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最終話 連載小説 2020年代という過去<10章 未来から来た理由> #10-3 空
目次
前話 10章 生きづらい時代 #10-2 遺伝子を残せなくても
眩しい光の中に浮かんでいる感覚に包まれ、純は瞼を開いた。段々と焦点が合ってくると、見覚えの無い無機質な天井と向かい合っていることに気付く。
「純さん、お目覚めですか?」
どこからともなく声が聞こえる。どこかで聞いたことがある声のような気がするが、意識が朦朧として考えられない。
「もうすぐドクターが来ますのでお待ちください」
ぼんやりとしていた感覚を取り戻しながら、純は声の主に気付いた。
“ゼウス! ゼウスなの?“
声に出したつもりが、口を少し動かせただけで音にはならず、息が漏れただけになってしまった。
どこかから近付いてくる足音が聞こえる。ドアが開く音と同時に男性の声が聞こえた。
「坂下純さん、目が覚めましたか? よかった。」
純は指を動かしながら声を絞り出す。
「…うぅ…あ」
「ああ、無理しないで。なんたって10日間も意識不明だったから、すぐには声も出ないでしょう」
そう言いながら純の顔を覗き込んでくる男性には見覚えがなかった。四十代前半くらいだろうか。悪い人には見えないが、体を動かせない純は警戒する。純は何度も瞬きをしながら、じっと男性の顔を見つめた。
「まだ混乱しているかもしれませんが、何も心配することはないので落ち着いてくださいね。10日前、あなたはご自宅の近くの階段から転がり落ちたんです。そこで…うーん、きっと打ちどころが悪かったのでしょう。大きな怪我はしていないのですが、意識を失ってしまったようです。でも脳波にも異常が無かったので、精神的ショックによるものだと思います。後でもう少し検査しますが、ひとまずは意識が戻って良かったです。今、お母さんにも連絡しますね」
純は朦朧としながらも、男性がドクターであることに気付いた。しかし、彼の話す内容は全く理解できなかった。理解できない中でも、ドクターの割に曖昧な説明をすることに違和感を覚えた。ドクターから見ても、純の症状は原因不明なのでは無いだろうか。
現状を把握しようと考えるほど、純は混乱した。先ほどまで麗華の部屋にいたのだ。九ヶ月間、麗華の家で暮らしていたのに。麗華と一緒に眠りについた…そこまで覚えているのに。
「純!」
通信がつながると同時に、純の母親の声がした。目線を横にやると、母のホログラムが映し出されている。
「純…良かった。もう、どうなることかと…」
ボロボロと涙を流す母を見て、やっと純は理解した。自分の時代に戻ってきたのだ。母がいる。ゼウスがいる。2128年だ。
ずっと母に会いたかったのに、ずっとゼウスがいる生活に戻りたかったのに、元の時代に戻れた安堵と同時に、強烈な喪失感に襲われた。
“麗華…”
まだ音の出せない口で、麗華の名前を呟いた。母もドクターも、純はただ口を動かしただけだと思った。
**********
「麗華…」
純に呼ばれた気がして、麗華は目を覚ました。枕元に置いてあった携帯を見ると朝6時53分だった。この日は7時30分にアラームを設定していたため、まだ少し時間があるが、なぜだか二度寝する気になれず、ベッドの中で呆然としていた。カーテンの隙間から差し込む朝の光をしばらく眺める。先程の純の声は気のせいだろうか。夢を見ていたような感覚は無かったため、もしかしたら今が夢の中なのではないだろうかと思った。
隣で寝ていたはずの純の姿は無い。先に起きたのだろうと思ったが、リビングやキッチンからも物音は聞こえない。純の姿を探しにいこうと掛け布団を持ち上げながら起き上がる。それと同時に、自分でも聞いたことのないような声が出た。
「ひぁっ」
麗華が寝ていた隣、掛け布団と敷布団の間に、純の抜け殻のようなにパジャマが挟まっていたのだ。いつも純が着ているパジャマが、純の寝姿を表現するように残っていた。麗華は掛け布団を全部めくりあげた。もちろん純はいない。パジャマを持ち上げると、パジャマの隙間から、はらはらと上下の下着がこぼれ落ちた。
「純!」
麗華は、棒立ちのまま、手に持ったパジャマとベッドの上の下着を見つめた。7時30分のアラームによって正気を取り戻すまで、麗華は放心状態だった。
震える手でアラームを止め、麗華はクローゼットを開けた。
「やっぱり」
保管していた服が無くなっている。初めて会った日に、純が着ていた服だ。
「ああ…帰ったんだ。帰れたんだね。純」
そう呟いて、気が抜けたようにクローゼットの前に座り込んだ。不思議なことに麗華は、純が元の時代に戻ったことをすんなりと理解した。純の時代の物を持って、この時代の物を残して、戻ったんだと。
何もかも夢だったとは思わない。純は確実に存在し、互いに大事な影響を与えあうことができた。必要不可欠な出会いだったと確信していた。
お互い出会う前の日常に戻るだけだ。でも、ただ戻るわけではない。麗華は未来に向けて戦っていける。純は未来で私たちの想いを記事にしてくれる。寂しさで泣くのは今日だけにしよう。
その日は久しぶりに出社する日だった。いつも通りに着替え、いつも通りのメイクをして、いつも通りの時間に家を出た。
見上げた空が、いつもより広く見えた。