見出し画像

使用実績2ヶ月未満で名の変更が許可された実録

2023年10月23日。
家庭裁判所から名の変更が許可されました。
この日を起点に新しい名前での生活が始まるとともに、目が回りそうなほど膨大な氏名変更の手続きが必要となります。
名の変更が許可されるまでの経緯を記録のため残しておこうと思います。

2022年2月に法人を立ち上げ、勤めていた会社を辞める事となった。
私1人では到底やる事がなかった出来事である。
しかし母が唐突に言い出した事業にどういう風の吹き回しなのか、「私もやる」と参加を名乗り出たのである。
自分で法人経営への参加を名乗り出たため、設立した法人にはかなりの思い入れがある。
逆に言えば、この法人に興味のない人からするとかなり面倒な奴である。

1月から始めた事業の準備は2月に法務局で受理された。
そして、事業を本格的に始動することになるのは4月からである。
もちろんその前に地元の新聞社依頼して記事にして頂いたり、新聞に記載して頂いたおかげで市から講演のお誘いがあったりとなかなか滑り出しから順調ではあったのだが。
そのおかげか半年経った10月現在では、1年目にしては嬉しい結果になっている。

しかし、私が名の変更に踏み切った発端は市からの講演のお誘いにあった。
まさかこんな事になるとは思いましてなかっ
たのだが。
市内の地域で偏見や差別をなくそうと言った趣旨に沿って様々なテーマの講演が揃う中から、各地域で希望があれば講演に行かせて頂くことになった。
話の内容としてはざっくり私の過去の経験を話す必要があり、蓋をしていた記憶を掘り返すことになる。
そのため今まで蓋をして見ないように自分を守っていたものが一気に崩れ去った。
一度開いてしまった蓋からは芋づる式に記憶が蘇る。もう戻す事はできない。
自分が見ないようにしていた記憶を簡単に見ないようにしていた事、それがどれほど大切な蓋だったのかを痛感させられた。
自分の記憶なのに、その記憶に徐々に押しつぶされそうになった。少しずつ精神を蝕み、限界が来る。
死にたい…と言う感情がまた顔を出す。
元々、希死念慮はあった。自殺未遂で止まった事もあった。
息子を産んでから少しはマシになったと思ってたけどそれは大きな間違いだった。
溢れ出した記憶と感情に飲み込まれそうになり、首を吊れば死ねるかと何度も考えた。実際に死のうとした事もあった。
母を経由して息子からメッセージが届いたところで思いとどまった。
何も知らないはずの息子が「ママずっと一緒にいてね」「死なないでね」と言うようになった。
この子のためにもう少し生きなきゃいけないと思う気持ちが、死にたいと言う気持ちに負けそうになり何度も涙が止まらなくなった。

どうにかして状況を変えないといけない。
この希死念慮とはこのまま付き合って生きて行くのは耐えれない。
限界が来たのは6月、7月頃だったと思う。
名前を変える事ができるとネットで調べて知った。
幼少期から嫌いだった名前を変える事ができる。
名前は親からの最初の贈り物と言うが私にとっては重すぎた。
名の変更ができると分かってから死に物狂いで調べる日々が続く。

と、その前に高校の時の性被害を警察に相談しに行った。
「もう時効を一年も過ぎてるので何もできる事はありません」と言われてしまったので、記録だけ残してもらうことにした。
自分の記憶に振り回されている私は、弁護士へ相談しに行く事になる。
法テラスから県の弁護士協会で相談できる旨を知る。
しかし「高校の時の事柄だともう取り扱えない。取り扱ってくれる人がうちにはいない」と県の弁護士協会の方にも言われた。
このままでは何も進まない。
30分と言う限られて時間ではあったが、名の変更にあった方が良い書類を教えてもらった。

「保存期間は3年。開示する事もできる」と警察の方に言われた書類を開示してもらうべく、再度警察署へ電話する事になった。
すぐに開示してもらえるわけではなく、1週間ほど待った上で確認の書類が送られてきた。
書類が届いたその日に車で1時間ほどかけて取りに行った。

