3月4日〜ロシアを去ったあの日を想って〜
モスクワを去ってから今日でちょうど1年。トラブルに巻き込まれることなく、無事に帰国できたことを、今では喜ばしく思う。しかし1年前、成田空港に着いたときに私が発した最初の言葉は、「日本に着いてしまった」だった。
2022年3月4日。この日は、長い冬の終わりから春の訪れを祝う、マースレニッツァの真っ只中だった。
マースレニッツァとは、バターと小麦をたっぷり使って薄く焼き上げたブリヌィという円い形のクレープを、口いっぱいに頬張ることが許される。夢のような1週間だ。みんなで輪を作って春の訪れを喜ぶ踊りをしたりもする。最終日には、藁で作られたチュチェロと呼ばれるかかしを燃やす。
ダスヴィダーニャ!(さようなら!)長い冬とお別れだ。
赤の広場では毎年、甘い匂いで包まれるという。「マースレニッツァの期間に、一緒にモスクワを散歩して、いろんなブリヌィを食べよう!」
演者なのか?いつもよりも大きな声で大袈裟なジェスチャーとともに、マーシャはあれやこれやと楽しそうに話し倒す。マイナス18度、凍えるような寒さのなか、春を待ち望むつぼみが確かに膨らんでいった。
春になっても花は咲かなかった。バターと小麦の海に溺れることもなかった。ただひとり、55キロのスーツケースと共にロシア最大の空港、シェルメーチェボ国際空港にいた。
電光掲示板には、欠航の文字が並ぶ。お願い、私の便も欠航になって。明日の生活を不安に思いたくない。
なのに、どこかで飛行機が飛ばないことを祈っていた。帰りたくなかった。あと3ヶ月、なんちゃってモスクワっ子として、生活をしたかった。
「日本でご両親が心配して待っているだろうからどうかご無事で。」パスポートコントロールの職員さえも無事なフライトを祈ってくださる。
もう、ここには残れないのね。頭では分かっているし、A T Mから現金を引き出せてクレジットカードが使える世界で暮らしたい。日常には戦争の影がほとんど落ちていない、安全なところに行きたいよ。だけどね、胸に開いた穴が大きくなった気がして、とっても寂しい。そう、ただただ寂しいの。
ボーッとしながら歩いても良いことなんてない。搭乗ゲートを間違えて、よくわからないところに来てしまった。
やばい、間に合わない。大きなリュックサックを背負いながら、ガラガラの空港を走っては歩いて、また走る。
理性ってすごいよな。遅れることだって出来たのに、ましてや飛ばないことを心のどこかで期待していたというのに、走るんだもの。
絶対にチケットを落とすもんか。力強く握っていたようだ。搭乗ゲートで手汗と握力でフニャっとした搭乗券を見せる。
「どうぞ」。
その一言で残念ながらも、18時10分発、カタール・ドーハ行きが決定した。
飛行機に足を踏み入れた瞬間、涙がどっと溢れた。これでもう、明日の生活に怯えることはない。
安堵したのは束の間、いよいよ後戻りはできないことを受け入れなければならなくなった。ずっとずっと、どこかで否定し続けてきたその現実を。
モスクワ大学のパーカーを着てギャンギャン泣きながら、29のEという座席に向かう。
「お前の居場所はここにはない」。離陸のアナウンスという突き返しの言葉が、優しい口調で耳に届く。
半年間の思い出が走馬灯のようによぎる。さんざん文句を言っていたのに、モスクワのことが大好きだったんだ。コントロールができない。息をするかのように静かに泣いていた。
疲れた。涙が尽きた。目が渇いた。離陸してから30分以上が経っていた。
どこかでUターンしないかな。ドーハに着くまでの5時間あまりはずっと、飛行マップを眺めていた。出発時刻が20分以上遅れたというのに、皮肉にも予定通りに着いてしまった。乗り継ぎも上手くいき、日本にも無事に「着いてしまった」。
55キロのスーツケースが戻ってきた。出口には両親が待っていてくれた。半年ぶりの再会だ。これっぽっちも嬉しくなかった。
愛したモスクワよ、また会える日まで、お元気で。
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