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10年経っても読み終わらない。
その本に出会ったのは高校一年生の時だった気がする。
小学生の頃から慣れ親しんだいつもの図書館で、いつものteen’sコーナーで見つけたんだと思う。
ふと手に取って表紙を見る。よく知っているタイトル。中学の時の教科書にも載ってたし。なんならその前から、この話、知ってる。でも、なんだろうこれ、知らない作者。
だから、私は本を開いた。新しいゲームを見つけた少年みたいに。ワクワクする。人は自分の知っていることを「知ってる?」と訊かれるとワクワクして「知ってるよ!!」と言いたくなってしまう。
目次を見て、勝手にペラペラとページを捲り、何ページも飛ばしてそのタイトルのページを開いた。
【新釈】 走れメロス
それがこの本のタイトルだった。
面白かった。
びっくりするほど面白かった。
面白すぎて、この森見登美彦という作者が本当に存在しているという事実が怖くなった。
だって、こんなに面白いもの、一人の人間のクリエイティビティーから生まれていいんですか?
太宰作品だし。何人かの作家の共同企画で古典作品をパロディしているのではなく???(当時の私は創元社のミステリアンソロジーが大好きだった)
え、この一冊を全て一人で???
この日が、その後の未来の私が「好きな作家は?」と訊かれて「森見登美彦さん!!」と答えるようになる最初の運命の日になるわけだけど、それはまた別のお話。
とにかくこの『【新釈】走れメロス』は面白かった。
まず元ネタを知っている(しかも授業でもやるほど読み込んでいる)ので言い回しの妙がもう面白い。
知っている台詞を「知ってるよね?」とにっこりしながら知っている人が楽しいようにパロディしてくれる。メロスなんて有名な台詞のオンパレードですから。読んでいるこっちもニヤニヤしてしまう。
引用やパロディのしっくりくる具合を感覚で言うとあれだ。
「ムスカ大佐ってネットミームしか喋らないんだけど」
みたいな。
これは太宰治の書きぶりが凄いねって話がしたかっただけなんですけどもね。話を戻して。
誰が原作でいうと誰にあたり、どんな風に名前をもじっているかでニヤニヤし、この後が1番重要、「原作から何を変え、何を変えなかったか」を楽しむ。
え! そう来たか! えぇ、でもさ、それを変えちゃったら物語そのものの結末が変わっちゃうんじゃないの!? どうする気だ? 何を見せてくれるんだ???
お手並み拝見だなぁ!!!!
メロスのストーリーなんて幼稚園の時にNHKの「おはなしのくに」を見ていた頃から馴染んでいるピュアな高一はそんな風にワクワクして読んだ。
読み終わって「最高!!!!」となって手が止まった。上手く回収するんだから。メロスじゃないけど、結末はやっぱり走れメロスなのだ。
一応図書館から借りて帰ってきたから時間は気にせず続きも読める。
でも、私の手は止まった。
こんな最高な気分で、めちゃくちゃ次の話も読みたいのに。
私はこの本に収録されている全5本の内、『走れメロス』しか知らなかったのだ。
読んだこともない。なんならタイトルもあまりピンとこなかった。
『山月記』『薮の中』『桜の森の満開の下』『百物語』
どれも名作なんだろうなということは当時も感じ取った。
でも、読んだことはない。
あれ? こんなに「最高!!!」って思えているのって私がメロスを知ってたから?
じゃあ、今の私が他の話を読んだらもったいないんじゃない??
