中学校から帰っても全然苦労はなかったよ。
「やってみなよ」の優しさ
ー身体的な障がいの有無に関わらず、
自分は計算が苦手だからエンジニアになりたいけど理系は無理だから文系行こうとか、
美大行きたいけどあなたに才能はないからやめときなさいと言われるとか、
自分や周りが制限をかけるようなことって身近にたくさん起こっていると思います。
そういう人に声をかけるとしたら、これまで「やりたい」に制限がかかることも多かった藤原さんはどう声をかけますか?
言われた側に言うとするとそうね、うーん問いただしちゃう、今の仕事(教育関係)の癖で。笑
本心に従うのがすごい大事やなと思う。
もし、親や周りに「やめとき」って言われたときに、それで諦めちゃうのも自分だよね。
反対されてやめるくらいなら、多分やっても続かへん思うねん。
自分の好きが爆発してる状態じゃないから、それくらいやったら多分やらんほうがよくて。
それでも迷ってるなら絶対挑戦してみてほしいと思うから、「もう1回考えてみたら?」とは言うかもしれん。
僕もそうやけど、ほんまにやりたかったら周りになんて言われても行動するもん。
俺、大学院修士1年生の、就活の時期にいきなりケニア行ったことがあって。
その時はもう、ほぼ何も考えてなかった。修士課程では幸福度の研究をしていてケニアのデータもみてたんだけど、そんな時に派遣の案内のメールがきてその瞬間に「あ、行こう」って思っちゃったんよ。
衝動的で、もうビビッと思っちゃって。
そこまできてたら、お金の問題とかあるかもしれないけど、でもそれくらいじゃ諦めないよなって。
ーやりたいならやったらいいんじゃないのって、生暖かい優しさより本質的な優しさのある言葉だなと思いました。
最近思うのは、「優しさ」って言葉を履き違えてる人が多いなって。
怪我しないように「これはやめとこう」とか、将来のこととか考えて「あなたの人生のために良くないよ」とかって平気で言っちゃうことってあるじゃん。
言ってる側の気持ちにあるのはたぶん優しさだけど、それって全然優しさじゃないよなって思う。
未来の話だから、その人の優しさが正しいかどうかはわかんない。「かもしれない」の話だからね。
そういうことを言う人に、本当に心配してる人なんてほぼいないと思う。笑
自分のことじゃないんだから、親とかじゃない限りって思っちゃう、俺はね。
俺もめちゃくちゃ言われたからね、ケニア行くとき。
一年行った後どうするの、とか。
よく言われたのは、青年海外協力隊と比較されたり。
青年海外協力隊って帰ってきたあとめっちゃ就職率悪いんよ。
そのイメージがあって、ケニア行ったあと就職どうすんのって。
けど、そんなん行かねーとわかんねーよって。笑
優しさを履き違えないでほしいっていうのは、
相手のことを本当に考えるなら、今かける言葉ってなんなんだろうって考えてほしい。
けどそれって「やってみなよ」って、その人の行動を応援するしか選択肢はないと思う。
できないことを誰よりも知っている強さ
ーひとつ聞いてみたいことがあります。
例えば障がいを持っている人や困っている人に「お手伝いをしましょうか」って言うことって、良いことなのか、その人たちの「できる」を奪ってしまう自己満足な行為なのか、迷うことがあります。
どう思われますか?
それめちゃくちゃあるね、僕は多分両方経験したことがあるかなって。高校のときボランティアクラブに入ってて。
思うのは、「自分がやってしまったことは、相手はその部分成長できない」ってこと。
ボランティアで俺がやってたときよく言われてたのは「ボランティアでやってあげたことは、その人はできない」
ケニアに行ったときもそうなんだけど、
僕らがケニアで教室を作っちゃったら、その人たちは教室を作ることはできない。
魚をあげるんじゃなくて釣り方をってやつ。
これは当時国際協力で流行ってたんだけど。
そういうことを考えると、普段の生活も一緒で、
俺とかも何かお手伝いしましょうかって言われるときって大体手伝わなくていいとき。
僕らは1番自分のできないことを知ってるから、頼むんだよね。できないことは。
障がい者の人は多分みんなそうで「できないことを誰よりも知ってる」。
自分のできないことの範囲は知ってる。
頼めない人もいるとは思うけど、基本的には自分のできないことを知ってるから頼める。
ー「できないことを知っている」って、私はできていないかもしれないって思いました……。すごいことですよね。
僕は以前コンサルで働いてたんやけど、そこで思ったのが、
優秀な人ほど、できないことを知らない人が多い。
だからできないことを知ったときに、それに対するレジリエンス(回復力)を知らなくて、倒れちゃう人が多くて。
今まで自分はできてきたのになんでこれはできないんだって、初めてキツさを経験する、みたいな。
障がいは大体もう生まれたときからあって、それを受け入れてるからポジティブな人とかはそうことだと思う。
頼めない人には指導したいね、一概には言えないけどね。
けど結構衝撃なこと言うと、「障がいがあるから甘えないでほしい」って言うのは障がい者には言いたい。席を譲れ、みたいな態度を取る人とかいると思うんだけど、そういうのを受けるのが当然って思ってる人は、障がい者の端にも置けないというか笑
そういうマインドはある。健常者の方で問題になることが多いけど、障がい者にも問題があると思うんだよね。障がい者だからこそ思うことかもしれないね。
ーなるほど……その言葉は初めて聞きました。笑
お友達や同級生など周囲にいた方からはどんな接し方をされていましたか?