弁護士の方に「名前を使ってる実績が分かるようにスーパーとか家電量販店で新しい名前のカードを作るとか…」と言われたので、加入した日付が分かる書類もカードを作った日に頂いてきた。
スーパーや家電量販店とか身分証が必要ないカードは通称でも作る事は法律的に大丈夫なんだなと初めて知った。
どれだけ身分証が必要ないとは言え、何かあった時に証明できる名前と違う名前でカードを作る事には多少なりとも抵抗があった。
「後は3年ほど名前を使うこと」と言われた。

思い起こされる記憶をできる限り証明できる書類を揃えるため、弟に書面を書いてもらいかかりつけの精神科で診断書を出してもらう事にした。
幼少期にプライベートゾーンを触られた事は性被害にも虐待にも該当しないが、書いてもらえると言う事でお願いした。
思いの外、積もり積もった嫌悪感は大きかったようで、「謝る」と言っていたのに謝らないむしろ逆ギレする弟に腹が立つ。
書面を書いてもらったと言うより書かせたと言う表現の方が正しいかもしれないが、その足で精神科へ向かった。
先生は「これ(書面)があれば大丈夫ですよ」と言い診断書を書いて下さった。
私の診察が終わった後、母に連れられて診察室に入った弟。後日受診した際、「弟さん、いつもあんなにヘラヘラしてるんですか?」と先生に言われた。
何があったのかは知らないが、ヘラヘラしているように感じたのは私だけじゃなかったのだと思えた。これが改名までの心の支えとなっている。

全く仕事に出れなくなったので、8月分の傷病手当を申請した。
8月、9月と全く仕事に出れず、10月は下旬まで休んだ。
このままではダメだと思い、10月半ばから飲食店でバイトを始めるべく面接を受けに行った。
採用の電話を受けてから、バイトのない時間に自営の仕事に顔を出すようにした。
「子どもいても働きやすいよ」と教えてもらえなければずっと休職したままだったかもしれない。
バイトを始めた頃は上手く笑えなかったのでマスクをして出勤していた。そのうち素顔を見られたくない理由でマスク出勤が続く。

自営の仕事では親との家族経営のため名を変える旨を伝え、社内で周知している旨の書類を作成した。
実際、親には伝えていたので嘘ではないが、従業員2人だけなので周知という周知ではなかった気もするが。

名前が決まってからは新しく名刺を新調して、会う人には新しい名前で挨拶した。
同時に自分の名前を見るとゾッとするようになった。

これらの書類を持って、家庭裁判所に名の変更のための申立てに行った。
申し立て理由は3つ。幼少期に弟にプライベートゾーンを触られたこと。小中といじめに遭い、不登校だったこと。高校で性被害に遭ったこと。それらのことがフラッシュバックすることが原因だった。
参与員の聴き取りまでに1ヶ月。そこから許可が下りるかどうかの通知が出るまで1週間程見ておいて下さいと言われた。
医師の診断書はコピーして原本を返してもらった。
書類を提出してから2週間ほど経ったある日、10月10日に聴き取りの日程が決まった。
後日かかりつけの精神科へカルテをもらいに行った。お願いすると、「良いですよ」と追加しつつすぐに答えて頂いた。
カルテは郵送でも当日持参でも良かったので、当日に持参することにした。
カルテを出してもらうのが実費だったため出費は大きかったのは言うまでもない。
初めて見たカルテには『てんかん』の文字もあり、自覚のない症状名が書かれていた。
カルテに書かれている診断名に終了した日にちは書き込まれてなかった。

