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部落出身者が受ける差別の整理&科学テクノロジーがもたらす差別

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おはようございます、国武りんです。
今回は大学の講義で作成したレポートをここで晒そうかなと思います。センシティブな内容になっておりますので、そこだけご理解ください。では、いってらっしゃい!!!

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(1)部落出身者が経験する結婚差別についての整理


 まず、差別というものがどういう風にして起こるのか、そのモデルについて整理してみる。前期近代社会において重要になってきたことの一つとして「合理的な内省」が挙げられる。自我形成におけるマッチポンプ的循環のなかで、他者からの期待に答えるため合理的な考えに基づいた反省や行動を通して自分を制御し、社会における「正しさ」を遵守しようという大きな流れがこの時代にあった。その中で、合理的ではない行動をとるであろうとされてきた人たちがいた。それがここで出てくる「部落出身者」だったり「女性」だったり「精神障がい者」だったり。彼らは、その人が属する共同体や人種の過去、またはその人が持つ病気から、そうではない人たちと比べ合理性に欠く、つまり「非合理的な存在」としてみなされた。そして、そういったレッテルを貼られた人たちは、自分たちとは違って合理的な考え方ができない・自分を抑えることができないのだという認識から、何をしでかすかわからないし何を考えているかもわからない異質な存在であると考える。そこから生まれる恐怖をもって、自分の娘とは結婚してはだめだという結婚差別や、障がいを抱えているんだから病院で入院しとけといったような障がい者差別が生まれる。このように整理すると、他人からの期待に答えるために他人を差別しているとも言えるだろう。合理的であるべきという社会性が、人間を差別させる強い原動力となってしまっているわけである。
 この差別までの一連の流れを今回の部落出身者が経験する結婚差別に当てはめてみると、歴史的な背景から一般的な地位よりも下であるとされた「部落出身者」は、それは彼らが「非合理的な存在」で少し距離をとるべき存在だからと考えられてきた。無知が及ぼしたこの考え方がその人の中に部落出身者に対する恐怖を生み、それがインセンティブとなって我が子や周りの大切な人を守りたいがために、もしくは自分が非合理的な存在だと思われたくがないために、家族にはさせないという結婚差別が生まれたと考える。この日本独特の差別は、まず1つに先にも述べた社会性や「正しさ」といったものがキーになってくる。もう1つあるのは、資料の中にあった「差別されるのが怖いから差別をしている」という深層心理である。これがもし要因のひとつとしてあるのなら、他人を犠牲にして自分を守っていることになる。自分や周りの大切な人を守るために、無関係な人を傷つけていいのか、それが本当に正しいことなのかは考えるべきことである。そしてこの深層心理から読み解けることとしては、これも資料に乗っているが「差別されるという想像が、差別への抑止力に繋がらない」ということである。むしろ、差別されるとどうなるのかという想像ができてしまうから、その恐怖を味わいたくないと積極的に他人を差別して「受ける側」を回避しているという側面もあるのではと推測できる。そして最後にもうひとつだけ差別のキーとなるのは「無知」である。バンド「SEKAI NO OWARI」は「知らないという感情と嫌いという感情は極めて近いところにある」という。まさに、差別を受けている方々がどんな過去をもっていて、なぜ今もなお差別が続いているのか、それについて当の本人はどういったことを考えているのか、普段から彼らは何を思いどう過ごしているのか、これらを差別する側がいっさい知らないということが、差別を生み出すひとつの要因として考えられる。これらの要因をひとつひとつリストアップして丁寧に潰していくことが、差別を0にするための手段であろう。


(2)科学技術を用いた遺伝情報に基づく差別と、部落民が経験する差別の同じ点、異なる点について


 まず同じ点に関しては、両方の差別ともその人を1人の人間としてみるよりもその人が将来自分や周りの人に不利益をもたらすのではないかといったような、まるで「道具」のようにみている点である。こういった損得勘定や人間としてみないという倫理の欠如が、差別を生み出しているという点で同じであると考える。また、その人があたかも普通の人と比べ劣っている人間であるかのように考えている点でも同じだろう。例えその人が部落出身者であろうが、遺伝的に将来大きな病気を起こしそうであろうが、それが人間として劣っているかどうかは全く関係のない話である。いわばその人の個性、パーソナリティに極めて近いものであり、合理的に考えるならそういったものをむしろインクルージョンしていく方向に舵をきった方が、複雑系の科学という観点から人類が残れる可能性が高いわけだ。決して優劣の話ではないし、それをいうなら知性という面においてアルベルト・アインシュタインよりも我々は劣っているわけなのだが、自分で範囲を限定するというせこい価値観で劣っているとみなし不当な扱いをするという点において同じと考える。
 次に違う点として、差別を行う際の動機が「科学的な観点に基づいているか否か」があります。これまでの差別は、なんとなく歴史的に不当に扱われてきたからとか、そういった扱いを受けた子供だからとか、科学的な正しさとか理論的な正しさではなく、「なんとなく」というシステム1(感情)が動機であったのに対し、遺伝情報に基づく差別は「10年後にこの病気にかかる確率が高い」とか「生まれてくる子供が先天的障がいを持つ可能性がある」とか、そういった科学的な観点が動機になっている。これまでの正しさというのが倫理というところからきている相対的正しさであったのに対し、科学テクノロジーを用いたことによって起こる差別は絶対的正しさに変わるという点で、この二つの差別は違う。


以上となります。ご指摘やご意見ありましたらぜひ!!

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