俺は自分の中で結構距離感を見ちゃうんだけど、多分足のこと気にしない人はめっちゃめちゃ仲いい。今の同僚は、障がい者だと思って接したことないと思う。
逆に足のこと気にしてくる人は距離遠いと思うかな。
社会人になっても、「足なんかあったんですか」とか聞いてくる人は、俺からの距離感が最初1番遠い人だね。だからだんだんなくなる。できるできないの軸がどんどんなくなる。だから、できる寄りになっていくのかな。
会ったばかりの人は、ほとんどが「できないことが多い人」って見てるけど、時間が経って距離感も縮まっていくと、ほぼもう手伝ってもらうこととかもないから「できる」って印象に変わっていくんじゃないかな。
会社の代表によく言われるのは「脚が悪いことを感じさせない」って。
自分と関わった人には必ず、何か一つ選択肢を増やしたい
ー今は教育のお仕事、前はコンサル、海外協力でケニアに行っていたり、高校生時代はボランティアをしていたり。他者の「できる」を増やすことに思考が向いてるのかと思いました。なにか理由はありますか?
あります。
そのできるできないの話が1番近いけど、自分の中に1番あるのは選択肢を増やすってこと。
これからも僕は「選択肢を増やす」ために生きていくんだけど。
僕に関わった人には、何か一つ選択肢が増えることっていうのを必ずやっていきたい。
それがその人の幸せに繋がると思っているから。
院で幸福を研究していて、選択肢が増えることが幸福につながるっていうのが、今の俺が行きついている答えで。
一つは、自分自身が何かと範囲が狭まってしまっていることと付き合ってきて、
何か一つのことができるようになるってすごく幸せだっていうのを僕自身一番知っているから。
もう一つは、自分が院で学ぶ中で、発展途上国の中の違和感の共通点は、できないことがあることだと思ったのね。
俺は普通にできるのに、そのことがこの子たちはできない。
例えばこの子達に100万円あって、幸せになるのか?いや幸せにはならない。
そう思うのは、選択肢がないからだと思ったのね。100万円の使い道とか。
それがどうやったら、幸せになるんだろう?って経済学からアプローチして、研究して。
選択肢のつけ方、見つけ方みたいなのを研究してきたんよ。
コンサルタントも、まさにそういう方向性だった。
お客様に綺麗な資料作って、相手が知らなかったことについて、こういうアプローチもありますよとか、選択肢を増やす。
俺にとってはまったく一緒だったなあ。
教育にきたら、対象が高校生に変わったっていう。
もともとの根元にあるマインドは、
はじめは、高校生のときにボランティアをやってたんだけど、
その時点で俺は十分人に生かされてきた、と思っちゃったの、なんか。
世話をされたりとか、恩恵を受けたっていう、なんていうんだろう育てられた感があったというか。
高校生のときに、それをできるだけ返していこうって思ったんだよね。
めっちゃビビってきた言葉は、インドの経済学者・哲学者アマルティアセンの「人のために生きてこそ人」って言葉。自分の中でしっくり来た。
大体の人は、基本的には自分のことで生きると思うんだけど、誰かに対して返せる人間でいたい。
それがボランティアとかコンサルとか教育をやってきた根幹にずっとあって、今もあるかなあと。
一生恩返しですね。
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今回は、片足が不自由でも自分の可能性を諦めることなく、
さらには他者の可能性を広げる生き方へと辿り着いた方にお話を聞きました。
過去の経験から「自分はどうありたいか」を芯を持って語る姿がかっこいいのはもちろんのこと、
さらに仕事でも日常でも体現する姿はとても素敵でした。
(インタビューする私たちにも、選択肢を増やせるような問いかけ、声かけをしてくださいました。)
学生にお話を聞くことが多いYOHAKUですが、今回のように、今後は人生の先輩方にもお話を聞くことで私たちが伝えられる余白の幅を広げていけたらと思います。
また、身体的な障がいを持つ人との接し方についてお聞きしたことからは、
私含め健常者が特別視しすぎてしまうことで窮屈さを作ってしまうのかなと感じ、
また少し余白を広げることもできました。
今回の記事が、読んでくださった方の余白を少しでも広くする要因となれれば幸いです。
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YOHAKUは、誰もがそっと抱えているけれど、他人から見えづらい事情にスポットを当てて、それが読んだ人の優しい想像力の余白となることを目指しています。
「最近こんなことに悩んでいる」
「なかなかわかってもらえないけれど、自分の事情を説明できたなら」
「こうやって自分らしい生き方を見つけました」
こんな気持ちを持つかたがいれば、是非是非インタビューさせてください。
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植木凜・小林華・沖中優麻
文責:植木凜
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