えー、やだなぁ。初見の気持ちは一回しか味わえないのに一回目でつまんないって思ったらやだなぁ。(多分元ネタ知らなくても面白いです)
そう思って、そのまま2週間後図書館に返した。
他のページは読まなかった。
返した日、試しに図書館で現代語訳シリーズの『百物語』を借りてみたけどなんかしっくりこなくて読めなかった。
月日は流れ、高校ニ年生。
ついにかの有名な『山月記』を習う日が来たのだ。
冒頭を読みながら友達と「これ本当に現代文のテキスト? 古典ではなく??」と文句も言った。
私の高二、高三の現代文の先生は非常によい先生で、この『山月記』しかり夏目漱石の『こゝろ』しかり非常にエンターテイメンツに臨場感たっぷり、それなのな受験現代文にコミットした楽しい授業をしてくれた。
恐らく私だけでなく、当時の2年5組の生徒は特にこの二つのテキストは思い出してちょっと盛り上がってしまうと思う。
そんな先生の『山月記』授業第一回目。
予習として、「みんな自分で教科書のテキスト読んできてね〜」と言われており、授業が始まると先生が沢山プリントを配った。
それはコピーされた【新釈】 山月記だった。
あぁ、なるほどここでもう一回出会うのか。
ここがタイミングだったのか、と私は思った。
全然読んだことないくせに「これ走れメロスとかもシリーズであって、めちゃくちゃ面白いよ」と知ったかぶりに近いことをした。
『山月記』を読んでから読んだ【新釈】 山月記はやっぱりめちゃくちゃ面白かった。
「もんどりうって」という言い回しが好きすぎて「もんどりもんどり」という謎の擬態語が教室で一過性のブームになった。先生が「もんどりうってって、コレ凄いですよね。もんどりうってって」と本文をピックアップして私たちを笑わせたからだ。
私は今でも本家『山月記』の虎へと変わるシーンを読み直すと「あれ? もんどりうって走って行くんじゃなかった?」と思う。中島敦はそんな文は書いていない。
そしてまた時は経ち。
大学受験を終えた三月。私は暇だった。
受験生の頃、1日12時間ぐらい勉強していたのでそれがなくなって暇だった。SNSも受験で絶っていたせいで流行りや楽しみ方に上手く乗れず全然面白くなかった。
暇そうに一日中ドラマや映画を見て、気まぐれに本を読み、暇すぎて無駄に散歩に行く私を家族は高等遊民から派生して「ユーミン」と呼んでいた。
あまりに自然に「ユーミン」と呼ぶので松任谷由実の気分で生活していた。
そんな時たまたま入った古本屋で私はまたその本に出会った。新装版や表紙が違うバージョンもあるのに、古本屋の棚に並ぶそれはあの日図書館で見た表紙と全く同じ顔をしていた。
私は迷わずその本を買った。値段も見なかった。
三年あってもその薄い一冊の2/5しか読んでないのに。この先読むかもわからないのに。
それでも買わなくちゃと思って買った。
それから六年、新しいページは捲られることはなかった。
この前、謎解きがしたくて新宿ミステリーサーカスに行った。直前に予約をしたせいでリアル脱出系は予約が取れず、「今からでも予約できるやつ」という条件でイベントを選んだ。
たまたま。本当にたまたま本屋さんから脱出するストーリーだった。
不思議な本屋さん。ミステリーサーカスのビル内に本当にお店としてブースがあって、実際に購入できる書籍が並ぶその棚からヒントを見つけながら進んでいく。
一章ごとに有名な作品がテーマになっていて、『吾輩は猫である』とか『檸檬』とか定番の作品が登場する。そして。
「あ、『薮の中』……!」
また私は出会う。
あぁ、今だ!!!と思った。
今なんだ!!!と、そのまま帰って青空文庫で作品を読み切った。
短い。こんなに短くてすぐに読めちゃう文章だけど、あの頃の私は目の前にあってもやっぱり気乗りしなくて読まなかったと思う。別にその時無理して読まなくてもよかったんだなと今になって思った。
昨日、森見登美彦さんの『【新釈】 走れメロス』を再び開いた。正確には読んだことのあるところは読み返したりもしていたけれど。
でも、また新しいページを開いてしまった。ワクワク。子どものように。楽しいと知っている遊びが始まる。
全部でたった250ページ。
文庫本にしては薄い方だと思う。
でも、私はこの本に出会って10年近く経っているのに全然全く読み終わらない。
途中で辞めちゃったわけじゃない。
あの日からずーっと読み途中なのだ。
進まないんじゃない。
ずーっと読み進めている最中なのだ。
まだ読んでいないページがある。いつかきっと「今だ!」と思った時に私はまだ見ぬ章を読むのだろう。
思い出した時。何度だってはじめましてのように出会った時。
私はまた、この本を開くのだ。
まだまだ私を楽しませてくれる。ずーっと楽しませてくれる。
宝物のようなこの本は、10年経っても読み終わらない。