10月10日。参与員聞き取り当日。
申立ての書類を受け取って下さった方が部屋まで案内してくれた。
時間になると「どうぞ」と別室に通され、参与員の方と2人きりになる。
本人確認のため、免許証を提示してから聞き取りが始まった。
申立ての書類の内容と同じような事も聞かれた。何故この名前にしたのか。借金はあるか。名前を変えたら今の症状は楽になると思うか、など。
涙が止まらず上手く答えることが出来なかった。
聞き取りが終わると別室の待合室で待つように言われた。
やけに気持ちが穏やかだった。
再度、部屋に通され、参与員と書記官から結果を言い渡された。
結果は許可されなかった。
あぁ、やっぱり。という気持ちと愕然とした気持ちが入り混じって言葉が出なかった。
「条件が揃ってないので許可を出せません」とのこと。
その後、もう一度申し立てができることを伝えられる。2回目は裁判官の方と直接お話しすることになります、と。
次もダメかもしれないと言う絶望に近い気持ちと、ここで諦めきれないと言う自分を奮い立たせるような気持ちが入り混じった。
でもすぐには返事ができなかった。
部屋の中に沈黙が流れる。次も無理かもしれないと言う気持ちが胸を占め、なかなか返事ができなかった。
「もう一度お話の機会をください」。やっとの思いで絞り出した答えだった。
新しい書類を提示するように言われたが、そんな書類用意できるわけがないと思った。
でもここで分かりました。辞めときますと引き下がるには、毎日がしんどくて、しんどくて。
「また後日、裁判官との日程が調整できましたら連絡します」と言われた。
ダメだったと、車に乗ってから1人で泣いた。

数日後、次の聴き取りの日程の連絡があった。
10月23日。
書類の準備に時間がかかるならもう少し後でも大丈夫ですよ。とのことだったが、最短の日程でお願いした。
お願いしたが、それまでに新しい事柄を準備できる自信はなかった。
でもそれ以上後に引っ張るほどの気持ちの余裕もなかった。

2回目の聴き取りの数日前から、自営の仕事にもバイトの合間を縫って顔を出すようになった。
バイトのおかげかだいぶん笑えるようになった。でも気持ちはまだ苦しいままだった。

10月23日。
私が持っていける書類はほんの少ししかなかった。
予約確定画面と、園での写真注文の画面のみ。
両方とも新しい名前を使った。
予約2件、写真注文1件。A41枚にまとめて持って行った。
こんな書類じゃダメだろうと思った。何も準備できていないに等しいような状態で2回目の聴き取りが始まった。
今回は裁判官と書記官が同席された。
最初に体調は大丈夫かと確認された。
そして前回同様、カルテの内容の確認から始まった。昨年の10月から通っている理由。そこから間が空いて今年の4月からまた通院が始まっている理由。借金、犯罪歴の有無。何故この名前にしたのか。現在の状況は?どんな症状が出てるか。名前を変えると今の症状はおさまると思うか。
名の変更をすると2回目はできない事も伝えられた。
提出した名の変更を求める理由は自分で作成したのか、他の人に作成してもらったのかの確認もされた。
今回も涙が勝手に出てくる自分が嫌になった。感情が揺れ動いたからといって泣きたいわけじゃない。本当は冷静に話したい。
部屋から裁判官と職員の方が出て行った後、書記官のみ帰ってきた。
「許可されました」と一言。
嬉しさと実感が湧かない何とも言えない気持ちだった。
こんなにあっさり認められるものなのかと。
新しい名前の書かれて書類に印を押し、審判と書かれた用紙と余った切手をもらった。
新しい名前の書かれた用紙を見て、実感のないまま現実を噛み締めようとした。
「この用紙を持って市役所で手続きしてください」と指示を受けた。
車に乗ってから少しだけホッとした。
その足のまま市役所へと向かった。戸籍上の名前も変えた。やっと変えれた。

車の名義や園での変更手続き。口座や公共料金の名義変更とやらなければならないことは山積みだった。
めんどくささもあったが、これでようやく自分の使って来た名前と別れることができる安堵の方が大きかった。

そこから生活は少しづつ変わっていった。
毎日死にたいと願い、死ぬことばかり考えているにも関わらず息子を1人にはできないと葛藤していたことが嘘かのように希死念慮がなくなった。
入眠剤を飲んでも寝れなかった日々から入眠剤がなくても寝れるようになった。
過食と拒食を行き来していたのがなくなった。腹八分目とはよく言ったもので、フラフラする事もなく太りすぎる事もなくなった。
髪が抜けてくしが真っ黒になっていたのがおさまった。
頭痛も少しは軽減した。残りの痛みは眼鏡の度数でも合っていないんだろうと思う。
自営の仕事でも前よりは笑顔が作れるようになったと思う。

そのうち苗字も変えたい。
次の結婚では幸せになるために。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?